「やっぱり東横ばっか、ずりい」
そう漏らしてオレンジジュースを啜ったのは、東急東横線の直通先の一つ、みなとみらい21線である。ガラス張りの壁の向こうを見つめる唇はつんと尖っていて、10代前半の背格好によく似合っていた。
「何がだ」
「何が、って! 4000の事に決まってんじゃん!」
東急の東横贔屓! とよく分からない罵倒を受けたが、みなとみらいは他社である上に、東横は東急の主要路線だ。多少の贔屓など寧ろ当然で、東横に言わせてもらえばそれも些か遅い対応だと言ってもいい。
MM――みなとみらいが4000、と言ったのは、東横の新型車両の事だ。10両で特急を走らせているメトロ副都心線との直通対応を施した、5050系の10両編成である。
「やっとだぞ、やっと」
すまして言うと、深い栗色の目がじっとりと東横を見ていた。そのまま、恨めしげに呟かれる。
「……とーよこのばか」
「日本には昔から伝わる常套句が幾つかあってだな。その一つをお前に言ってやる」
コーヒーを一口飲んで、カウンターを叩く。昼前のぽっかりと空いた時間帯の狭い店内に、その音はやけに大きく響いた。
「馬鹿と言った方が馬鹿なんだよ!」
「そ……そんな事威張って言うなよ、東横の馬鹿! ばかばか!」
仕舞いにわぁん、と喚いて、みなとみらいは手元のカップに残ったジュースをずるずると啜り上げた。
昼前の、それも駅ナカに設置された喫茶店ともなれば、待ち合わせや乗り換えの時間潰しに使われる事が多い。今もその例に漏れず、東横とみなとみらい以外に、長々と居着く者の姿はなかった。
社のロゴを象ったピンで止めてもなお跳ねる癖毛のシルエットが、目先のガラスにうっすらと映っている。ちょいちょいと毛先を直しながら、東横は軽くなったカップを小さく揺すった。
からり、とプラスチック製のカップを叩く氷は角が丸くなっていて、中を満たしていたコーヒーも残り半分を切っている。けれども、二人の待ち人はなかなか来なかった。
「……帰るか」
「えぇっ、30分も待ったのに? 折角来たのに? 帰んの?」
「この俺を30分も待たせてるんだぞ、十分だ」
緩くなっていたネクタイを締め直して、コーヒーを飲み干す。そもそも、検車になった車両の様子を見に来たついでに、ミーティングで落ち合わねばならないのを待ってやっていただけなのだ。自路線の区間ならばまだしも、他路線の駅でここまで待たされるのならば、東横はもうこれ以上の我慢は出来ない。
待ちわびていた声が聞こえたのは、眉尻を下げる子供に行くぞ、と言って、線路を見下ろすカウンター席から立ち上がろうとした、その時であった。
「すまない」
持ち上げようとしたカップを伸びてきた手に奪われて、背後から声をかけられる。振り返って見遣った男は、みなとみらいと東横、二人分のカップを一瞥してから、東横の方へちらと目をやった。
「噛み癖を直したらどうだ」
「五月蠅い! 東横線を待たせておいて、他に何か言う事はないのか、お前は」
「……遅れてしまってすまない」
短く呟かれた謝罪に、みなとみらいが小さな頭をぴょこりと持ち上げる。青のパーカーのフードが翻って、子供らしい高い声が田都、と男の名を呼んだ。
東急田園都市線。このカフェがある、長津田駅の主である。
「田都、遅かったじゃん。何かあったの?」
「こどもの国に捕まってな。少し遅れた」
「少しだと! 30分だぞ!」
無表情であるせいで、田園都市の顔から感情を読み取るのはなかなかに難しい。黒い前髪が影を作るので、グレーの瞳からもその機微は汲み取りづらいのだが、立ち上がって距離を詰めると、彼の襟元からは微かに春先の冷えた空気のにおいがした。外で仕事をしていたと言うのは、嘘ではないらしい。
「……とーよこ、でんと、何か怖ぇし顔近ぇ……」
言いながら、みなとみらいが東横の袖を引く。確かに少年の指摘通り、気付けば二人の距離は肩が触れ合いそうな所まで縮まっていた。
「っ……」
「捨ててくる」
慌てて足を引こうかとしたが、田園都市が離れるのが早かった。ひらりと踵を返して、回収した二人のカップを捨てに行ってしまう。
「こどもさぁ、何か用だったのかな? さっき俺に言えばよかったじゃんな」
「お前じゃ力不足だからだろ」
「うええ」
この駅を始発とするこどもの国線は、管理運行は東急が行っているものの、所属はみなとみらいと同じ横浜高速鉄道だ。用入りならば先程顔を出した時に言ってくれれば時間はかからなかったのだが、この駅を通るものにしか通じぬ話なんて幾らでもあるだろう。その名の割に歴史の長いこどもの国は、みなとみらいを軽んじるきらいがある。子供に用件を頼むくらいならば、慣れていて信頼のおける田園都市に頼んだ方が話が早いと判断したのだろう。
「こどもの国との話は済んだんだろうな?」
「ああ。取り敢えず、ではあるが。後は渋谷から戻ってきた時にと伝えてある」
「ふん」
鼻を鳴らして、東横はぴっとジャケットの襟を正した。襟元で、赤い社章が誇らしげに光る。
「なー、俺にも10両入んねぇのー?」
「しつこい。そこまで言うなら、そこの緑色から一編成丸ごと貰ってこい」
言い縋るみなとみらいをすっぱりと切り捨てて、東横はカウンターテーブルの向こうに見える車体を見遣った。ここからではほとんどパンタグラフと車体の上部しか見る事は出来ないのだが、発車していくとそれが彼の5000系であると分かる。
走り去る車体を彩るのは赤と緑、東急のコーポレートカラーと、田園都市のラインカラーだ。
「ならさっさと行くぞ。仕方ないから5000に乗ってやる」
5000系のATCデータを引き継いで改良したのが、東横の5050系だ。データ収集の意味合いにおいて、5000系は5050系の叩き台になった車両であった。
5000系は5050系の為に存在している車両であるし、5050系は5000系なくしては存在し得なかった、と言う事だ。
(馬鹿馬鹿しい)
それでふと気が向いてしまって、駅務員室ではなくこのカフェで男を待っていたなんて、本人には口が裂けても言えやしない。言ってしまったが最後、顰め面をされて頭の心配をされるに違いない。
「さっさと渋谷に戻るぞ」
「異論はないが、……そもそも、なぜ三セクがいる」
「何だよ-、いいじゃん。社会見学も必要じゃん?」
三セク、と呼ばれたみなとみらいが胸を張って、田園都市がいかにも呆れた風に肩を竦めた。監督不行届とでも言いたげな視線を送られて、思わずこめかみがひくついてしまう。
「……そんな目で俺を見るな。こいつが五月蠅かったんだよ!」
「まぁ、別にいいのだが」
言って、田園都市はくいと眼鏡のブリッジを上げ直す。ぽつりと付け加えられた「そもそも、5000系が来るとも限らないのだが」と言う揚げ足取りの一言に、ついに東横はブーツのヒールで彼の脛を蹴り飛ばしたのであった。