ループ - 2/4

ひかり、あれ

 一年、と言う区切りはつくづく不思議なものだと思う。
 東横にしてみれば、年初の切り替えなどよりもよほど開業日の方が大事である。だが、昔から「一年の計は元旦にあり」などと言うし、日本人が縁起をかつぐのが好きな人種であるのも知っている。自分よりも沿線に大きな寺を抱えた池上の方が直接的な関係はあるが、年末年始だからこその路線需要と言うものもある。
 ――とは言え。

「だからと言ってこれはないだろうが!」
「うえええ、耳元で大声出すなよとーよこぉ……。鼓膜破れるじゃん……」
「この程度で破れる鼓膜なら幾らでも破れろ! 恥辱だ!」
「無茶苦茶言うなって……」

 目の前に広げられた書類の上から天板を叩くだけに留まらず、ローテーブルの角をがつりと革靴の踵で蹴りつけてやってから、東横は怒りの収まらぬ腕を組んだ。
 横浜駅の休憩室、その真ん中で、コーヒーの入ったカップがゆらゆらと水面を波立たせている。どうせならばカップがひっくり返るくらい蹴ってやればよかった、と思いながら忌々しい書類を一瞥すると、その隅に焦げ茶色の染みが出来上がっていた。どうやら、転覆とまでは行かずとも、その紙に汚れを付ける事には成功していたようである。
 持ってきた紙の染みを見下ろしながら、対面に座ったみなとみらいが怯えたように肩を竦めた。しかし目はいつも通り生意気そうに光っているし、子供らしい頬もぶうと不満げに膨れているのを見る辺り、そうダメージを負った訳でもないようであった。――その「お前の癇癪には慣れた」とでも言いたげな態度が余計に東横の苛立ちを煽るのであるが、そこまでは気付いていないに違いない。

「んな怒ったってさー、決まっちった事は決まっちった事じゃん? 仕方ねぇじゃん?」
「お前も路線の端くれなら、こんな馬鹿げた企画くらい阻止しろ!」
「オレ、そんな偉くねぇもん……。口出しなんて出来ねぇもん……。って言うか、オレに話おりてくるのなんて全部決まってからだし」
「………そうか」

 ある意味、当然と言えば当然であった。
 一口に「路線がヒトの形をとったもの」と言っても、その立ち位置はそれぞれで違う。東横は現業と本社の人間の間のようなスタンスを取っており、駅務だってこなすし各企画や計画にも当たり前に口を出す。しかし同じ会社線である世田谷や多摩川などは、己に科せられた仕事はきっちりとこなすものの、それ以上自分から何か動こう、としているような様子は見受けられない。まだ開業して年数の経っていないみなとみらいは外見も子供そのままであるし、仕事ぶりも未だに心配になる所があるから、小さな企画から置いていきぼりを食らうのもまあ、分かると言えば分かる気がした。

「……それにしたってこのヘッドマークはないだろう」
「えー、可愛いじゃん、巫女さん」

 ご丁寧にカラーでプリントされた紙の真ん中辺りには、鮮やかな色彩で描かれた巫女服の少女達が並んだデザインのヘッドマークが描かれている。その絵柄はいわゆる「アキバ系」のそれであるのだが、流行にはてっきり疎い東横は、そんな言葉は知る由もない。

「……んと、でもアイフォンでバーチャル参拝も出来ちゃう? んだぜ?」
「企画している路線自身が疑問形で喋るな。架空空間で神社を詣でた気になってどうする」
「や、それはそーだけど。でもまあ、大事なのは気持ちって言うじゃん?」

 多分だけど、と言いながら、みなとみらいが手元にティッシュ箱を引き寄せる。そこから何枚かティッシュを抜き取ると、書類の上をぽんぽんと叩き出した。
 コーヒーの染みを取りたいのだろうが、些かアクションを起こすのが遅い。コーヒーの飛沫は暖房のせいではや乾きつつあり、円形の染みの周囲は微かに紙がたわんでしまっている。それを視界の端に納めながら溜め息を吐くと、諦めてティッシュをゴミ箱に放ったみなとみらいがつんと唇を尖らせた。

「んな嫌がったってさ、東横の車両にくっ付ける訳じゃねぇじゃん。付けるのはオレのY五〇〇だけだし」
「そのお前のY五〇〇が誰の路線を走ると思っている、MM」
「うー、意地悪、けちんぼ、ドえすぅ………」
「恥辱極まらんと思ったのでそう言ったまでだ」

 ぴしゃりと言い返すと、ぶつぶつと子供らしい悪口を並べ、子供は東横の向かいでしゅんと肩を落としていた。おまけに、これまた子供らしく机に「の」の字まで書いていじけている。

「んなにチジョクチジョク言うなってば……。何かオレが悪いみたいな気分になるじゃん」
「お前の会社の人間が悪いんだ、お前の責任と言ってもいいだろ」

 とは言え、流石に言い過ぎただろうか。そろそろ虐めるのを止めて大人らしく頷いてやりながら書類を受け取ってやるべきかもしれない、と頭の中で考えていると、ソファがけたたましいバイブレーションの音と共に振動した。

「……電話? 東横?」
「ああ」

 腰を下ろしているソファの背に畳んで掛けてたジャケットの内側で、赤い携帯電話が着信を受けてぶるぶると震えている。折り畳まれた機体を指で押し上げて着信の主を確認すると、東横と並んで主要路線と称される路線の名が記されていた。

「田園都市? どうかしたのか?」
『……どうも何も、今どこにいる』
「は? 横浜だが」

 何か火急の連絡か、トラブルでも起きたのかと身構えた東横に、田園都市は今朝聞いたのと全く同じ調子の声を返す。その上ぽつりと居場所だけ聞いてくるものだから、何だか変にむずがゆい気分になる。
 もつれて絡まって、そうして手を取ってしまったせいで、秋の頃から距離が掴めなくて仕方がない。今まではどうやってあしらっていただろうか、どうやって振り払っていただろうか、なんて事を考えてしまって、今のようにおかしな焦燥感に駆られてしまう時があるのだ。

『……横浜?』
「何だ、オレの駅にいて何が悪い」
『その事自体には何も言う事はないが。東横、時計と今日の予定を確認してみろ』
「…………」

 壁掛けの時計は午前の十一時を過ぎた頃を指していた。手帳を開くまでもなく頭に入っている予定を掘り起こせば、数日前に誰かが「その時間から年末年始の運行について例年通りミーティングを行うからな」なんて声高に告げていた気がする。
 その誰か、とは、間違いなく東横自身であった。

「………悪い。三十分待て」
『言っておくが、全員揃っているからな』

 世田谷も多摩川も今日は定時だ、とミーティングの遅刻常習犯である二人の名を挙げながら、わざとらしい溜め息まで吐かれてしまった。ラッシュの後に相直先と話をするのに夢中になっていたとは言え、自分で言った時間を忘れるだなんて、失態も言い所である。

「十二分発の特急を捕まえる。……小言が言いたいなら、後にしろ」

 染みの付いた書類を掴んで、足下に置いていたブリーフケースの中に放り込む。腕時計で時刻を確認してジャケットとコートを取ると、みなとみらいが口の動きだけで「行くの」と問うた。

「ああ。……ミーティングを忘れていた」

 何か言いたげであった田園都市を無視して通話を切って、座っている彼を見下ろしながらこくりと首を上下させる。会話を横から聞いていたからか、みなとみらいはそれ以上は聞いてこず、そっか、とだけ返した。

「行ってらっしゃい。また後でな?」
「オレがいないからってサボったら承知しないからな」
「東横の『サボるな』は耳タコだぜ……」

 先程までの殊勝な態度はどこへやら、再び膨れだした頭をぺしりと軽く叩いて、休憩室を後にする。小走りでホームへと降りれば、LEDの表示板の赤い字がちかちかと明滅していた。
 入線してきた車両のライトのまばゆさが、東横を渋谷へと運んで行ってくれる。大昔は坂ばかりで何もなかった、東急の創始者が拓いていった土地へ。
 メトロ副都心線との直通が迫り、五〇五〇系も少しずつワンマンへの対応を行っている。今東横が乗っている五一五四編成もその一つで、他の車両も順次切り替えを行っていく予定だ。

「………」

 車掌台の背に寄りかかり、薄暗いトンネルに敷かれた線路をじっと見つめる。
 足下へと視線を移すと、もっと小さい足をしていた頃を思い出した。小さい足で、小さい背で、神奈川線と言う名で、渋谷まで延びる線の開業を待っていた、あの日。

(アイツが言っていた夢物語が、副都心を介して現実になる、のか)

 免許を申請し、実現させようとしつこく粘っていた新宿への延伸がこうして他社を通じて叶う事になろうとは、彼も予想していなかったに違いない。

(結構な事だと笑うか、……それとも、オレがレールを延ばしていない事に顔を顰めるか)

 彼が存命であった時から、用地の問題で新宿への延伸はかなり厳しいものであった。当時はまだ国鉄であったJRの駅舎の位置、東急自体の経営状態なども鑑みて、今であれそんな大規模な延伸など無理に決まっている。
 正に夢のような話であったのだ。それが、たった一本地下鉄が出来ただけで、あっさりと決まってしまう。相互直通運転と言う、あっけなささえ感じる方法で。

「東横さん、着きますよ」

 いつの間にかぼんやりしていたのだろう、中目黒駅を過ぎた辺りで車掌に声を掛けられる。
 ゆるやかに曲がっていくレールは、狭苦しいビルの合間を縫うように渋谷駅へと伸びていく。途中ですれ違った元町・中華街行きの列車を目で追いながら、東横は静かに深く息を吸って気持ちを切り替える。

「定時運行、ですね」

 時計を確認しながら東横の横顔に微笑んだ車掌に、首肯を返す。何にせよ、ダイヤが乱れていないと言うのはよい事だ。
 滑らかに停車した五〇五〇系を降りて、改札へ向かう。渋谷の中心に向いた大きな改札口を出て地下へと向かえば、集合場所である田都線渋谷駅の会議室はすぐそこだ。

「東横」

 到着の報告をすべきか悩んで、そんな事をしている間に足を動かした方が早いだろうと判断を下した所で、唐突に声を掛けられた。
 百貨店やJRのハチ公口の方へと降りる短いエスカレーターや、メトロ銀座線へと繋がる階段、オフィス街へと接続している歩道橋など、東横の中央改札からは様々な通路が延びている。その歩道橋の端に据えられた東横線の窓口の脇に、一人の男が立っていた。田園都市だ。

「……何のつもりだ」
「迎えに来たのだが」
「誰がそんな事をしろと言った」

 頼んでいない、と吐き捨て、じっと見つめてくる視線から逃げるようにホームの方へと顔を背ける。するとぽつりと、近くにいなければ聞き取れなかったであろう、雑踏に紛れ込ませるように田園都市が囁き声を出す。

「こちらに向かう間、浮かぬ顔をしていたが」
「………は? 誰が」
「お前が」
「……別に」

 何かあったのかと問いかけてくる目に、悪意はない。付け加えれば、逃れた視線の先で自車両が日光を受けていたのもいけなかった。ああ、と息を吐くと同時、思っている事がつい口に出てしまっていた。

「じきに、渋谷の朝日も見れなくなると、そう思っただけだ」

 磨き上げられたステンレスは、日の光を反射してきらきらと輝いている。光源が違えば、こんな色には輝かぬのだろう。それが、東横としては少し、惜しいだけだ。

「横浜駅が今の形になった時も夕日を惜しんだな、と、――」

 ヒトでもないのに、我ながら馬鹿馬鹿しい感傷である。しかし彼にいらない事をあれこれと言われてしまう前に駅から離れようとした瞬間、シニックな笑みを作り掛けていた顔がぎくりと固まった。
 田園都市の横を通り過ぎるように歩き始めた東横の手首を、その彼がぐっと掴んでいる。振り払う為に動かそうとした腕がびくともしないのに驚きながら顔を上げると、やはり彼は先程と変わらぬ眼差しで、東横をひたと見つめていた。

「……そんな顔をするな。お前と同じ駅舎が嫌だとか、今更副都心線との相直が嫌になったとか、そう言う訳じゃない」

 そんなものは子供の駄々であるし、利便性の向上は東横も歓迎する所である。自分でも地上駅を今からそこまで惜しむのが不思議なくらいであるのに、見つめ返した瞳は不安と憐憫を湛えていた。関係のない田園都市にそんな顔をさせるつもりではなかったのに。

「離せ、現業が見ているだろうが」
「東横、しかし」
「四の五の五月蠅い、オレを迎えに来たとほざいたのはどこの誰だ」

 ホームに振り返る形で話していたせいで、こちらの様子を窺う現業の姿が嫌でも目に入る。後で遠回しにからかわれるのは東横自身なので強く言うと、ようやく手首からゆるゆると掌が離れていった。のはいいのだが、短時間ではあるものの、強く掴まれたせいで手首に熱が籠もったような感触があった。

「東横」
「さっさと行くぞ! 多摩川にまでイヤミを言われたらお前のせいだ」
「だが、お前が遅刻をしたのは事実……」
「五月蠅い!」

 手がとうに離れたはずの手首が熱くてしょうがない。相直を嫌だと思った事など一度とてない、更に言えば、彼とこんな間柄になったつもりも毛頭ないと言うのに、気付けば外堀は埋まっているような状態であった。それこそ地下の渋谷駅に敷かれた東横の為のレールのように膳立てされてしまって、今更どんな顔をしてやり過ごせばいいんだろうか。
 これから多摩川に予想以上のイヤミを言われる事など未だ知る由もない東横は、追ってくる田園都市の足音ばかりを耳ざとく聞きつける己に首を傾げながら、追いつかれぬようにと歩を早めるのであった。