No, di voi non vo’fidarmi - 1/5

 この国の首都の名を冠した広げっぱなしの雑誌を横目に、東急大井町線はあからさまな吐息を吐いた。
ざわめきが、分厚い壁を隔てたすぐそこから聞こえてくる。十二月――師走と言うだけあって、行き交う人々は皆慌ただしげだった。
 年の瀬には色々なものが人々を待っている。年末年始の休暇と、それに伴う一部業種の年末進行と、定期考査の結果に冬期休暇中の課題、――それから、忘れてはいけない。

「クリスマスよ」

 渋谷駅、東急が管轄する新しく建設された駅舎のとある場所にある会議室。自分でもお気に入りのウェーブがかった茶の毛先をくるくると弄んでいた手でぴしりと人差し指を立てて、大井町は誰にともなく宣言した。

「恋人達の季節だわ」
「つまり?」
「つまり、アタシは今年も独り身って事よ! 分かってるでしょうが、目黒の鬼っ! 意地悪よ!」

 備え付けの流し場で人数分のコーヒーを淹れながら合いの手を入れた目黒線を一睨みして、大井町は派手な泣き真似と共に机に突っ伏した。

「まあまあ、今年に始まった話じゃないじゃない? 大井町」
「ちょっと、何気にひどいわよ目黒!これ以上泣いたら美人が台無しになるじゃないの!」

 突っ伏した時と負けず劣らずの勢いで顔を上げ、短く尻尾のように括られた後頭部を睨みながら吠える。同じテーブルには田園都市線も座っていたのだが、彼は日経新聞を広げる事で大井町のくるくると変わる顔と張り上げられる声を遮っていた。つまり、大井町が何かをぶつける相手は、今この場には目黒しかいないのである。
 ――だが。

「そうだな、あまりギャンギャン喚くとと厚い化粧が崩れるぞ」

 会議室のドアをゆったりと閉めながら、大井町に対して地雷どころか核弾頭を抱えてぶん投げるような発言をした癖毛の人物へ、言葉を聞くなり大井町は柳の眉をきりりと吊り上げた。

「東横!アンタねえ、入ってくるなり何なのよもう! どこから聞いてた訳!?」
「お前がダサい三文芝居を打った辺りからだな。――目黒、オレにもよこせ」
「おかえり、東横。今淹れてるから待ってくれるかい」

 大井町の罵声も何のその、今日も一人だけ改造した制服(ちなみに、東急は全員濃いグレーのスーツが制服代わりである)の東横線が、迷いのない足取りでテーブルの中央、ホワイトボードを背負った真正面の席へ腰掛ける。いわゆる「お誕生日席」の位置に当たるそこは東横の指定席で、今日も今日とてそこへ座る彼に何かしらの文句を言う人物はいようはずもない。

「東横、メトロのとの打ち合わせはどうだった」
「お前に報告しなければいけないような事は、何も。副都心線とオレの相直はお前には関係ない案件だろうが」

 東横から見て右手側、一つ席を空けて座っていた田園都市が、新聞を閉じながらじっと東横を見つめていた。その何の感情も含んでいないような眼差しが東横にとっては気の落ち着かぬ苛立たしいものであるのだが、田園都市本人は東横がそう思っている事は全く気付いていないようであった。否、気付いていないと言うより、気にするような素振りがない。

「そうもいかないだろう、お前は駅舎を移る訳だし」
「そうねぇ、東横も地下ホームになっちゃう訳だしねー。田都の下のフロアでしょ?」
「……オレが嫌がってる事がそんなに愉快か、お前達は」

 組んだ足先が苛立ちを示すごとくがつん、とテーブルの裏を叩く。しかしそれくらいの暴挙で揺らぐような精神を東急の面々は持ち合わせていなかった。目黒が蹴ったのならば兎も角、やったのは足癖の悪い東横である。ああまたやってる、と思う人間すらおらず、流し場に立つ目黒に至っては何事もなかったかのように一人分注ぎ足して四人分になったコーヒーを鼻歌交じりでカップに注ぎ入れていた。

「今まで渋谷の街並みを見下ろせていたのが地下だぞ、地下! 耐えられるか!」
「そんな事言ったって、メトロと直通するんだから潜るのは当たり前じゃないのよぅ」
「よりによってこいつの下だぞ! 何でオレと副都心線のホームが上じゃないんだよ!」

 東横の左隣にあたる大井町は、再び頬杖をついてぺらぺらと雑誌を捲りながら、彼の絶叫に取り敢えず適当にツッコミを入れておいた。その態度がまた東横の苛立ちを煽ってしまったようだが、流石に東横が軽く腰を浮かせてテーブルを叩いた瞬間にさらりと告げられた言葉に比べればマシだった。

「後から増築したのだからそれも当たり前だろう。……まさか、それも分からない馬鹿ではあるまい、東横?」
「――っ、いい加減にしろよ田園都市! 何様のつもりだ!」
「そりゃあ田園都市様じゃないのー?」
「大井町、あんまり東横苛めちゃだめだよ………」
「だって東横ったら女性に対してあんまりな発言するんだもの、仕返ししたくなるじゃない」

 カップを四つトレイに載せて、ジャケットの代わりにセーターを着込んだ目黒が眉尻を下げて呟く。手を差し出してカップを受け取りながら言い返した大井町には苦笑だけ返して、目黒は言い争う――と言うか、一方的に噛み付いている東横とそれを全く気にしない田園都市の前にもカップを配り、田園都市の隣、東横の右手に腰を落ち着けた。

「いただきます」

 四人の間にいる目黒が、囁きと共に丁寧に手を合わせる。コーヒーを淹れてくれた目黒に軽くカップを掲げてみせてからゆっくりとコーヒーを口に含み、大井町は未だに立ち上がっている東横にうんざりとした口調で声を掛けた。

「東横、アンタご所望のコーヒーが入ったわよー? ちゃんと腰落ち着けなさいよね」
「……言われずとも、そうする」

 嘘仰いよ、と言った所で彼が余計に落ち着かなくなるだけなので黙っておく。全員がカップを傾け始めたお陰で、東急の全路線、及び関係している第三セクター路線すら同席出来る広めの会議室に、ようやく暫しの沈黙が落ちた。

「で、ここにいない連中はどうしたんだ?」

 カップの三分の一程を空けた東横が、揺らめく黒の水面を見つめながらぽつりと呟く。それに対してひょいと肩を竦めてみせたのは向かいの目黒だ。

「池上は多摩川が引っ付いて鬱陶しいので欠席だって。で、多摩川は僕に任せた、って」
「毎度ながら何なんだ、あの二人は………。多摩川は一応相方だろ、目黒から何か」
「言ってどうにかなる多摩川なら、僕はずっと目蒲線で良かったんだけどねぇ」
「………」

(……そう言う問題?)

 珍しく他人の言葉を遮ってふふ、と力なく笑った目黒に渋面を作った東横の斜め前で、田園都市が閉じたまま置いていた新聞を折り畳みつつ、最後の一人の現状を報告する。

「ちなみに、世田谷は三軒茶屋で居眠りしていたぞ」
「いや、それは起こしたげなさいよ、田都……。あの子が可哀想じゃないのよ」
「お前は世田谷に甘すぎる」
「違うわよ、アンタが世田谷に対して容赦がなさすぎるのよう」

 路線的に被らないからこそ猫可愛がりしている大井町と、路線的に他者より接触の多い田園都市ではどうしても世田谷に対しての意見が食い違う。詳細に関しては聞く気になれないが、世田谷は田園都市を苦手視しているらしく、出来うる限りで彼を避け続けているのだ。

「……まあ、いい。世田谷には後で伝えておけよ、田園都市。多摩川には……」
「僕が言っておくよ。大丈夫、どうせ池上は彼から聞くから」
「それもそうだな、任せた。では、ミーティングを始めるぞ」

 ふう、と意識を切り替える為に息を吐いて、東横は携えていたブリーフケースからホチキスに留められた紙束を幾つか取り出した。ぽす、とそれを手元の雑誌の上に放り投げられてしまって、大井町は大袈裟に溜息を吐いてみせる。

「えー、この期に及んで何かやる事あんの?お茶するだけかと思ったのにぃ」
「馬鹿か大井町、それだけで全員呼ぶか。本当はMMも呼ぼうかと思ったくらいだ」
「……みなとみらいまで?何でまた」
「三セクも呼ばねばならないだろう、この内容では」

 大井町、と短く名を呼んだ田園都市が、配られた紙をひらりと持ち上げて、そこに記された表題がこちらに見えるように掲げてみせた。シンプルな黒のラインだけ引かれたタイトルは曰く、「大晦日、及び元旦の東急電鉄の運行について」だ。

「はー、なるほどね。そりゃ直通してるMMも呼ばなきゃだわね。で、なのにどうしていないのよ、あのお子様は」
「……オレが連れてこなかった」
「は? 何で」
「あれも一応仕事があるし、連れてくるとぎゃあぎゃあ言って五月蠅いだけだからな。こっちの話は、それこそオレからすればいいし」

 ふ、と肩を竦める東横の顔は、面倒と言うよりも仕方ないと言った感じだ。みなとみらい線に関しては兄のような立場であるから、どうしても甘くなってしまうのだろう。――本人は、決して認めないだろうが。

「ふーん、そんなもん?」
「そうだ、みなとみらいと言えば」

 ああ、と声を上げた目黒が、ごそごそと足下に置いていた自分のブリーフケースを漁り出す。はい、と彼が東横に差し出したのは会社のロゴが下に小さく印刷された茶封筒で、前後の飲み込めぬまま受け取る東横に対して、ほら、と目黒が首を傾げる。

「みなとみらい号、あるでしょ。あれの最終確認の紙なんだ。この後あの子に会うなら、渡しておいて欲しいな」
「分かった」

 ――行われるやりとりはいつも通り過ぎて、大井町としてはつまらない事この上ない。
 年末にそぐわぬ場の空気に、思わず背中がやる気をなくす。ずるずると机に突っ伏すように脱力した所でふと思い出して、気付けば疑問が口から零れてしまっていた。

「あーあ、クリスマスかー。今年はウチ、何もグッズ作んないのかしら」
「あんなもの!」

 紙束を雑に配っていた東横が、弾かれたようにばっと顔を上げた。

「一回やれば十分だろ! クリスマスなんぞに利用される為のラインカラーでも五〇五〇でもないぞ!」
「なんぞって……。仕方ないでしょうが、アンタの五〇五〇は見たまんまに赤いし、田都の五〇〇〇はそりゃまあ見事なクリスマスカラーぶりだしさ」
「それなら五〇五〇単品で売ればいいだろ! 何で田園都市なんかの車両と抱き合わせにされなきゃいけないんだよ!」

 東横が眦を吊り上げて怒っているのは、去年に東急が発売した電車グッズの事だ。赤と緑、と計ったかのようにクリスマスカラーであるメインラインの車両の形をした貯金箱をセットにして、「お子様へのクリスマスプレゼントにどうぞ」と年末に発売したのである。
 お客様への受けはよかったのだが、何しろ東横本人からの文句がひどかった。去年の今頃もそっくり同じ文句を聞いたなあ、なんて思いながら、大井町はゆるゆると机に触れ合わせていた顎先を引き上げて隣を見る。

「……大体、何がクリスマスだ。この国は名ばかりの仏教徒ばかりだろ?」
「イベント好きでお祭り好きなのは日本人の美点じゃないのー。そりゃあ、アンタとしては好きな色と嫌いな色を一緒くたにされるのは嫌でしょうけど?」

 じっと暫く黙ってコーヒーを飲んでいた田園都市が、かたりとカップをソーサーに戻した。

「つまり、わたしの五〇〇〇自体がアウト、と言う事か。随分と嫌われたものだな」
「当たり前だろうが! お前に関するものは全て気に食わん!」

 東横の怒声も大井町のやる気のないフォローも何のその、一人で書類を捲りながら、並ぶ文字を見下ろしてぽつりと呟かれた声が、東横の地雷を踏んだ。二人共メインラインと称され、それこそセットでグッズ販売をされるような知名度と人気であるのに、その路線本人達がここまで険悪と言うのも泣けてくる。

(………飲もうかしら、今日)

 正確には、今日も、になるのであるが。

「いつオレがお前を好きだなんて言った、田園都市!」
「そうだな、真逆の事は数え切れぬ程あるが」

 大井町の事など言えた義理ではない声量で叫ぶ東横と、それに平素の落ち着き払った声音で言い返す田園都市と。その隙間を紙を捲る音が繋いでいて、いつもの事ながらなんて不毛な争いなのだと思わざるを得ない。
 仲は確かに悪い。メインラインは自分一人であると言い切る東横としては、田園都市の乗車率とその売り上げは目の上のこぶだろう。
 ――だが、田園都市は。

(田都は東横をライバル視なんてしてない、のに。……って言うか、寧ろ――)

「あーもー、アンタらの口論を待ってたら日が暮れちゃうじゃない! ミーティングするならさっさと始めなさい、東横!」

 出掛かった何かしらの言葉を飲み込みながら、大井町は手に持ったカップごとびしりと東横を指し示した。

(本当に、面倒臭い人達だこと)

 恐らくは同じような事を思ったのだろう、眉を八の字にさせた目黒と視線を交わしながら、大井町は仕方なしに雑誌を脇に追いやった。