No, di voi non vo’fidarmi - 2/5

 ミーティングを終えた東横は、会議室を出るなり携帯電話を開いた。目黒から書類を預かってしまった以上、早めにみなとみらいを捕まえておかねばならない。
 東横が居場所を聞くと、みなとみらいは自路線の終点にいると答えた。
 「元中で待ってからー」と終点の駅――元町中華街を縮めて当然のようにのたまったみなとみらいに対しては、年長者である自分に来させるとは何事だ、渋谷とは言わないがせめて横浜まで自分で赴いたらどうだ、とでも言ってやろうかと思ったが、結局東横は彼の路線まで乗り入れている特急に乗ってしまっていた。誰の影響なのやら、あの子供はなかなかに減らず口で、それにまともに付き合って疲れてしまうのはいつも東横の方なのである。

「おっそいよ東横、オレ待ちくたびれちゃったじゃーん」

 だからせめてこれくらいは、と顔を見るなり開口一番で失礼な事を言う頭をぺしりと強めに叩いて、元町中華街駅のコンコースの隅で、東横は派手にも程があるパーカーに身を包んだみなとみらいを冷ややかな視線で見下ろしていた。

「いったあ……! 何すんだよ、とーよこ!」
「何もクソもあるか、自業自得だ、この馬鹿」

 目に涙を湛えて頭を押さえる少年を鼻で笑って、東横は片手に携えていた封筒を取り出した。東急の社章の入ったそれをん、と差し出すと、案の定と言うべきか、みなとみらいはきょとんとした表情を浮かべる。

「ん? 何それ」
「みなとみらい号の運行についての最終確認書類だ。……今週だろ? 大丈夫なのか、その体たらくで」
「んー? ダイジョブダイジョブ、当日頑張るのはオレじゃないもん、頑張るのはオレよりもメトロと都営と目黒じゃん?」

 ――全然大丈夫じゃない、と思う東横の感覚は間違ってはいないはずだ。
 けらけらと軽く笑って封筒を受け取るその額を、今度は指先で弾いてやる。真ん中から二つに分けた前髪を揺らし、うわ、とオーバーによろけてみせる姿を眇めた目で睨むと、嫌な予感でもしたのだろうか、まあまあ、とみなとみらいが声の調子をやや真面目にさせた。

「何度もミーティングしてっし、大丈夫だよ。東横に迷惑掛けないって」
「ふん、ならいいがな」
「何だよもー、こう言う時くらいさ、『任せたぞ、MM』とか言ってくれたっていいじゃん?」
「日頃から色々な事をオレに丸投げしてるやつが言えた義理か!」

 東横の口調まで真似てみせたみなとみらいは、路線も彼自身も日頃から東横にべったり――と言うより、本人に至ってはほぼおんぶにだっこの状態で、自分は自路線内で遊び呆けてばかりなのだ。そんな彼に一切を任せる事なんて勿論出来るはずのない東横は、数日後に差し迫ったみなとみらい号の運行日、みなとみらいに付き添ってあれこれと働く羽目に陥っている自分を想像して嘆息を吐いた。このゆとりめ、いつか覚えていろ、と心中で密かに呪詛しておくのも忘れない。

「兎に角さ、みなとみらい号は何とかなるって。毎年やってんじゃん」
「……まあ、それはそうだが」
「それよりも、だよ! 東横!」

 目に痛い青と黄色のパーカーのフードがふわりと踊って、びしりとみなとみらいがわざとらしく人差し指を突きつけてくる。その指先をやんわりと手で制し、珍しく真摯な眼差しで己を見つめてくる黒の瞳を、僅かな困惑を覚えつつ見返す。

「人を指で指すな、失礼だろ。……で、何だ」
「今週末!」
「はあ?」
「はあ、じゃねえって、あーもー! クリスマスじゃん!」

 今週末がどうした、と言いかけた言葉をすぐさま飲み下したものの、かと言ってとっさの罵倒を返す事も出来ず、東横は頬の筋肉をひくりと引き攣らせた。またクリスマス、だ。

「………だからどうした」
「ちょ、目、東横、目、怖いってば」
「いいからクリスマスがどうしたかさっさと答えろ」
「こえーってばとーよこー!」

 ずいと寄せた東横の顔の前に衝立のように掌を立てたみなとみらいが、その隙間からちらりと顔を覗かせる。その窺うような視線はやはりいつもの彼を考えてみればらしくないもので、クリスマスと言う単語を聞いて反射的に構えてしまったものの、もしかしたら深刻な悩みや相談でもあるのかもしれない、と思わせるには十分な弱々しさであった。

(……オレも少し大人気なかったか)

 年若く第三セクター路線として色々と面倒な事もあるであろう彼に対して、ここは一つ、長きに渡る運行経験から助言なり何なりしてやろうではないか。

「それで?」

 思い直し、張っていた気を緩めて問い掛ける。するとみなとみらいは掌をするすると胸元まで下ろし、ぽつりと不明瞭な小声でプレゼント、と囁いた。

「クリスマスプレゼント、欲しいなー、東横から」
「……お前は」

 逸らしていた視線を真正面へと戻したみなとみらいがこちらの顔を見てひ、と肩を震わせたが知った事ではない。逃げようとする彼をフードの裾を掴む事で引き留めて、東横は声量を抑え、その分鋭くさせた声で少年を怒鳴りつける。

「歳暮ならとっくに送っただろうが! 甘ったれるな、馬鹿が!」
「東横がクリスマス嫌いなのは知ってっけど、お歳暮はお歳暮、クリスマスプレゼントはクリスマスプレゼントじゃん……! つーか東横痛い、パーカーのフードってそゆ事する為に付いてるんじゃねーから……!」

 首が絞まる、と文句を言いながらもがくので、仕方なしに手を離してやる。けほけほと数回咳を零して息を整えると、みなとみらいは腰を屈めさせたまま怨めしげに東横を見上げた。

「バイオレンス過ぎるって、東横……! オレを殺す気かっつーの」
「殺す訳がないだろ。お前みたいなのでも、いないとオレが困る」
「………」

 これくらいの荒っぽい行動なんて、東横とみなとみらいの間では日常茶飯事だ。だからしれっと言い返してやったのだが、なぜか言葉を聞いたみなとみらいが目をきょとんとさせた。大きな少年らしい黒目がちの目をぱちぱちと瞬かせ、先程までの息苦しさも忘れたような顔で東横を見つめている。

「何だよ、その顔は」
「いや、何でもない。やっぱオレ、東横好きだわ、うん」
「は……?」

 超好きだわ、と繰り返し、うんうんと訳知り顔で頷いて、みなとみらいが屈めていた身をさっと起こした。
 まっすぐ立っても東横と二十センチ近い差があるものの、しゃんと立って八重歯を見せる笑みは人懐っこくてあたりのいいものだ。少なくとも、東横はそんな風に愛想良くは笑えない。

「オレの我が儘だけどさ、気が向いたら叶えてよ、東横。ホラアレ、可愛い弟の頼みだと思って!」
「何が弟だ。お前みたいなやつ、弟にした覚えはないぞ」
「まーまー」

 へら、と脱力させた笑みを見せて、みなとみらいの手がぽんぽんと東横の二の腕を叩く。

「書類あんがとな、東横。ちゃんと読んどく」
「当たり前だ」
「そろそろ折り返しの特急出ちゃうぞ? ぼちぼち乗っとけば? まだ仕事あんだろ?」
「……ああ」

 細かに語尾を上げて問い掛ける言葉の通り、まだ渋谷に仕事を残している。手首を引き上げて時刻を確認してみれば、確かに二分もしない内に渋谷行きの特急が発車してしまう時間であった。頃合いもいいし、そろそろ戻り時だろう。

「サボるなよ、MM」
「分かってるって! 東横も仕事頑張れよー?」
「お前なんかに言われなくても。………それより、MM」

 ぽん、と渋皮色の頭を叩いて言うと、何が楽しいのか、みなとみらいはへにゃへにゃと顔を緩ませて頷く。夏にでもならない限りはまるで制服かのように着倒している(と言うか、彼は制服のつもりなのであろう)パーカーから伸びる首元が少し寒そうに見えて、そう思った次の瞬間には問い掛けてしまっていた。

「寒くないのか、それ」
「ん? ……そーだなー、まあちっと寒い時もあるけど。でもオレ、全駅地下ホームだし。そんなキツくはないけど」

 別れ間際の会話にはそぐわない話題だ。問われた方もそう思ったのだろう、目を丸くさせて小首を傾げながら返すMMの服装をぼんやりと眺めてから、東横ははっとして腕時計を見直した。そろそろ電車が出てしまう。

「それじゃ、またな」
「おう! またなー!」

 ぶんぶんと手を振るみなとみらいを尻目に、すぐ隣に設置してあるエスカレーターを早足で駆け下りる。そのまま流れるように停車していた五〇五〇系の最後尾に乗り込むと、東横は後頭部をこつりと車掌台の背後の壁に押し付けて小さく息を吐いた。
 見下ろす掌には、未だにみなとみらいの柔らかな髪の感触が残っている。

「………ふん」

 目の前の中吊りには、丁度みなとみらい号の広告が吊ってある。そこに描かれた横浜の夜景と、別れ間際に見た笑みとを頭の中で並べて浮かべ、東横はさもつまらなさげに鼻を鳴らす。
 ――数え上げてみれば、クリスマスまではもう片手の指の数も日がなかった。