No, di voi non vo’fidarmi - 4/5

 みなとみらい駅から渋谷へ戻って手袋を取り、そこで暫く仕事をこなしてから菊名へと取って返す。JR横浜線との乗換駅であるそこで仕事をして随分と経った頃、ようやく東横は大井町の頼み事を思い出すに至った。
 しかし時は年末、それもクリスマスとあって、東急の各線は列車を増発させた臨時ダイヤでの運行を行っている。臨時列車を走らせなければならないと言う事はつまりそれだけ乗客数が多いと言う事で、忙しさにかまけていたせいで時刻はとっくに深夜になってしまっていた。

(――マズい、か?)

 夜には違いないが、日付を過ぎる頃になってしまってはいかんせん遅すぎる。彼女の所在を掴もうと電話を掛けると、折りよく数コール程で受話口越しにはつらつとした声が聞こえてきた。

『はいはい、町姉さんですよっと。どうしたの、東横』
「悪い、大井町、まだ自由が丘に行けてないんだが」

 正直に率直に本題を切り出すと、来いと告げてきた張本人であるはずの大井町は「え」となぜか素っ頓狂な声を出した。もしかしたら、多忙のあまり彼女も昼間に言っていた事を忘れていたのかもしれない。

「――あ、ああ、そうなの? ちょっともう、アンタ今どこにいるのよ?」
「菊名」
「ああ、じゃあ今から向かってくれればいいわよ。多分丁度いい頃だし」

 うんうん、と電話の向こうで大井町が頷く、その後ろで電車の走行音が聞こえた。随分と悠長な語り口だが、彼女自身は一体どこにいるのだろうか。

「何だよ、その『丁度いい』って」
「あー、何でもないのよ、こっちの話。それじゃあ頼んだわよー」
「………ああ」

 どこか腑に落ちない所はあるが、終電まで一時間を切っている今は自由が丘に顔を出すのが先決だろう。取り敢えず書類を確認して、時間が掛かるようなものならば持ち帰ればいい話だ。
 日付が変わったばかりの渋谷駅は混雑を極めていて、丁度発車時刻を迎えていた特急もひどい混雑具合だった。仕方なく職員に言って車掌台に同乗しつつ、小さな窓越しに見える車内をぼんやりと眺める。
 一つの事に気が付いて、ああ、と東横は息を吐いた。いつの間にか、日付がイブを過ぎてしまっている。
 今日はもうクリスマス当日なのか、と思っても実感は湧いてこなかった。そもそもイブのうんと前から街はクリスマスムードだったのだ。当日を迎えた所でその濃度が濃くなるくらいで、各所の混雑以外の大した変化は訪れないのだろう。

(……だから馬鹿馬鹿しいと言うんだ)

 車掌に礼を言って、自由が丘で下車する。自分のサインが必要と言うのだから恐らくは東横線の書類なのだろうが、乗換駅に関係したものになると他路線の場合もままある。まずは自路線の職員に確認を、とふと顔を上げた所で、いやに見覚えのある背格好をした背中を視界に収めてしまった。
 部分的にガラス張りになっているホームの壁から、じっと眼下のロータリーを眺めている男がいる。社からの支給である黒いトレンチコートを着た背丈は丁度ブーツを履いた東横と同じくらいで、対面的に有利になる事もあると言う下らない理由の為に伊達眼鏡をしている男だ。

「――オレの駅で何をしている、田園都市」
「お前だけの駅ではない、大井町もいるだろう」

 この男は、こうしていちいち東横の揚げ足を取るのがことのほか好きらしい。全く腹立たしい事だ、と舌打ちして、東横は手袋に包んだ手を腰に当てて田園都市を睨み付けた。

「で、本当に何の用だ」
「大井町に呼ばれて来たのだが、肝心の本人がいなくてな。それで連絡してみたら、通達事項は東横も知っているからそちらに聞け、と言われたのだが」
「はあ?」

 その不在であるらしい大井町に呼ばれた所である東横は、一体何の事なのか分からなくて顔を顰めさせた。呼ばれたのは東横とて同じだし、田園都市にも伝えなければいけないような事項は今は抱えていない。訳が分からぬままそう言うと、田園都市はロータリーの景色を背景になるほど、と肩を竦めた。

「………大井町の策略に乗せられた訳か、わたしは」
「は? 何なんだよ、意味が分からん」
「安心しろ、と言うべきかは微妙だが……。恐らく、その書類があると言うのも嘘だろう、東横。わたし達は大井町に担がれたらしい」
「なぜ!」

 ふむ、と顎に手をやって、田園都市の眼鏡越しの目がじっと東横を見る。東横には何を考えているのか、何を言おうとしているのかも読めない瞳だ。

「――わたし達と言うより、あれが担ぎたかったのはわたし、か」
「田園都市?」
「何でもない」

 東横と共に降りてきた乗客はとうにいなくて、後はぽつぽつと終電間際の電車を待つ乗客がいる程度だ。トレンチの裾がふわりと舞って、さて、とガラスの向こうを見遣った無感情な声が呟く。

「どうするべきか」
「どうもこうもないだろ、さっさと渋谷に戻れ」
「東横、お前はどうする」
「――そうだな……」

 腕を組んで考える。田園都市の言う通り本当に書類の事が嘘なのだとしたら、東横もこの駅にさした用はない。終電が近いのだから渋谷に戻るべきなのだろうが、田園都市と同じ列車に乗って帰るのも何だか嫌だった。

「そう言えば」

 ひた、とガラスに手をついて、田園都市が至極どうでもよさそうに切り出した。

「ここもライトアップをしているのだな」
「ああ………。今月の始めに点灯式だのと言って色々やっていたが」

 進んでやりたくはないのだが、ガラス張りになっているのはホームの端、ごく一部だ。たった数歩を歩くのにひどく消耗した気分に陥りつつ、田園都市の横へ並ぶ。足下をギフトボックスに覆われた女神像は昔からこの駅にあるものだが、今の時期だけその背後を色鮮やかなLEDで彩っていた。ともすれば寒々しさすら感じるような色が、ゆったりとグラデーションを描きながら変わってゆく。

「今年でここも暫くはやらないからな、工事がある」
「そうだったな」

 吐く息が白く色付いている。大きく胸元へ垂れた襟のせいで首筋が寒くて、隣の男がトレンチの襟をきっちりと止めているのが恨めしかった。

「………寒い」

 職員にも他の路線にも漏らしていなかった文句が、よりによってここで零れてしまった。女神像とその後ろの木とを見ていた目の上の眉がひくりと僅かに上がって、田園都市がゆっくりとこちらを向く。

「天候くらい分かっていただろう。もっと厚着をしたらどうだ」
「うるさい、オレだってそれくらい分かってる」

 ぶるりと肩を震わせ、しかしその震えを指先まで届ける事はせずに手を握り締め、噛みつくように声を尖らせる。

(最悪だ)

 寒いせいで頬が刺すように痛むし、行き交う人々も乗客も皆どこか浮かれているし、――それなのに。

(――こんな時に限って、オレの隣にはこいつしかいない)

 ふ、と隣で田園都市が吐息を吐く。その雲のような息を辿っていけば当然ながら目が合って、なぜか襟元へ手を伸ばしてしまっていた。
 深緑をしたネクタイを引っ張って、顔を引き寄せる。合わせた目は至近距離になっても冷ややかなままで、悔しさのままに唇を奪った。

「………」

 ただ唇を押しつけただけなのに、なぜか呼吸が速くなってしまっている。彼とのキスだって、初めてと言う訳ではないのに。

(ああ、でも口論中以外は)

 いつもは二人で喧々囂々とやっている最中、五月蝿い口を塞ぐ為にしている事である。何の予兆もなしにしたのは初めてだったかもしれない、と思いながら唇を荒っぽく甲で拭うと、どこか呆然とした表情の田園都市がくい、とキスのせいで僅かにずれた眼鏡のブリッジを押し上げた。

「………東横?」
「うるさい、黙れ」
「まだ何も言っていないのだが」
「言おうとしただろ、黙れ」

 勢いでやった事に関して論理的な反論をされても敵うはずがない。早口で捲し立てて先手を打って、東横は真下で瞬くロータリーの明かりを見下ろした。
 心掛けよ、と大井町は言っていたが、結局の所、何をどう心掛ければいいのかも分からない。東横に言える事があるとするならば、着てくる服を失敗したせいで寒くて仕方がないと言う事と、そろそろ今日の運行も終わりそうな事と、目の前の男が兎に角気に障って仕方がないと言う事だ。

「……酒が飲みたくなる」

 思わずぼやくと、ひく、と田園都市の目尻が引き攣った。

「では、行くか?」
「……はぁ? お前と?」

 薄い唇が開いて、また何事か嫌味でも言われるのだろうか、と身構えた東横の耳に、予想外の言葉が飛び込んでくる。

「赤坂の辺りなら、落ち着いていてそれなりの酒を出す店を知っているが」
「………う」

 何の魂胆があるのかと睨み付ける顔は、いつもと変わらぬ仏頂面だった。誰がお前なんかと、と突っぱねてやりたい気持ちと、酒を呷って気を紛らわしたい気持ちとを天秤に掛けて、ついに東横は己の願望に折れてプライドに目を瞑る事にした。

「お前持ちなら、行く」
「……構わないが、あまり飲むなよ」
「うるさい、お前に言われなくとも、大井町のようなザマにはならん」
「ならいいが」

 くるりとホームの壁に背を向けて、田園都市が線路の方を向く。並べる肩がぶつかりそうになったのに焦って半歩程距離を置きながら彼に倣って身を翻し、ふん、とさも不本意であるように聞こえるように鼻を鳴らす。

「………じゃあ、とっとと行くぞ」

 クリスマスの習慣が己の中に根付いていなくてよかった。普通の人間ならば、「何でクリスマスに男と飲みに行かねばならない」と反発する所だろう。

(金を使わずに飲んでいいと言うなら、今日くらいはこいつの誘いにだって乗ってやる)

 これでは大井町に偉そうな事は言えないかもしれない。だが、東急東横線とてたまにはヤケ酒の一つくらいしたっていいだろう。
 ――隣の男が横目で見つめているのをひたすらに無視して、東横はそうして無言のまま上り行の列車が来るのを待つのであった。