(I Can’t Get No) Satisfaction - 1/3

それでも東横は満足出来ない

「気に食わん」

 田園都市線渋谷駅――通称「新渋谷」にある会議室に響いた最早お決まりと言ってもいい東横線のセリフに、何がよ、と返してやる気にもなれず、大井町線は向かいのソファでぶすくれる彼の手元を覗き込んだ。
 細長い手帳大のつるりとした緑色に、箔押し風の金の印刷がなされたカバー。上半分に美しく印字された飾り縁の真ん中には白抜きで「2」が五つ並び、その下にはこの物体の名称が書かれていた。
 「記念入場券」。ゾロ目の日付である平成二十二年二月二十二日の今日、東急電鉄が数量限定で発売した記念グッズである。
 朝の内に無事完売したと言う話だし、こうして見ていても特に不備らしい不備は見つからない。するとこの場にいる一同にお茶を配っていた目黒線がテーブルに座って、うーん、と困った風な声を上げた。

「どこが不満なんだい、東横」

 手元に置かれたカップを取って紅茶を飲む東横の仕草に合わせて、彼の癖毛が耳の上と首元でぴょこぴょこと跳ねる。特に癖の強いらしい左側の前髪は自社のロゴマークをかたどったピンで留められていたが、それでも纏め切ずに跳ねて動くのを見る度、毛先だけでもストレートパーマをかければいいんじゃないか、なんて大井町は思うのだが、開業当初からずっと跳ねているから、本人はさして気にしていないのだろう。
上下共に丈を七分程に詰めた改造制服を着る東横を横目で見て、大井町は傾けたカップに隠して溜め息を吐く。他の路線とてシャツ以外のインナーを着ていたり、多少のアレンジをしているとは言え、ここまで制服を弄っているのは東横しかいない。制服一つ取ってもこうなのだから、彼に「普通」とか「スタンダード」なんてものを求めるのが間違いなのだろう。
己のノーネクタイの開いた胸元と、わざわざパーマをかけてうねらせている毛先を綺麗に棚上げして、大井町はそう結論付けた。うん、うちのメインライン様、おかしい。

「五〇五〇がいない」
「え、嘘ぉ? ……あら、ホントだわ」

 入場券のケースをひったくって、中身を確認する。中に入れられた東急線の十の主要駅入場券は駅名と共にそこを通る各路線の車両の写真がプリントされているのだが、確かに日吉駅の一〇〇〇系に横浜駅の九〇〇〇系と、他の東横の車両はあるのに、彼お気に入りの五〇五〇系だけがなかった。

「多摩川駅だけど、東横が使ってた歌舞伎だってあるのにね」

 まるで東横に倣うかのように、おや、と首を曲げる目黒の首に、短く結ばれた褪せた茶の髪がするりと巻き付く。その言葉につられたのだろう、離れたテーブルで池上線をいじっていた多摩川線がソファに寄ってきて、うわあ、と目黒と同じ顔を歪めて笑った。

「普通さ、こう言うのって新しい車両の写真使わない? 目黒も五〇八〇じゃなくて三〇〇〇じゃん、これ」
「そう言うお前だって旧七〇〇〇ばかりだぞ、多摩川」

 ふん、と鼻を鳴らした東横に、多摩川は目黒が浮かべる微笑よりももっと陰湿な笑みを浮かべる。後ろ髪を切っているとは言え、顔の作りは同じはずなのに、その表情から与えられる印象は丸っきり目黒と正反対だった。

「新七〇〇〇は池上に譲ったんですー。ねっ、池上?」

 くるりとテーブルの方に向き直ってにっこりと口の端を釣り上げた多摩川の言葉に、背を向けていた池上の体がびくりと震えた。肩の上で切り揃えた金の髪を揺らしながらゆっくりと振り向いた彼の顔にははっきりと「面倒事に巻き込まないで」と書いてあったが、勿論そんな事を気にする多摩川ではない。目だけは笑っていない笑顔で池上に手招きをして、あくまで声は朗らかに呼び掛ける。

「池上もこっち来れば? 見たいでしょ、オレとお揃いの新七〇〇〇」
「五反田駅の、でしょ……。知ってるし、多摩川と同じ、とか、いちいち不愉快な事、言わないで、くれる……」

 ぶつ切りの弱々しい言葉遣いは彼の癖だと知っているが、こう言う時にその話し方をされるといやに殺伐と響く。しかしこんな風にあしらわれるのも慣れているのだろう、多摩川はえー、と棒読みで不満げな声を出すだけで、池上が放った言葉に傷付いた風はなかった。

「不愉快とかひどくない? オレだって傷付いちゃうぞっ、池上」
「勝手に傷付いてて、よ……。大体、新七〇〇〇、全然ラインカラー関係ない、じゃない……」
「いや、このデザインでお前らの色使ったら目に痛すぎるだろ。町のオレンジだって大概だぞ」
「ちょっと、新六〇〇〇を馬鹿にしたら怒るわよ、ガヤ!」

 池上の真向かいでテーブルに突っ伏していたガヤ――世田谷が呟いた言葉に、大井町は思わず大声を上げて反論していた。てっきり眠っていると思ったのに、どうにもきっちり話は聞いていたらしい。鳥の巣と形容しても差し支えのないふわふわの頭をのそりと上げて、

「お前らさ、文句言うなよ。オレなんてそもそも一枚もないんだぞ、それ」

 と、この話題が始まって一番の真っ当な文句を言った。

「……あ、あら? ホントだわ、やだ、ガヤったら………」
「ま、オレは別にどうでもいいけどさ。三〇〇とせたまるがちょっと可哀想ってくらいで」

 あとユーザーもな、と付け加えて、またばたりと顔を伏せる。彼がこう言ったものに無関心なのは知っているが、流石にもう少しくらい気を使えばよかったのかもしれない。

「あら、渋谷は五〇〇〇なのね。中林が伊豆急カラーの八〇〇〇かぁ。ね、これ見た? 田都」

 話を逸らす為に視線を戻した入場券の中で、今まで話に乗せていなかった路線の名を出してみる。だがその瞬間に向かいの東横が渋面を作り、世田谷の隣に座っていた田園都市がひくりと眉を動かしたので、大井町はまた余計な所に――それも、東急線で一番面倒な所に足を突っ込んでしまった事に気付いてしまった。

(……あー、始まるわね、これは)

 黒縁の伊達眼鏡をくい、と引き上げ、緑色のネクタイを締めた田園都市が口を開く。

「それなら朝、既に見た。……まさか」
「まさか渋谷がオレではなくて田園都市、とはな! 更に中央林間の八〇〇〇が伊豆急ラッピングだと!? 気に食わんにも程がある!」

 東横がばん、とローテーブルに勢いよく手をついたせいで、アッサムの入ったティーカップがかちゃりと細い音を立てる。可哀想に、東横と田園都市に挟まれた池上が小型犬のように震えてしまっているのだが、諸々の事には一切構わず、彼は離れたテーブルにいる田園都市へと人差し指を突きつけていた。

「伊豆急ラッピングのどこがダメなのよぅ」
「さあ? 伊豆急に嫉妬でもしてるんじゃない?」
「誰が!」

 思わず呟いた大井町と多摩川の方を振り返って、いやに通る声で東横が怒鳴る。この勢いでは眠れないだろうに、世田谷は顔を伏せ続けていた。もしかしたら、この口論と言うか痴話喧嘩と言うか、ともかく言い争うメインライン二人を構いたくなくて寝たふりをしているのかもしれないが、大井町のいるソファからでは判別が付かなかった。

「オレはただ純粋に、渋谷駅がこいつの車両と言う事と、オレの五〇五〇がいない事が恥辱だ、と言っているだけだ!」
「もう販売の終わったものに文句を言うな、東横。静かにしろ」
「うるさい! お前にとやかく言われる筋合いは一ミリたりともない!」

 案の定ぎゃあぎゃあと言い合い始めた二人に思い切り肩を竦めて、少し離れた所で様子を見守っていた目黒を見つめてみる。この場を収めるとまではいかずとも、何かしら二人を諫めるような言葉でも言ってくれないかしら、と思って視線を投げてみたのだが、やはり彼は穏やかに微笑むだけで、二人の言い合いに干渉する気は一切ないようだった。

「全く、一事が万事これよぉ? 何とかなんないのかしらね」
「大井町も諦めないよねー、ほっときゃいいのに」

 はあ、と嘆息を伴った言葉にさらりとそう言う多摩川に、大井町はあんたもあの二人に挟まれて走ってごらんなさいよ、と言い返したのであった。