So Cold

 一九二七年の、初夏の頃であった。
 開業を目前に控えた玉川電気鉄道溝ノ口線は、東京西部のとある会社の前に立っていた。
 東京横浜鉄道。昨今そこに属する以外の民鉄各社への支配力を強めている、ある男が指揮を執る鉄道会社である。
 支配の影響は溝ノ口線とて例外ではない。気付けば、自社の経営とて男が行うようになっていた。恐らく、そう遠くない内に、玉電はこの会社に吸収合併されるのであろう。
 恐ろしい人間だ、と思う。と同時に、ひどく有能だとも。
 溝ノ口からすると主線にあたる玉川線がよく言っている言葉であるが、げに人の欲望と言うものは恐ろしい。底がない上に、あっさりと人のたがを外してしまう。
 実を言うと、溝ノ口線はまだ開業していなかった。開業日は七月の半ばだから、今からまだ一ヶ月は日に余裕がある。その余裕のある内に、未来の社長様に挨拶をしてこい、と玉川に言われたのである。
 とは言え、相手は手強い。下手な菓子など携えては行けぬし、女性相手でもあるまいし、花などを持って行くのもおかしい話だ。あまつ十代の半ばを過ぎた外見の自分が菓子だの何だのを持って行った所で、相手に笑われるのがオチであろう。

(どうせ菓子折りの一つや二つ、とうに上が贈っているだろうし)

 ふう、と溜め息を吐いて、やっと着慣れてきた背広の襟を正す。玄関をくぐり、受付の令嬢に身分と用件を明かすと、彼女は素っ気ない調子で奥へと続く廊下を指差した。

「じきいらっしゃいますから、裏庭でもご覧になってお待ち下さい」
「……はい」

 言うに事欠いて裏庭、である。玉川ならばもっと気の抜けた相槌でも打つのだろうが、訪問先でそのような失礼な振る舞いが出来るような度胸は溝ノ口にはない。
 言われた通りに廊下へ向かう。どうやら応接間は裏庭に面した所にあるらしく、細長い廊下がそちら側に幾つか窓を付けて、ぴったりと沿うように延びていた。
 会社の裏庭だけあって、そこに庭園と呼ぶ程の纏まりはなかった。背の低い常緑樹が庭を垣根のように囲っていて、その間にぽつぽつと思い出したように種々の花が植えてある状態である。緑の間に埋もれた赤や橙は確かに目を奪ったが、見事と言うには程遠い。恐らく、大して手入れもしていないのだろう。

(時季からして、紫陽花でも植えればよいのに)

 気の進まぬ訪問、殺風景な庭。来ている場所と会う相手のせいで緊張はしていたが、待っているこの時間に関して言えば退屈と言わざるを得ない。
 開かれた窓から、少し湿った風が溝ノ口の前髪を撫ぜる。梅雨の頃独特の空気に僅かに顔を顰めて目を開くと、視界の端に映る小さな人影があった。
 それを認めた瞬間、溝ノ口は突然己に科せられた仕事や、今自分がどこにいるだとか、そう言った一切をどさりと意識の外へと放り投げてしまったのである。
 まばらに生えた花の中の一つ、小さなバラの脇に、一人の少年が立っていた。
 外見は溝ノ口とそう変わらないから、齢は十代半ば前後だろうか。御曹司然とした洋装を身に纏って、もっと他のものを見るような気のない眼差しで、赤い花を見ている。髪の色は玉川と違い、大多数の人と同じく艶やかな黒であったが、どうにも癖毛持ちらしい。耳の上とうなじの辺りで毛先がぴょこりと跳ねてしまっているのが、すらりとした格好を少しだけ崩して、彼を年相応の少年に見せていた。
 美しい、と言う顔立ちではない。幼さは残るが、愛らしい、と言う訳でもない。育ちがよさそうな所を除けば、全く普通の、その辺にいそうな少年である。だのに彼は、恐ろしい程あっさりと溝ノ口の意識をかっ攫っていった。他のどこでもない、その相眸で。
 濃い鳶色が混ざった瞳は、実に面白くなさそうに、それでも赤々としたバラから視線を離す事はなかった。その眼差しの強さはまるで刃のようで、そのせいだろう、その存在はそれこそバラの茨のように感じられた。
 手を伸ばせば傷付くのはそちらだと、焦げ茶のチョッキに包まれてしゃっきりと伸びた背が言っている。言葉ではなく態度で、そのさまで、彼は自分が「異質」である事をまざまざと物語っていた。

「――……」

 気付けば、指先が窓の桟に触れていた。流石に身を乗り出せる大きさではないが、だが、ここから一声、もし、と声を掛ければ、きっと彼は気付くだろう。
 だが、己のいる事を気付かせて、それからどうすればいいだろうか。名を名乗った所で、溝ノ口は人間ではない。人と「路線」の友情? 馬鹿馬鹿しい夢物語にも程があったし、溝ノ口のうちに渦巻いているものは、きっとそんな可愛らしいものでもない。

「神奈川線」

 そわそわと気の急くまま、ぎゅっと桟の端を握りしめた瞬間であった。太く響いた声が溝ノ口の背後から肩の隣を通り過ぎて、一直線にぴしゃりと「彼」の所まで届く。

「なんだ?」

 声に応えるように、神奈川線と呼ばれた彼がバラから視線を離した。少年らしさがあったが、予想していたよりもうんと強い声であった。目から感じた印象は変わるどころか強まって、益々溝ノ口の意識を奪う。
 それは蹂躙であった。一分も立たぬ間に、溝ノ口の頭を隅からじわじわと侵して、満たしてしまう。
 てっきり社員の誰かの子息だと思っていたから、線、と呼ばれた事にも驚いたが、その路線名自体にはもっと驚かされた。神奈川線といったら、来年渋谷まで延伸する、この会社の主要路線である。

「誰だ、そいつは」

 顔を上げた神奈川線が、溝ノ口に訝しげな眼差しを投げる。正面から見据えられて戸惑っていると、自ら名乗る前に後ろの男(そう、男だ)があっさりと溝ノ口の所属を言ってしまった。

「七月に開業予定の溝ノ口線だ」

 まさか、と思う事すら無駄であろう。振り向けばそこには案の定面会の相手である男が立っていて、溝ノ口は慌てて頭を下げた。

「ああ、路面の分際で橋を渡るって言う、あれか」

 あんまりな感想を吐いたのは、窓の向こうの神奈川である。確かに己の為にわざわざ橋を架けてくれた会社には有り難いやら済まないやら、何とも言えないものがあるが、とは言えそこを走るのが溝ノ口の仕事であり使命である。しかし彼に対してに口を挟めるはずもなく、溝ノ口は窓とこの社の経営者に挟まれた格好で、再びぺこりと深く礼をしてみせた。

「お初にお目にかかります、溝ノ口線です。お世話になります」
「ふん、随分と行儀のいい奴だな。……神奈川線」
「分かっている。オレは路線に戻るぞ」

 親と言ってもいい存在に視線を投げかけられて、ふん、と神奈川が鼻を鳴らした。この男を知っている他の人間が見たら血相を変えそうな態度であったが、なぜだか少年にはしっくりと似合う。
 そちらの方に通用口でもあるのか、ぷい、とそっぽを向いて、神奈川は溝ノ口の視界を左から右へと突っ切って行く。その時にはもう、何をしにここまで赴いたのか、溝ノ口はさっぱりと忘れてしまっていた。
 庭を抜けていく途中、神奈川の顔が、ちら、と一瞬だけ溝ノ口の方を向く。まるで風景の一部でも見るような視線は、やはり溝ノ口には茨に感じられた。眼差しに色を付けるならば、先程まで彼が目をくれていたあの花の、血のような赤がよく似合う。

(東京横浜鉄道、神奈川線)

 陳腐な言い方をするならば、それはまるで運命のようであった。背丈はほぼ同じ、整っている、と玉川に言われるものの地味で大人しい顔立ちをしている自分と比べれば、顔の造作では年若にすら見える、彼。
 その鮮やか過ぎる印象は、最早太い錐のようにざっくりと溝ノ口の奥深くまで突き刺さってしまっていて、到底引き抜けそうにはなかった。
 個性と言ってしまうには強く、魅力と言うには甘さがない。「今」ならばカリスマと称したであろうそれを持ったひとに、初めて出会った瞬間であった。

 ◆

(そんな事も、あったな)

 そんな事も何も、今日まで続く東横への執着も、花の中でついバラへ目が行ってしまうのもその日の出来事のせいであるのだが、今の田園都市には遠い過去に思えた。
 こめかみ辺りでずきずきと自己主張をしてくる頭痛に苛まれて、溜め息すら吐く気になれなかった。掌を見下ろして、ぐ、と軽く力を入れながら握る。目を薄く閉じると、そこから車両と線路に染みた赤のにおいが香ってくるようであった。
 人間で言うならば、貧血と言う症状に近い状態である事は自覚している。だが、田園都市がここで弱い所を見せる訳にはいかなかった。
 ダメージの大きい人身事故が二日も続くと、その度に慌ただしく動く職員にも疲れが見える。つい先程ようやく全線見合わせが解消されて、おびただしい遅延を出しながら折り返し運転を始めた所である。彼らがいる所で路線自身がふらついたりでもしたら、余計な心配をかけてしまうだろう。
 鉄くさい香りと、赤からは、別に想起するものがあった。
 「鉄道」なのだから、当然その線路も車両も金属独特の尖ったにおいがする。どうにもそれは路線自身にも当てはまるようで、近くに寄ると、「彼」からはいつもうっすらと鉄のにおいがするのだ。

(ああ、だが)

 大井町はそんな香りは纏っていなかったように思う。同一路線だった時などはしょっちゅう寝食を共にしていたのだが、彼女からはいつもあまやかな女の香りしか漂ってこなかった。
 ならば、あれは彼のにおいなのか。旅客鉄道である事を、東京急行電鉄の主要路線である事を何よりの誇りにしている彼だからこそ、あんなにおいがするのかもしれない。

(赤)

 赤。桜色と赤のラインを車両に引いた、特急を走らせる彼。
 昨日事故を起こして遅延を出した時も、彼は眉間に皺を寄せながら振替輸送を受け持ってくれた。彼の事だ、それだけに止まらず、メインラインだからと田園都市の預かり知らぬ所であれこれとフォローをしてくれていたに違いない。
 東急に科せられた責任はすべからく己のものであると、彼は当然のように言ってのける。オレは東急だからな、と言う途方もなく重い一言に、果たして彼はどれ程の誓いを立てているのだろう。

(東横)

 東京急行電鉄東横線。赤の誇りを背負った、紛う事なき自社のメインライン。
 乗降人数とそこに比例する売り上げによってそこに連なる地位までのし上がった田園都市と東横とは、そもそもが違う。東急の元となった東京横浜電鉄の略称を名乗り、あの男に育てられた彼とは、同じ会社線と言えども格が違うのだ。
 少なくとも田園都市はそう思っているし、何より東横自身がそのように振る舞っていた。東京西部の私鉄を手中に収め覇を誇った時から、彼の態度は変わらない。東急の路線は全て己のもので、であるからこそ、最終的にはそこにかかる全ての責務を背負ってやるとすら言ってのけるのだ。

(東横)

 二日続けて事故を起こしてしまうなんて、彼に何と言われるか分からない。ただ、確実に迷惑をかけてしまっている事だけは分かった。
 彼に出くわしたら、謝らなければ。とは言え、彼と自分が交わるのは駅舎の離れた渋谷駅のただ一点であるから、たまたま、なんてものすらないのだが。

「ちょっと、田都!?」
「……ああ」

 ホームからコンコース階へと降りる階段を下っている途中で、階下から大井町の声が響いた。声を上げるや否や、ウェーブのかかった長い髪を揺らしながら、大井町はヒールの高いパンプスで難なく階段を駆け上ってくる。
 よりによって彼女に見咎められてしまうなんて、ついていない。心配性の彼女の事だ、きっと自分の事のように己を気遣ってくれるのだろう。

「顔色、悪いわよ? やっぱりアンタ、二日も続いてトラブって……」

 ああ、ほら、やはり。

「ああ、お前ならばこうして、会う事も出来るのだがな」

 そう、彼女なら、大井町ならば、こうして溝の口なり、二子玉川なりで出会う事も出来る。そして、彼女ならば彼と駅舎を同じくする駅だってあるのだ。羨ましい事この上ない。

「は? ……田都?」

 二年後には彼も今の渋谷駅を退いて地下へと潜ってくる予定ではあったが、そうなった所で関係が好転するとも思えなかった。だが、彼女は違う。思った事を思った通りに、まっすぐに彼にぶつけていく。やはり外様の自分とは違い、その出自が東京横浜電鉄と経営者が同じであった目蒲電鉄であるからかもしれない。
 何にせよ、羨ましい。羨望した所で、田園都市に彼女と同じ振る舞いが出来る訳がないのだが。

「……田都?」

 大井町が、下から覗き込むようにして田園都市を見つめていた。
 そう言えば、僅か数センチではあるものの、彼も田園都市より背丈が低い。いつもはヒールのある靴を履いているからさして気にはならなかったが、ひとたび靴を脱ぐと、その眼差しに五センチ程の差がはっきりと出てくる。あの赤を思わせる強い瞳が、こちらを僅かに見上げてくるのだ。まるでそこに差などないのだとでも言いたげに、強く鋭く。

「……ちょっと、田都ったら!」

 薄く開いた唇がここにはいない者の名を紡ぎかけたのを察したのか、大井町が強い力で田園都市の肩を掴む。きっと睨むような目つきは鋭くはあったが、やはり彼のそれとは似ていなかった。
 ああ、会いたい。会って、

(会って、そして)

「アンタ、大丈夫? って言うか、大丈夫じゃないわよ」
「大井町」
「ねえ、今やっとアタシの名前呼んだのよ、アンタ。分かってる?」
「ああ」

 ここに彼がいない事くらい、痛い程分かっている。
 何をしていると、主要路線と呼ばれる事もある癖になんてザマだと、罵って欲しかった。
 彼は惚れ惚れするくらいよく通る声をしているのだ。自分程低くはないあの声で叱責されると、自分が一体誰のもとにいるのか、誰に導かれているのかがありありと分かって、その度にいつも背がさざなみを立てる。
 罵倒して、手を上げて、そして、己を見ていろと、あの声にそう言って欲しい。
 元々が重症なのも、この数日の疲れでそこに更に拍車がかかっているのも、十分に分かっている。だが、田園都市とて東急線なのだ。たとえ仲が悪いように見えたとしても、それを纏める者に密かに心酔していたって、何もおかしい事ではないはずだろう。それがたとえ、ひどく恋慕に近い執着だったとしても。

「……アンタ、帰んなさい。ここはアタシが見てるわ」
「大井町」
「渋谷戻って、大人しくしてなさいな。お願いだから、変な事は考えないでよ」

 変な事、とは、どう言った事だろう。

「すまない」
「ねえ田都、アンタ今どんな顔してるか分かる?」

 唐突にそんな事を言って、大井町は俯いてしまう。顔を伏せる間際、そのブラウンの瞳が不安に揺れていたのが、申し訳ない事に思えた。そんなに心配させてしまう程、疲れた顔をしているのだろうか。

「……すまない」

 ぎゅっと痛い程肩を掴む手をそっとほどいて、謝罪の言葉を口にする。ホームの方向へ顔を上げると、丁度駅員のアナウンスに迎えられる形で渋谷行きの五〇〇〇系が入線してくるのが見えた。
 眼鏡のブリッジを押し上げてから、電車に乗るべく走り込んでくる己の車両へと足を向ける。そのせいで、田園都市は大井町がその後に呟いた言葉を耳に入れる事がなかった。
 ざわめく人波の中で立ち尽くした大井町が、痛みを堪えるかのように己の腕を抱きしめる。
 女性らしいラインを描く美しい唇は、ぎりぎりと食いしばっているせいでいびつに歪んでしまっている。その間から零れた声は苦悶に満ちていて、いつもの明るくはつらつとした彼女からは想像も出来ないようなものであった。

「田都、アンタ、……笑ってんのよ、綺麗に」

 田園都市はいつも冷ややかな顔をしていて、その表情が変わる事はそう多くない。不機嫌そうに眉を顰めたり、密かに怒りを込めたような目をする時はある。だがいわばその逆の、喜んだり楽しそうな顔をしている時なんてそうそうなかった。顔が全然変わらないせいで、この男の人生に楽しみなどあるのだろうかと不安になるくらいである。
 そして、実際に彼が綺麗に微笑む時は、決まってろくな事がないのだ。
 本人に直接聞いた訳ではないのだが、こうしてトラブルが続いたりしてストレスが溜まると、どうやら精神の均衡が崩れるたちらしい。そして、今のように綺麗に微笑むのだ。顔立ちが整っているだけに、見慣れないものであるから余計に、ぞっと背筋が寒くなるような、それはそれは美しい微笑を浮かべるのである。

「……妙な事がないといいんだけど、ね」

(新玉川線を世田谷から受け取る時も、笑ってた)

 数年前まで渋谷と二子玉川を繋いでいた新玉川線を管轄していた世田谷線は、その日に何があったのかを、今も頑なに語ろうとしない。大井町が覚えているのは、薄く笑みながら部屋を出ていく彼の後ろ姿だけなのである。

「渋谷……」

 そろそろ夕方のラッシュが始まろうかと言うこの時間帯、東横はいつも渋谷駅にいる。駅舎が違うからどちらかが会おうと思わない限り顔を合わせる事はないのだが、さて、今の田園都市は東横の駅を素通りなんてするだろうか?
 ぽつりと呟いた声は雑踏の間隙にことりと落ちて、いやに明瞭に響いて消えていった。

 ◆

 視線を感じて、振り返る。
 東横線渋谷駅の改札口は、帰宅を急ぐ人々が行き交っていた。たった今特急を見送ったばかりの東横は、正面改札ではなく、宮益坂の方を向いた改札を通ってすぐの所にあるコーヒーショップへコーヒーを買いに行こうとしていたのだが、丁度改札の外から誰かが自分を見つめているような気がしたのである。
 時刻はじきに夜の十時になる。今日の業務もあと数時間で終わるこの時間帯に、外部の人間が己に用事と言うのは考えにくい。
 ただの気のせいなのか、それとも某かがそこにいるのか、と視線を外へ放ると、改札から少し離れた所で人混みに紛れた、よく知る人物の姿を見つける事が出来た。
 その顔を見て、思わず顔が顰められた。昨日と言い今日と言い、彼には振り回されっぱなしなのだ。

「何の用だ、貴様」

 改札を出て、切符売り場の横まで一直線に歩を進めると、倣うように彼も距離を縮めてくる。手が届きそうな所まで近付いたのを確かめてから口を開くと、彼――田園都市はふ、と口の端を綻ばせた。

「まさか、今頃になって詫びの言葉でも言いに来たのか? 忙しくて仕方がない田園都市線にご足労をかけてしまうとはな」

 吐き捨て、睨み顔を近付けてやる。しかし、わざとらしい嫌味も、至近距離で睨み付ける東横の視線も全く意に介さぬような態度で、一体何の意図があるのか、田園都市はおもむろにその手を東横へと伸ばしてきた。
 まるで大切なものにでも触れるような手つきで、する、と田園都市の指先が東横の手の甲骨をなぞる。睨む力を強くしても、フレームの奥の瞳は全く動じる事がなかった。なのに、その指はいっそ焦れったいとさえ思う程優しい加減で東横に触れている。
 ゆっくりと撫でられて、ひく、眉が動いてしまったのを自覚する。駅の改札口と言うパブリックスペースもいい所で変な反応をしてしまった自分を心中で罵って、じっと田園都市の表情を窺う。何のつもりなのかと問い掛けた眼差しに答える代わりに、彼はぎゅっと東横の手へ己の手を重ねてみせた。

「田園都市?」
「少し、いいだろうか」
「何のつもりだ、……おい!」

 言葉に何も返さずに手を引いてくるので、振り向いた先にいた現業の一人に視線で外出を告げてから、仕方なしに歩き出す。隣に並んでみせても、田園都市の顔からは思考を窺い知る事は出来なかった。
 ――と、言うか。

(一体何なんだ、こいつのこの上機嫌な顔は)

 いつもは無愛想な顔を晒していると言うのに、今日に限って彼は薄い笑みを伴っていた。多分、こんなに愛想のいい彼を見るのは初めてだ。

(二日連続で事故った癖に)

「おい、どこに行くつもりだ? 新渋谷なら逆……」

 彼の駅舎に行くのならば、口にした通り逆を向いて、JRへ通じる通路を通り抜けてしまうのが早い。だが、彼の足はなぜか駅とは真逆の方向に向かう歩道橋の方へと向いていた。
 田園都市は答えない。何も言わぬまま、ただ東横の手首を軽く握ったまま、淡々とした歩みで歩道橋を上がり、頭上を高速がのたくる大きな道へと出る。
 何となく、ではあるが、行き先が知れた気がした。東急関係の建物に向かっていると仮定して、東横の駅舎からこの道を選ぶとすると、あの場所しか考えられない。

(セルリアンか)

 セルリアンタワー東急ホテル。ついこの間開業したばかりのザ・キャピトルに東急ホテルのフラッグシップの座こそ譲ったものの、それを除けば系列で屈指のグレードを誇る東急のホテルである。
 食事でもしながら仕事の話でもするつもりなのかと思ったのだが、そうでもないらしい。桐の紋がライトアップされたタワーホテルの中へ入ると、田園都市はそのまま客室フロアへと繋がるエレベーターの方へと向かっていった。
 いつもならば、手を握られた時点で気持ち悪いと振り払っていてもおかしくない。けれども、その雰囲気も表情もいつもと違っているように感じてしまって、変に口を挟む気になれなかった。
 そのせいで、ぐんぐんと上がっていくエレベーターへと押し込まれてしまっても、何も言う事が出来ない。今の東横に出来るのは、そこから何か見て取れぬものかと、ちらと横目で彼の顔を盗み見る事だけだ。
 チン、と小さく高いベルの音を立てて、狭い箱が閉じこめられた空気と二人を吐き出す。先行していく田園都市を追いかけると、降り立ったフロアがやけに静かな事に気が付いた。人気がないと言うよりも、徹底して気遣われた静寂がある。視線をエレベーターロビーへ投げると、並んだドアの間には、三十六と書かれたプレートが掛けられていた。

(セルリアンフロア? そう言えば、エレベーターに乗り込んでいた時もカードキーを取り出していたか)

 そう名付けられているのは最上階から数フロア下、セキュリティ保持の為にエレベーターから鍵を要するフロアである。
 なぜ、と思わざるを得ない。スイートルームばかりが固まっているフロアの部屋だなんて、たかだか仕事の話をする程度で選ぶ場所ではないはずだ。
 いい加減に、名くらい呼んでやろう。きつい声音で名を呼べば、気圧された勢いで用件くらいは口にするかもしれない。

「東横」

 そう思っていたのに、扉の前で立ち止まっていた田園都市に先手を打たれてしまった。流れる所作でスーツのポケットからカードキーを取り出して、じっと東横を待っている。
 そのせいで、名を呼ぶ機会を、目的を問う機会を失してしまった。
 ランプが赤から緑に変わって、ドアが開けられる。ドアを開けたまま出方を窺われてしまっては、中に入らざるを得ない。広い部屋、大きな窓、品のよい調度品に、キングサイズのベッドが一つ。ワンルームタイプの部屋だからそこまでではないだろうが、それでも立派なスイートルームの一つである。
 十数分前まで己の駅で仕事をしていたのに、その現実からこんな力技で隔絶されてしまった。ソファとベッドの間でぼんやりと立ち尽くしていると、田園都市がすっと手を差し出してきた。中に着込んだジレをどうしようか少しだけ悩んでから、既にジャケットを脱いでいた彼を一瞥して、上着と共に纏めてその手に預ける。ハンガーへ服をかけ、備え付けのラックへとスーツを片付けると、彼はまるで当然のように靴を、と言ってのけた。
 スリッパに履き替えろ、と言う事なのだろうが、彼とこんな部屋に来て、まるで宿泊する客のような事をするのは何だかおかしい気がする。

「……でんえ」
「東横」

 再び意図を問いかけるつもりで出しかけた言葉を、彼がごくごくやんわりと遮る。あくまで優しい声の調子は、しかし東横に有無を言わせぬ何かを孕んでいた。
 視線に促されて、ベッドに浅く腰掛ける。すると、何をするのかと身構えた東横の前で、あっさりとその膝を折って、田園都市はおもむろに東横の靴へと手を伸ばした。
 そんな事をしろだなんて、一度も言った事がない。否、大東急の頃に一度くらいは言いつけた気もするが、その時だって彼は首を縦には振らなかったはずだ。
 なのに今になって跪かれて、一体彼は何がしたいのだろうか。何を――求めているのだろう。
 紐を丁寧に緩められて、先の尖った革靴をゆっくりと脱がされる。ついでのように靴下まで取り払われると、世話を焼かれているようで羞恥心がちらついた。

(……落ち着け)

 何かをされた訳でも、される訳でもない、と思う。皺が寄るからジャケットを脱がされて、話が長くなるから靴を脱いでくつろげと、きっとそう言う事なのだろう。
 ――だが、靴を脱がせた次に彼が起こした行動をもって、東横は己の考えが甘かった事を思い知る事になった。靴を揃えてベッド脇に置いたかと思うと、彼はその手を東横の足の横についたのである。

「っ……!」

 肩に優しく手を置かれて、押し倒される。ふわ、と踊るように景色が回転して、東横の視界は調度品達の茶から一転、天井の白で塗りつくされた。

「な………!」

 声を上げている内に、いとも簡単に両手首を纏められてしまう。天井と己の間、それもすぐ近くに田園都市の顔がある事に驚いている隙に聞こえてきたじゃら、と言う金属質の音に、東横は盛大に顔を顰めた。ご丁寧にも、どうやら彼は枕元に手錠なんて物騒なものを用意していたらしい。
 体の前で両手を拘束されて、ベッドの上にいる。それだけで叫びたいくらいの辱めを感じていると言うのに、今度はその手が襟元に伸びてきた事に驚いた。そこまでの勝手を、彼に許したつもりはない。
 だが、赤いネクタイを軽く緩め、第一ボタンを外すと、田園都市は急に体を離した。次は何をするつもりなのかと睨んでいると、ソファの方から椅子を一脚持ち出して、そこに悠長に腰掛けてみせる。

「……はっ?」

 正直、気が抜けた。子供でもあるまいし、押し倒されて手錠をかけられて、ネクタイまで緩められたのだから、その先に「何」があるかなんて想像がつくのに、彼の目からは欲情に類するものを感じ取る事はなかった。しかし、ではこの状態は一体何だと言うのだ。

「……田園都市」

 ひっそりと呼んだ声は、広い部屋の壁紙に吸い込まれるように消えていく。ベッドのすぐ脇には大きな窓があって、きっとそこからは美しい東京の夜景が、街明かりに照らされ浮かび上がった渋谷駅が見事に見えるのだろうに、こんな風に寝転がっていては満足に見れやしなかった。

「何だ、東横」

 作りのいい椅子に座った田園都市は、微動だにする事なく東横の呼びかけに応える。だが、そもそも東横はそこまで気の長いたちではない。つい雰囲気に飲まれてこんな事になってしまったが、この状況に甘んじていられる程愚かではないのだ。

「いつまでこうしているつもりだ、馬鹿馬鹿しい」
「さあ、いつまでだろうな」

 すんなりとした背筋を背もたれにゆったりと預け、田園都市は腕を組む。自分をこんな目に遭わせている癖に、その余裕のある態度が腹立たしかった。

「……何のつもりだ」

 少なくとも、田園都市にこんな事をされる筋合いはない、はずだ。
 しかし、唸るように投げかけた言葉にも動じた風はなく、そうだな、と短い相槌で東横の問いを受け止めて、彼はまるで他人事のように呟いてみせる。

「何のつもりも何も、これが目的なのだが」
「………は」

 返された言葉はあまりにも馬鹿馬鹿しく、吐息は引き攣れて笑い声を成した。

「知らなかったな、東急の誇る田園都市線にこんなご趣味があったとは」

 くつ、と息が喉に滞る。未だにその真意は分からないが、よりによってこの彼に屈するなんて選択肢は、はなから東横の頭にはない。抗いようのない社の裁定ならばまだしも、そして、自分を方々へ連れ回したあの創始者ならまだしも、田園都市にだけは何一つ譲る事など出来ないのだ。

(オレは東急だ。こいつが折れる前にオレが折れるなんて事は有り得ない、――何が、あっても)

 すると不意に田園都市が立ち上がって、シャツに包まれた腕をするりと伸ばしてきた。
 思わず、まさか、と反射的に身を固くしたが、緩めた際に中途半端に引っ張り出されたネクタイの結び目へ触れただけで、何か不埒な事を働こうとしてくる気配はなかった。
 だが、その手つきはいやに思わせぶりだった。
 糊のきいたシーツに垂れるネクタイのすぐ下を、掬うように掴まれる。そのままするすると指は滑っていって、先端までネクタイをなぞると、物憂げな指先が踊って結び目を解いた。ただ、それだけ。

「腹が減った」

 解かれただけのネクタイはシャツに流れて、呼吸の度に胸に沿って上下している。その間隔が緊張のせいで段々と狭まっているのを悟られる前に、東横はわざとらしく不機嫌そうな声を上げた。

「一体何時だと思っているんだ? ルームサービスくらい取ったらどうだ」

 そろそろ日付を跨ぐ頃だろう。彼のトラブル処理に付き合っていたせいで、夕食はおろか、昼食すら食べられていない。いい加減、胃袋は限界に近かった。
 こうしているのが目的と言うのならば誠意を見せろ、とでも言ってやろうかとも思ったが、やめた。今の彼に冗談を言っても、真に受けられてしまいそうだ。

「何が食べたい」
「別に。この状態で食えるものならば、何でも」

 ごろりと寝返りを打って、ぼやく。何にせよ、両手首はなす術もなく足の間に投げ出されている状態だ。ささやかな抵抗代わりに、極力嫌味に聞こえるように言ったつもりだったのだが、今の田園都市の耳にはそれもさしたダメージにはならないらしい。
 ベッドから離れ、内線電話から淡々と何かを注文し始めた声をバックグラウンドに、目を閉じる。思うのは、日々の業務で蓄積した疲労と、未だ汲み取れぬ彼の真意と、差し当たっての自分の行く末だ。

(馬鹿馬鹿しい、犯すなら犯せ)

 元から、お世辞にも仲の良い間柄ではない。何が引き金になってこんな事になったのかは分からないが、彼が自分に何かしらの痛手を負わせたくなる可能性なんて、今までにだって考えられた事だ。ただ、それが彼が考えたにしてはいやに俗っぽい結果であっただけである。
 暫く黙って狸寝入りを続けていると、重く落ち着いた呼び鈴の音が響いた。室内にボーイを入れる訳にはいかないからだろう、ベルが鳴るや否や立ち上がって、田園都市は皿の載った銀色のワゴンを自ら押してきた。
 色とりどりの果実に、サンドイッチ。なるほど、これならば多少行儀は悪くなるが、今の東横にも食べられる。

「田園都市?」

 しかし、てっきり手渡されるだろうと思っていた皿はベッドの縁近くまで移動させられたワゴンの上から動く事はなく、その代わりにきし、と重いスプリングをしならせて、東横の太腿のすぐ隣に田園都市の膝先が沈んだ。

「東横」

 密かに囁かれる声がやけに耳の奥深くに落ちて、こびりつく。皿を寄越せと言いたいのに、目はクラブサンドを摘み上げる彼の指を静かに追いかけていた。
 上体を起こして、差し出されるがままに、子供のように、餌を求める雛のようにぱかりと口を開ける。軽くトーストされたパンをさくりと歯を立ててかじり取ると、間に挟まれたビーフと野菜の味が、まともに食事を取れていなかった体にじんわりと染みた。
 求めるままにサンドイッチを食べる。受ける皿も与えられぬまま食べているせいでパン屑がシャツに落ちたが、構った事ではなかった。それよりも、距離の近くなった目の前の男に気がいって仕方がない。
 空になった手が、パンの代わりに綺麗にカットされたグレープフルーツに伸びた。食べやすいようにと既に三分の二程を皮から切り離されている実を、田園都市はごくごく弱い力で唇の先に押しつけてくる。食べる事を強いている訳ではなく、東横に委ねているのだと分かる程度の力だ。
 ふと現状に訳が分からなくなって、半ば自棄になって、その指先ごとグレープフルーツを口に含んだ。薄いピンクに色づいたそれは、黄色いものに比べれば甘さが立っている。歯と舌で器用に実を剥いで口を離す刹那、東横はその爪の生え際に甘く歯を立てた。
 気持ち悪いと、浅ましいと詰ればいい。そうすれば、東横とて何かしら言い返すことが出来る。
しかし田園都市は唾液に濡れた指先を一瞥したものの、ベッドにぺたりと座り込む東横の頭に文句や罵倒を降らせる事はなかった。
 言葉はなく、やはり唇に触れてくるのは、瑞々しい果実ばかり。

「……、ん」

 もう考えるのも敵愾心を維持するのも面倒になって、拘束されたままの手で、イチゴを差し出してくる手首を捧げ持つように掴む。じゃらり、と安っぽい金属が手首にまとわりついたが、気にせず指に、果実にかぶりついた。
 まるで別のものをねぶるように、ねっとりと指に舌を這わせる。すると、ようやくと言っていいだろう、眼鏡の奥の目尻がひくりと引き攣って、それだけの事なのに背筋にそくそくと震えが走った。
 赤い果実が、舌の真ん中でぐじゅりと音を立てて潰される。それをんく、と喉の音を立てながら嚥下して、それでも手を離さずにぴちゃぴちゃと舐めていると、田園都市の指が舌先をぐっと掴んできた。

「ん、む」

 舌を引きずり出すように掴まれては、大きく口を開けるしかない。だらりと引き出された舌からぬるりと垂れた唾液が、田園都市の指を汚していく。舌を離れた指は痛いくらいに強く顎を取って、口を閉じようとする前に、突き出した格好の舌先にぺたりと田園都市の舌が触れてきた。

「ふ……っ、ん」

 ぬちゃりと舌同士が絡まって、甘さの残る口の中を探られる。距離がゼロになった二人の間で、思い出したように手錠の鎖が音を立てた。
 そうだ、これでいい。こうして蹂躙して侵略して、勝った気になっていればいい。
 同性とのセックスの経験がない訳ではない。受け入れる側に回るのは初めてだったが、それとて東横にとってはさした問題には思えなかった。

(オレを、舐めるな)

 譲れるものだけ、譲ってやる。だが、東横はただ求められたものだけを、求められた分与えてやるだけだ。それ以上のものは、何一つとして与えてはやらない。田園都市が望んでいないような、余分なものは、何一つ。
 唇が離れて、さあどこからでも触れればいい、と仰のかせた首に、ひやりと田園都市の指先が触れる。そこまでは予想のついた事だったが、だが、それはただ触れるなんて可愛らしい触れ方ではなかった。親指とそれ以外の指に分けて大きく掌を開き、がっちりと首をホールドしてきたのだ。

「は……っ?!」

 そうかこっちか、なんて考えが、気道を狭められたせいで酸欠状態の頭に浮かぶ。
 当たり前だが、ここまでの暴挙を許したつもりはない。しかし抵抗するつもりで上げた腕は既に指先が痺れて震えて、田園都市の襟首を掴む事も出来そうになかった。
 わななく腕が行き先を求めて、中空を蝶のように舞う。拳を固めて胸元を叩いてやろうにも、苦しさに細くなる視界では何が何なのかも分からなかった。
 せめて――せめて最期に、元路面風情が、とでも枯れた声で罵ってやる。
 単純に息苦しさに喘いでいると言うのもあった。しかし決意した言葉を言う為にも、と口を開くと、そこに予想外の温かなものが、震えていた指先に確かな硬さのあるものが触れて、そのあまりのおぞましさに、暗くなりかけていた視界がぱあっと晴れた。
 唇に触れているのが田園都市のそれであるのは、分かる。しかし彼の胸辺りを彷徨っていたはずの手が、まるであつらえたようにその首筋に嵌っているのは、一体どう言う事なのだろう。

「……東横」

 ぎりぎりと絞められていた首をあっさりと開放されて、気管と血管を絞めていた手が顔の両脇につかれる。声は今までに聞いた事もない甘さを含んでいて、口元は出会ってから一度も見た事のない微笑に彩られていた。どのような形であれ、彼が笑っている所なんて一度も見た事がないのに。

「そのまま、力を入れてくれ」
「田園都市……?」

 いきなり戻った酸素量にげほげほと咳き込みながらも、目の前にいる彼の名を呼ぶ。瞬く事も忘れて、東横は緩慢とした動きでかけていた眼鏡を外す男を見つめていた。
 愛おしげに自分の名を呼んでくるこの男は、誰だ。東横はこんなにおそろしい、背筋の凍るような顔をする人間は知らなかった。

「東横、後生だから、そのままわたしを縊り殺してくれ」

 軽くキスされた唇は痺れて、言葉を紡ぐ事を忘れてしまっている。
 じっと見つめてくる瞳の奥の熱に、心が折れてしまいそうだった。譲れる所まで譲って、それ以上を与える気など、まるでないのに。

「お前の手で、今すぐわたしの息の根を止めてくれ、東横」
「おま……え、何を、言って」

 この期に及んでも、全てがたちの冗談にしか思えなかった。

(誰が誰を殺すだって? 人ではなく、路線であるオレが、田園都市を?)

「意味の分からない事を、言うな……!」
「ああ、お前からしてみればそうなのだろうな、東横」

 ここに連れて来させられてからずっと分からない事ばかりであったが、今が一番訳が分からなかった。そんな事をするメリットなんて一つもないはずなのに、それとも田園都市には意味のある事なのだろうか。
 両手は、未だにその首筋にかっちりと嵌っていた。勿論その手に力を入れるつもりはないのだが、そこから手を離すのもまた、同じくらいおそろしい事のように感じたのである。

「これ以上……。もう、これ以上、通じぬものならば。所詮叶わぬものであるのならば、いっそお前に、と思うわたしは、愚かに見えるのだろう?」
「一体さっきから何の話をしているんだ、お前は!」

 叫びに近い声を上げたお陰で、ようやく手を離す事が出来た。
 彼の前から引っ込める形で、両手を己の胸元まで引き戻す。人肌に触れていたはずの手は、まるで氷にでも触れたようにかたかたと震えてしまっていた。

「新玉川線を取り込んだ時から、思っていた。いっそ、そのまま東横線の支線となって消えられれば、と」
「こんなに長ったらしい支線があってたまるか」

 大体、東横線と田園都市線では路線の方針からして違う。都市間を繋ぐ東横と、人々の通勤の足となる所の大きい田園都市では、同じ会社の路線としても毛色が違う。第一、彼の路線名である田園都市計画は、渋沢栄一から端を発する東急の土地開発のモットーでもあった。
 重なっているのも、始発である渋谷の一箇所だけ。その間を大井町線や横浜市営地下鉄に繋がれているだけの自分達が一つのものになるなんて、夢物語もいい所だ。

「ああ……」

 夢見るように、田園都市が吐息を漏らす。場面が違えば灰色がかった目をうっとりとさせたその顔は何かしら感じるものがあるのかもしれないが、両手を拘束され、首を絞められた後にそんな表情を見せられても、不安しか覚えられなかった。

「その目で」

 田園都市の指先が目尻に触れ、

「その声で」

 唇の形をなぞるように辿り、

「お前は、わたしをだめにする」
「っ!」

 今までそんな素振りは欠片もなかったのに、ひた、とその掌が臍の横に押し当てられた。
 なだらかな腹の肌触りを確かめるように何度かさするように触れたかと思うと、その手はスラックスを留めるベルトへと移っていた。あ、と言う間もなく、バックルを外されてしまう。

「……だから、やるならさっさとやったらどうだ」

 肌を暴かれる羞恥に目尻が僅かに熱くなるのを自覚しつつ、東横は投げやりに呟いた。意味の分からない事をあれこれと言い募られるより、こうやって実力行使に出られた方が、東横からすればよっぽどマシだった。
 もう綺麗に畳んでおく余裕もないのだろうか、引き抜かれたスラックスをベッドの脇に落とした田園都市が、両足の間を割るように体を滑り込ませてくる。
 先程からの言動のせいで、その目を見つめるのが少しおそろしかった。
 普段はなんて事のない、売り上げを自分と二分している煩い同僚くらいの事しか思っていないのに、今夜の彼はそうではなかった。

(頭がおかしいんじゃないか、こいつは)

 常日頃から読めないやつだとは思っていたが、まさか首を絞められるとは思っていなかった。
 そこまで憎まれるような事をしていたのか、と今までの言動を遠い事のように振り返ってみたが、分からない。他社を食っては成長して、と激しい渦に身を投じていたからだろうか、大東急の頃からどうにも人の機微に疎いのだ。
 憎まれるのも、疎まれるのも慣れている。その相手がたとえ同じ会社線であろうとも、対象が変わっただけでどうと言う事はない。
 だが。

「東横」

 その声が甘く優しく自分を呼ぶのだけは、どうにも慣れそうになかった。たとえ手はこれから行われる事を想起させるように太腿の辺りを撫で回していたからと言え、彼とそんな甘ったるい関係になったつもりも、なるつもりもない。
 所詮、愛や恋よりも激しい感情の方が似合っているのだ、自分達は。

(欲しいと思った所で、それはただ独占したいと言う所有欲だ。恋情の類な訳がない)

 時たま己のうちに浮かぶ彼への感情をそう結論付けて、東横は薄く瞳を閉じる。すると、まるでそれをきっかけにしたように田園都市の体が離れた。見ると、ベッドから立ち上がって、ラックへ掛けられた自身のジャケットを探っている。
 携帯の電源でも切るつもりなんだろうか、と思っていたのだが、そうではないようだった。寝転がった姿勢ではよく見えなかったが、どうにも彼は何かをスラックスのポケットに入れてきたようだった。
 再びぎしりと体重が掛けられる。首筋と肩を繋ぐ筋肉に鼻先を埋められて、吐息を逃がした顎が自然と上を向く。かさりと髪先から音がしたかと思うと、田園都市の手の中に社のロゴを模したヘアピンが握られていた。
 ピンをやはりポケットにしまって、田園都市が口付けてくる。
 この段になっても、ネクタイ一つ外していない彼の姿が視界の真ん中にある。同性を抱いた事はあっても抱かれた事のない東横としては、その姿が少し気になった。余裕ぶられているのだとしたら腹立たしい、と思ったのだ。

「お……」

 お前も脱いだらどうだ、と口にしかけた所で、何かひやりとしたものが太腿に触れているのに気付いた。
 冷たくそれなりに硬度のあるもので、箸一膳を並べたくらいの太さのものだった。それが、太腿に薄くついた筋肉に触れようとするが如く、やんわりとした力で皮膚を押している。
 ひたと押しつけられているものは、金属であった。
 ずり下がっていた上半身を起こして頭を上げると、田園都市が持っているものがペーパーナイフなのだと知れた。
いかにも文房具らしく、鋭利な刃の輝きはなかったが、その分柄の部分に施された細工は美しかった。白い柄に、アンティーク調のバラの蔦模様が螺鈿で入っているのだ。
 さっきはそれを取りに行ったのだろうな、と思った瞬間、ペーパーナイフの触れる角度が変わった。腿と平行する形で触れていたものが垂直に、それも勢いを付けられれば、いかな雑な刃を備えた文具と言えども、その肌を容易く傷つける。

「――――っ!」

 一体何が起きているのか分からず目で追っていた東横であったが、突き刺さる瞬間は流石に目を瞑ってしまっていた。

「あ、あ、は……っ!」

 ペーパーナイフで刺された左の太腿が、じくじくと熱を持ったように熱く感じる。田園都市の力では筋肉を寸断する所までは刺さっていないだろうが、それなりに深い所まで刃先が入っているのは目視でも知る事が出来た。
 人体の一部であるそこから無機物が生えているような格好は、どこか滑稽にすら思える。しかし、引き攣れるような感覚は、少しでも足を動かせば今以上の痛覚に襲われるのだと東横に教えていた。それにしたって、痛いと言うよりも、ただただ熱い。

「な、に………っ!」
「他のものの所に――メトロや相鉄の所へお前を運ぶ足など、疎ましい」

 挙げられた名は、近年東横が直通の計画を進めている会社のものだ。しかし、直通開始が再来年に迫っているメトロ副都心線は兎も角として、相鉄線に関しては未だに東横と目黒どちらが繋がるのか、はたまた新線のような扱いになるのか不透明な所も大きい。
 直通を決めたのだって、東横本人ではない。全ては社の判断で、東横はそれに従っているまでだ。それを疎ましい、などと言われてしまっては、東横の立つ瀬がない。それではまるで、

(まるで……オレに仕事をするなとでも、言っているみたいではないか)

「そうは思わないか、東横?」
「……言っている意味が分からない、な。オレは、オレがしたいようにしているだけだ。オレ達の仕事は走る事だ。たとえ、それがどこであろうとな」

 足は痛み、息も弾んで言葉が途切れがちになったが、嘘偽りを言う気にはならなかった。
 おかしな事を言っているつもりはない。田園都市とて同じ存在なのだ。たとえその行き先に「個人」的に思う所があったとしても、どこへなりとも走ってゆくのが自分達の存在意義だろう。直通計画とて、稼ぐつてが増えて有難いと思うくらいである。
 言い捨てると、田園都市の目が僅かに輪郭を歪ませた。どこかが痛むような、もしくは眩しいものでも見るような目だ。

「ああ……、そうだったな。お前はそうだな、東横。そうでなければ、わたしがこんなにも追う意味もない」
「う、あ……!」

 そう何事か自己完結して、田園都市の指がナイフの柄に触れる。彼にしてみれば軽く柄を掴んだくらいのつもりなのだろうが、その振動ですら東横には激しい痛みとなった。まるで中の肉を抉られているようである。

「痛むのか」
「当たり……前だ、この馬鹿!」
「でも、こうでもしなければお前は行ってしまうだろう?」
「あ……っ!」

 会話が全く噛み合わない。ことりと首を傾げる田園都市の目は、悪意など一切ない色をしていた。東横にこんな事をしでかした癖にそんな目でいられるなんて、薄ら寒いとしか言いようがない。
 柄を掴んだままの手が、ぐいと勢いをつけて上げられる。だらだらと躊躇いながら引き抜かれるよりはマシではあるものの、東横は今度は引き抜かれる痛みに喘ぐ事となった。
 引き抜いた拍子に小さく血が飛び散って、東横の腿と田園都市の手、そして抜いたばかりのペーパーナイフの柄を点々と赤くさせる。柄の蔦模様の合間に小さく血の花が咲いて、本当にそこにバラが咲いたかのようだった。
 痛みはとうに閾値を超えている。足を伝う血はやけに温かく感じられて、痛みはその程度のひどさを判別出来ぬまま、ただ断続的に続いていた。

「ふざ……けるな! こんな事をした所でどうなる!」

 お前だって馬鹿ではないだろう、と叫ぶと、にわかにその表情が曇った、気がした。
 気のせいかもしれない。けれどももしかしたら、実は彼は東横が思っているよりもマトモな精神状態なのかもしれなかった。

「手、を」
「……しかし」
「お前のお望み通り、お陰様で一歩も動けないぞ」

 言外に逃げはしないと言ってやると、暫く考え込んでから、いかにも渋々と言った様子で田園都市が手錠の鍵を取り出した。
 かちゃ、と嵌った時同様にあっけない音を立てて、鈍く光る手錠が手首から外される。拘束されたまま少し無理をして動いたからだろう、手首にはうっすらとではあるが赤い跡が残ってしまっていた。
 慈しむように、田園都市がそこに舌を這わせる。
 う、と痛みか快楽か区別の付かぬ感覚に小さく声を上げて、東横は意識して大きく瞬きをした。
 痛みと疲労のせいだろう、頭に靄がかかったようで思考が上手く回らなくなっていているのだ。気を付けていなければ、そのまま意識を手放してしまいそうだった。

「東横、東横……」

 軽い音を立てて、頬へ、唇へ口付けられる。おざなりな抵抗をする気も失せてされるがままになっていると、頬を両手で包んでじっと見つめられた。
 瞳の奥を揺らすものは何だろう。東横にひどい仕打ちをした罪悪感だろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。
 どちらにせよ、その相眸は何かに――東横に縋るような視線を投げかけていて、今更怒鳴りつけて怒る気などにはなれなかった。

「東横、こんなわたしを、お前は許してくれるだろうか」
「……許すもんか、絶対に」

 ぽつりと返した言葉は、思っていたよりも空虚に響く。
 今東横が彼に対して怒りをあらわにしないでいるのは、単純に心身共々限界に近いからだ。許す許さないはまた別問題である。
 よくも、東急のメインラインにこんな辱めを。それも、相手は同じ会社、更に言ってしまえばもう一つの主要路線とも呼び称されるものである。これが他社ならば恨まれる要素なんて掃いて捨てる程持っているからまだ納得がいくが、同じ東急の路線同士でこんな事、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 内輪揉めと一言に言ってしまうには湿っぽい上に血なまぐさいこれを、では何と言って片付けてやればいいのだろう。
 皮肉な事に、今こうして触れてきている手は優しく、その温かさは純粋に心地よかった。
 彼のせいで手首も足も痛いと言うのに、馬鹿みたいに穏やかな手であった。――だからこそ、東横は田園都市を許せない。

「オレは、……お前を、絶対に許さない」

 もう一度だけ呟いて、本能に誘われるがままに瞼を閉じる。
 どこか泣きそうにも見える田園都市の顔が、その晩東横が視界に納めた最後のものだった。

 ◆

 ――翌朝、ラッシュの時間帯を過ぎた田園都市線渋谷駅の休憩室。
 今日東横は出て来ない、と伝聞ではなく直接的な形で告げられて、大井町は反射的に眉を吊り上げていた。

「……どう言う事よ、それは」

 ばん、と掌が勝手に手元の机を叩く。ミーティングの為に集まった地下の渋谷駅には、確かにやかましくあれこれ指示してくる赤い彼はいない。
予感していなかったと言えば嘘になるが、それにしたってこれはない。まさかそこまでの事は起きないだろう、と思っていた事を目の前に突きつけられている気分になって、思わず語調が強くなった。

「何で東横本人じゃなくて、アンタがそれを言う訳」
「なぜ、と言われてもな。その本人が出てこられないからに」
「田都!」

 ふい、と逸らされた視線を引き戻したくて、手の届く距離にあった手首をひっ掴んだ。手の中にある手首は異性のものにしては細かったが、それでもきっと東横よりは男らしいつくりをしているだろう。昔の目蒲曰く、輸送力も路線の距離も、そのままその体に出るのだ。

「外に出てこられなくても連絡の取りようなんて幾らでもあるのよ。聞けばアイツ、昨日の夜からどの駅にもいなかったって言うじゃない」
「……何が言いたい、大井町?」
「何がなんて、言わなくても分かるでしょうが、馬鹿!」

 きっと睨みつけた彼の顔は、昨日のような微笑みを称えてはいなかった。その代わりに、なぜだか澱のような疲労がその目元に見える。
 これだけ条件が揃っていれば、解答は大井町にだって容易に導き出せる。だのに、この期に及んで知らぬ存ぜぬを通そうとする彼に腹が立った。――どうして。

「どうしてそうやって、グチャグチャと面倒な方向にこねくり回すのよ、アンタ……達は!」

 声を張ると、田園都市がそっと眉根を寄せた。そんな顔をするくらいならば、怒鳴られるような事など、後悔するような事などしなければいいのだ。

「……兎も角、今日のミーティングはなしでいいだろう。東横がいないのだから、ミーティングをする必要もないだろう」
「田都ったら!」

 真っ白なままのホワイトボードを一瞥して、田園都市が踵を返してしまう。
 以前、大井町は彼と長い間同一路線だった事がある。大井町線、田園都市線、それぞれが両方の名を冠し、延伸した今とて大井町は彼のバイパス路線として存在していると言うのに、彼との距離が縮まる事はなかった。
 それでも、あの時は近くにいられた。彼が心の底で誰を想い続けているか知っていながら、それでも近くにあると信じきっていた時があった。
 全てに見ぬ振りをして、無心に求めている内はよかった。偽りの距離であれ、過信していられる内は幸せであったのに、今はこんなにも遠い。

「馬鹿ばっかりよ、……アンタも、東横も、アタシも」

 ぱたん、と呆気ない音を響かせて扉が閉まる。くにゃ、と張りを失った目尻からは何かが溢れてしまいそうになって、悔しくなって大井町は天井を見上げた。
 求めるものばかり、この手の中からこぼれ落ちていく。
 新設の駅のまだ真新しい天井は、蛍光灯の明かりを拡散させて、眩しくて仕方がない。
 白い空を厭うように、大井町は一人瞳を閉じた。

 ◆

 田園都市は、靴音を響かせて改札へ向かっていた。
 向かう先は決まっている。セルリアンタワーだ。手当てはしたものの、怪我の具合も気になる。何より、身動きの出来ないはずである東横が、一体どんな顔をしているのかが気になって仕方がなかった。

「田都、どこ行くのさ」

 ――タイミングが悪い、としか言いようがない。ちらりと視線を斜め前に投げかけると、東横以上に制服の規律を守ってるとは思えない、ラインカラーのパイピングがなされた白のスタンドジャケットの裾を整えながら、多摩川がこちらに向かって歩いてきている所であった。

「ちょっと、ミーティングは」
「なしになった」
「あっそ」

 すれ違いざまに言葉の応酬して、それでおしまいになると思っていた。だが、ひゅっと風の鳴る音を立てて、気付けば多摩川の腕が田園都市の進路を遮る形で壁へ伸びている。
 見れば、三日月のようになった目が田園都市に向けられていた。

「それでオレが『なるほどそうですか』って言うと思った? 甘いねぇ田都」
「……お前が他路線に興味を示すなんて珍しいな、多摩川」
「ちょっと、目黒と一緒にしないでくれる? オレはちゃあんと東急線に気を配ってますよ?」

 人の目がある、と逃げられればよかったのに、こう言う時に限ってラッシュを過ぎた新駅には人通りがない。大井町程とは言わずとも、この口振りからして彼も何かしら察しているのだろう。そう考えると、この場を切り抜けるのが余計に面倒な事に思えた。

「あのさぁ、別に、オレは何だってどーだっていい訳。定時運行、平常運転、それさえ心がけてくれりゃ、誰かが誰かとどうなろうがどうだっていいんだけど」

 いつも不必要なまでに吊り上げられて笑っている唇の両端が、今もまた上を向いていた。ただ、そこに浮かぶのはいつものようにへらへらとだらしない笑みではない。もっと冷たく明確に嘲笑するような、蛇にも似た笑みである。

「それにしたって、さ。何十年も往生際が悪いよ、溝ノ口線」
「――――」
「引き際を見失うからそうなるんだよ、大井町にも『迷惑』かけちゃってさ。八十年前に気付いて、諦めてりゃよかったんだよ」

 ススキに似た明るい色の髪をわしわしと面倒そうに掻きながら、多摩川が言う。放たれる言葉はそれまでの口調とは打って変わっていっそ無感情に響いたが、田園都市の心を突き刺すまではいかなかった。

(――違う)

「違う、多摩川」

 田園都市が求めているものはこれではない。今こうして自分を苛もうとしている彼すら踏み台にしたあの鮮やかさは、やはり東横しか持ち得ぬものなのだ。
 密かな決意めいたものを含んで、口にする。

「わたしはもう溝ノ口線ではない。東急田園都市線だ」

 多摩川が器用に片眉だけをぐにゃりと曲げるのが、見て取れた。
 たとえ間違えていたとしても、引き際を誤っていたとしても、田園都市にはもう戻る道などなかった。無様でも、かなわずとも、この醜い感情を東横に捧げる以外に、田園都市に残された選択肢はないのである。

「……あっそ。つまんないの」

 顔にありありと不快感を浮かべ、それでも口元は緩く笑ませたまま、多摩川がぱっと壁から手を離す。

「何でもいいけどさ、ミーティングがポシャるならもっと早く言ってよね。蒲田からここまで出るの、面倒だからさ」
「ああ」

 多摩川のぼやきに曖昧に頷きながら、田園都市はホテルへと急ぐのであった。

 ◆

 ぬるい痛みで、目が覚めた。
 起き上がる体が勝手に足を庇っているのにうんざりする。摺るようにして上体を起こし恐る恐る腿を見つめると、そこにはきっちりと包帯が巻かれていた。
 あろう事か途中で気を失ってしまった昨晩の己のふがいなさを奥歯で噛み締めて、深呼吸をする。眠っている内に田園都市が巻いてくれたのであろう、包帯は丁寧に傷を覆っていたものの、足を動かそうとするとずきりと疼くような痛みがあった。
 傷を中心に、左足全体がじくじくと熱を持っている。失血のせいかふらつく頭を支えながら起き上がって、少し悩んでから包帯に手をかけた。自分ではこんな風に上手く巻けないだろうが、外に出る前にシャワーを浴びたかったのだ。
 羽織っていたシャツを脱ごうと襟に手をかけた所で、替えの服など用意しているはずがない事を思い出してしまった。

(……仕方ない、か)

溜め息を吐き、東横は内線電話を取る。多少面倒ではあるものの、身分を明かした上で着替えを頼もうと思ったのだ。
 東急グループで東横線の存在とその意味を知らぬ者はいない。聞かれるがままにシャツのサイズを伝えると、電話の向こうの人物は至極丁寧な口調で肯定の返事を返した。
 さて。

「……つ」

 両足を縁から投げ出し、深呼吸してからベッドについた腕を突っ張って立ち上がる。ぐっと力を入れた途端に傷に痛みが走ったが、すっぱりと無視して歩き出した。
 バスローブがあるのを確認してから、乱雑に服を脱いでバスルームへと入る。そのままシャワーのノズルに手を伸ばすと、ろくろく水温も確かめぬままコックをひねった。
 頭に降りかかる水は体温程の温度で、ぬるいと言うよりも冷たいと言った方がいいくらいだった。
その中途半端な水温に舌打ちして、傷が痛むのも構わずに水温を上げる。四十度まで上げた所でコックから手を離すと、東横は思い切ってノズルの真下に頭を突っ込んだ。
 勢いよくひねったお陰で、頭上からはばしゃばしゃと雨音にも似た強い水音が響いている。温水に体を隠すようにしながら、東横は足だけではなく、頭の痛みまで増している事に気付いていた。

(馬鹿が)

 優しく口付け、手当てを施すくらいなら、こんな事をしなければいいのだ。どうせやるのならば、己を徹底的に叩きのめすくらいの気概を見せればいいのに、田園都市にはその度胸もないのだ。

「馬鹿馬鹿しい」

 思わず罵倒を声に出しながら、ざっと入浴を済ませてしまう。雑に動かしたせいだろう、バスルームを出ると、止血されていたはずの傷からはうっすらと血が滲んでしまっていた。
 包帯を巻かれていたと言う事は、どこかに残りの道具が置いてあるに違いない。びっしょりと濡れて癖の消えた髪の先から水滴を落としながらソファの方へと回り込むと、やはり東横の予想通り、テーブルには包帯とガーゼの残りが畳んで置かれていた。
 まだドアベルも鳴らぬ事だし、ソファに座り込んで包帯を巻く事にする。
 田園都市と比べて、東横はどうしても手先が器用に動かせない。一体どうやればああも薄く上手に巻く事が出来るのだろう、と顔を顰めながらも何とかガーゼで傷を覆い、制服の邪魔にならぬ程度にぐるぐると包帯を巻き付けると、丁度タイミングを読んだようにドアベルが上品な音を立てた。

「……何だ、お前が来たのか?」
「丁度手が空いておりましたので。おはよう御座います、東横線」

 スリッパを引っかけ、足を引きずりながらドアを開けると、目の前には黒髪をオールバックにした、年の頃二十半ば程の品のよいボーイが立っていた。
 しかし、支配人のようなシックな黒のスーツを身に纏った彼は一介の従業員ではない。このホテルが人として形を得た存在――セルリアンその人であった。
 丁寧に畳まれ、リボンで纏められた衣服を受け取る。挨拶をされたものの、そう言えば起きてから一回も時間を確かめていないのに気付いて、東横はふとセルリアンの手首を飾る腕時計へと視線を投げた。

「今、何時だ?」
「そうで御座いますね、丁度正午を過ぎた頃で御座いますよ」

 閉め切ったカーテンから漏れる陽光からそれなりの時間になっている事は予想していたが、思っていたよりも時間は過ぎていたらしい。

「田園都市線でしたら、早朝にお出かけになりましたが……」
「知っている。……全く」

 もしかしたら、この頭痛の原因の一端は長く取りすぎた睡眠のせいなのかもしれない。誰にともなく舌打ちする東横を、セルリアンはにこにこと整った微笑みで見つめていた。
 流石ホテル業をつとめる者だけあって、田園都市と東横がここに泊まっていた事情も、こんな時間になっても東横が仕事をせずにここで眠っている事も、何一つ詮索してはこなかった。普段は馬鹿丁寧とすら思う対応が、今日に限っては有り難く感じる。

「悪かったな、助かった」
「いえ、滅相もない事で御座います。何かありましたら、またお呼びつけ下さいませ」

 慇懃に頭を下げるセルリアンに首肯を返してから、ドアを閉める。あらかじめ各路線の着替えでも用意してあるのだろうか、広げた新品のシャツは、いつも愛用している東横のラインカラーである赤のパイピングが施されたものであった。
 水気の残る頭をわしわしとタオルで拭いてから、シャツに腕を通す。クローゼットを開けてネクタイを締め、スラックスにそろそろと足を入れてジレとジャケットを着込むと、東横は誰にともなくよし、と呟いた。
 これでいい。これで何もおかしくはないはずだ。
 多少足を庇う格好にはなってしまうが、制服さえきっちりと着てしまえば。少なくとも現業からは昨日の事をとやかく言われる事はないだろう。
 他路線に対しては適当にあしらってしまおう、と決めて部屋を出ようとした所で、視界の隅に見覚えのあるものが目に入った。
 使い残しの包帯の横、ガラスの皿の上。昨夜食べかけたままのフルーツが、そこでちらちらと明るい色を散らしていた。
 ふと気が向いて、残っていたイチゴに手を伸ばす。
 昨夜は田園都市の手から食べさせられたそれを、己の手で摘んで咀嚼する。噛みしめた赤いフルーツは、外気に触れたまま一晩を過ごしてしまったせいで表面がぱさぱさに乾いて、甘さよりも酸味が勝ってしまっていた。イチゴがこの有様となると、もっと水分量の多いグレープフルーツなど、乾燥してしまって食べられたものではないだろう。

「……まずい」

 呟き、眉を顰めたまま皿から手を引く。取り残された果実に後ろ髪を引かれながらも、再度忘れ物がないか確かめてから鞄を掴んで部屋を出た。熱っぽい頭のまま、己の所有する駅舎へと向かう。
 エレベーターに乗り込むと、自然と指が唇に触れていた。
 今では甘さを失ってしまったイチゴも、あの指も唇も、半日程前は確かにここに触れていた。
 その偽りのようのない事実を、どこかで甘く感じている自分がよく分からなかった。馬鹿馬鹿しいと一蹴し、ただ東急のトップに立つ者としての独占欲と片付けて、そうして彼にここまで傷付けられたのに。

「……」

 どっと疲れた気分になったまま、ドアを抜ける。暫く、彼の顔は拝みたくなかった。
 オフィスビルと併設された外の通路を渡って、エスカレーターを下る。東急の創始者の家紋でもある桐のエンブレムを右手に見つつステップから足を離すと、たった今会いたくない、と思ったばかりの人間の姿が歩道の先に見えてしまった。

「……東横」

 田園都市が小走りで駆け寄ってくる。ぱっと思いつく限り、この一年で指折りに最悪な気分であった。
 田園都市の目は、フレーム越しでも分かる程驚いていた。

「東横、なぜ」
「なぜもクソもあるか。寄るな」

 昨日そうしたように、この先の歩道橋を渡り、そのまま渋谷駅の方へと向かおうとした体が、ぐんと後ろへ突っ張った。すれ違い様に田園都市が腕を引いたのは分かっていたが、逆方向から突然に力をかけられたせいで、何もしていなくとも痛む足にぴしりと強い衝撃が走る。

「っ………!」

 ぎり、と奥歯を噛みしめて睨みつけると、足の怪我を思い出したのだろう、無表情でばかりいる彼も流石にぱつの悪そうな表情を浮かべた。

「……東横」
「部屋から出るなとは一言も言われていないぞ、オレは!」
「だが、傷が……」
「誰のせいだと思っている!」

 肩の辺りへ伸ばしてくる手を振り払うと、代わりに手首を捕まれてしまった。昨夜に比べてやんわりとした力ではあったが、日中で人通りが少ないとは言え、ここは本社にも近い。大体にして、彼に手を掴まれているこの状況が嫌で仕方なかった。
 彼ごときに捕まえられる存在でなどありたくはない。誰にも囚われたくはないのだ。――特に、田園都市にだけは、絶対に。

「東横、その」
「聞きたくない!」

 何か言いかける田園都市を遮って、吠える。留まっていた怒りと苛立ちは、彼の顔と声のせいで背筋を駆け上って頭をちりちりと焦がしていた。

「オレを拒んだんだぞ、お前は! 他の誰でもない、お前が、オレを!」

 ――そう。それに腹が立っていたのだ、あの瞬間から、ずっと。

「オレがくれてやった選択肢を払いのけたのはお前の癖に、その腑抜けた顔はどう言うつもりだ……!」

 その田園都市の顔――傷付き、憔悴したような表情を見るのも飽きて、顔を俯かせた。こんな所で彼と口論を繰り広げているのも十分に馬鹿馬鹿しい事であったが、こうも消耗してしまった彼に、自分がこんな事を言ってしまっている事も馬鹿馬鹿しかった。
 ――こんな中途半端な言葉では、きっと彼は気付かない。

「東横、熱が」
「……っ、触るな!」

 足を抉った傷から生まれた熱は、確かに体全体を包んでいた。
 呼吸一つ分の沈黙の間に、手首が熱い事に気付いた田園都市がはっとした顔をする。いけない、と勢いよく手を振り払って、東横は心にわだかまる何かを振り切るようにきっと彼を睨み付けた。

「お前なんかに容易く触れさせる東横線じゃない。……あんな、馬鹿げたやり方で人の事を愚弄して、さぞ楽しかっただろうな」

 喉から舌へ乗せてしまうと、言葉はするりと出て行った。声だって不機嫌そのものに響いて聞こえるだろう。それで、いい。

「……お前に一晩くれてやったオレが馬鹿だった」

 ぎちり、と手の中で革の取っ手が軋む音を立てる。
 ――いい。これで、いい。
 俯き表情の見えなくなった田園都市を置いて、しかし心に名状しがたい感情を抱え込みながら、東横は今度こそ一直線に渋谷駅を目指してひたすらに足を進めたのであった。

 ◆

 それから暫く、会わない日が続いた。
 否、同じ会社線である以上、一日に数度は顔を合わせているのだが、会話らしい会話は全くなかった。
 だが、言ってしまえばそれだけである。どちらともなく、東横と田園都市はお互いを避け続けていた。

(――認めよう)

 認めよう。見苦し、女々しくも彼を想い続けている事を。ああも言い捨てられてなお、無様にも彼に惹かれ続けている事を。
 マンションのエントランスをくぐり、差していた傘を畳む。
 外では、ぱたぱたと雨が降っていた。
 一日すっきりしない空模様ではあったのだが、深夜になってからついに降り始めてしまったのだ。
 田園都市が歩くごとに傘の先からぱたぱたと滴が落ち、廊下に小さな水たまりを作ってゆく。エレベーターに乗り込んで己の部屋があるフロアのボタンを押すと、あの日の光景が頭の中にふわりと浮かんだ。

(なぜ、東横は手を解かなかったのだろう)

 あの日も、こうして黙ってエレベーターに乗っていた。もっと広い箱の中で、一人ではなく、東横と二人で。
 今になって思うのは、なぜあの段まで東横は自分についてきてくれたのだろう、と言う疑問だった。いつもの彼ならば、説明もない田園都市の行動に文句一つ言わずについてくるなんて事はしないはずである。

(……しかし、もう)

 熱を孕んだ手首はひどく細く、日本の私鉄の中で屈指の売り上げを誇る会社のメインラインそのものとは思えぬ程弱々しげに見えた。
 きっと、あの手に、あの狭い肩に、田園都市の考えも及ばぬようなものが乗っているのだろう。東急の誇りを、人々の期待をその名に背負うには、彼が得た人のかたちはあまりにも小さい。それでも、彼は何も言わず、当然のように全てを負っているのだ。
 手を伸ばして触れてようやく気付いたそれは、やはり知るのが遅かった。そうと気付いた時には既に己の足は彼の境界線を踏み越えてしまっていて、触れた指先は彼に苦痛を与える事しか出来なかった。
 がくん、と僅かに振動して、エレベーターが目的の階に到着する。傘を持ち直してエレベーターを降りると、マンションの中であると言うのに、水滴の落ちる音がにわかに強くなった。
 雨足が強くなったにしては音が近い。はたと顔を上げると、視線の先に雨を滴らせる明るい色の毛先が見えた。

「東横」

 エレベーターの前、自身の部屋の前に、いかにも雨に降られたと言った風の東横が立っていた。

「……お前か」

 声をかけてから避けられている事を思い出したが、名を呼ばれた東横は、ああ、と顰め面を田園都市に向けたくらいで、さしてナーバスになっている様子もない。
 当たり前と言えば当たり前だ。そもそも仲のよい関係ではないのだから、あんな事があった所で、田園都市の存在が彼にとって鬱陶しいものである事に変わりはないのだろう。
 だが、その見覚えのあるリアクションは、微かでも田園都市の背を押した。態度が軟化する事などないにしても、今まで以上に硬化する事がないのならば、まだ普通に――あの日の事など、なかったように振る舞える。

「傘はどうした」
「朝も昼も降ってなかったのに持ってる訳ないだろうが」
「……旅客鉄道の一角として、天気予報くらい見たらどうだ」

 東横が首を振る。ぱたぱたと小さな水滴が散るさまに不謹慎ながらも目を奪われてると、ちっと高い舌打ちの音が響いた。

「お前につべこべ言われる筋合いはない」

 毎日のように言われていた言葉を、久し振りに聞いた気がした。

「……そうだな」

 そうだろうとも。そうでなくては困るのだ。
 あんな風に彼を傷付けてもなお、田園都市は東横に期待する事を止められなかった。突き放して、こちらの事など目もくれぬ彼だからこそ、田園都市はこうも惹かれているのだ。

「兎に角、さっさと風呂くらい浴びた方がいいだろう。風邪を引いたら事だぞ」

 田園都市の部屋は東横の隣である。彼が玄関に入るのを視界の端で確かめ、極力早めにシャワーを浴びてくれる事を願いながら部屋に入ろう。

「そうだな、……もう、傷に染みる事もなくなった事だし」

 そう思って翻した背に、石のような言葉が投げられた。
 独白のようなそれは、内容から自分に当てられたものだと容易に想像がつく。動揺のまま振り返った先には、視線を外す前に見た時と全く同じ姿のまま立っている東横がいた。
 見つめる目の色はいつもと同じで、だからこそ真意が測れない。

「東横……?」

 東横の手、鞄を持っていない左手が、唐突に田園都市の腕を取った。
 何事だと言い返す間もなく、強く引っ張られる。右手が驚く程鮮やかに扉を開けて、気付けば彼の部屋に押し込められていた。
 文句か疑問か、兎も角何事か言おうとした唇にはやわらかなものが触れていて、田園都市は頭に浮かんだ全ての思考を放棄してしまった。
 ばたん、と勢いよく閉じた扉に背を押しつけられて、東横にキスをされている。
 田園都市に比べれば低い背丈をしている東横の顎が、ん、と僅かに仰のいているのが見えて、そうと気付いた瞬間には彼の背に手が回っていた。制服が湿るのも厭わず抱き寄せると、びくりと背筋が強ばったものの、それ以上の抵抗をする事はなかった。
 音を立てて落ちた鞄がどちらのものかも分からない。支えている体は雨で冷えている癖に、緩く開けた口に入り込んできた舌は爛れそうに熱かった。

「ん」

 舌は歯の裏をぬるりと這って、求められるままに差し出した舌先に吸いついてくる。息継ぎの合間に触れた頬は降られたせいでしっとりとしていて、手を離すのが惜しくなる心地がした。

「……傷なら、塞がったぞ」

 キスを止めた東横が、唇同士が触れそうな程近くで囁く。

「東横」
「確かめたくないか?」

 誘い文句にしてはあんまりにもチープで、だからこそ彼が本気でそう言っているのだと理解出来た。
 後ずさりし、踵を上がり框に引っかけるようにして靴を脱いだ東横に倣って、靴を脱ぐ。彼の部屋に入る事自体初めてだと言うのに、生憎と部屋の詳細を見る余裕はなかった。
 だが、さして生活感のない部屋だと言う事は分かる。ソファに放っておかれたままの昨日付けの新聞を除いては、ほとんど家具が置かれたままの状態と言っていいだろう。料理をしている分、調理道具が揃えている田園都市の部屋の方がまだ人が住んでいる感じがする程である。
 腕を引かれ、無言で寝室に連れていかれる。――あの日とは、まるで逆の立場で。
 誘われた寝室も、やはりどこか無機質な雰囲気をしていた。引かれたままのカーテンと、常夜灯の代わりの間接照明が点きっぱなしになっている。狭い思いをするのが嫌なのだろう、ベッドがクイーンサイズなのには少し驚いたが、ある意味彼らしいと言えば彼らしかった。
 ジャケットを脱いだ方がいいのだろうか、と考えている間に、東横の腕がひらめいた。
 半ば投げられるような形で、どさりとベッドに放られる。追うようにベッドに膝を乗せると、濡れているせいで脱ぎづらいのだろう、東横が湿った己の襟元に触れながら舌打ちをした。

「言っておくが、オレはハンガーを用意してやる程親切じゃないからな」

 クリーニング行きが決定したジャケットを一瞥して、ベッドの下に脱ぎ捨てる。ようやく袖の抜けたジャケットとジレを東横が放ってしまうのを見届けると、今更な疑問が胸中に沸いた。
 一体何をしているのだろう。一体、何でこんな事になってしまっているのだろう。
 言動と今のこのシチュエーションからして、東横が自分とセックスをしようとしている事は容易に知れる。だが、彼がそうしようと思うのが分からなかった。嫌いだの気に食わないのと豪語する自分相手に、まさかこんな形で嫌がらせをするような人物にも思えない。
 起こしていた肩を押されて、シーツに押しつけられる。のし掛かるように体を近付けた東横の首元から垂れたネクタイが己のそれにぶつかって、本来ならば混じりあうはずのない色の並びに胸が痛んだ。
 大東急時代、彼が周囲の私鉄にふらふらと手を出していたのは知っている。だが、ただの気まぐれにしたって、その矛先が己に向く事などないはずなのに。

「首」

 ネクタイを解き忘れていた事に気付いた東横が、襟元に手をかけて一気に赤い帯を引き抜いた。手を伸ばされてついでのようにネクタイを解かれると、東横の冷えた指がつ、と眼鏡のブリッジに触れた。
 あっさりと眼鏡を奪われて、サイドボードの上に置かれてしまう。そのまま指は戯れるように首筋をくすぐると、彼は慣れた手つきでシャツのボタンを外していった。
 本当に自分とする気なのかを確かめたくなって、目の前で揺れるシャツの裾に手を伸ばす。下からゆっくりとボタンを外していくと、拒むどころか、東横は「さっさとしろ」と体を寄せて急かしてきた。
 田園都市の頭は混乱するばかりだ。

「東横」
「言っておくが、お前に突っ込む気はないぞ」

 そんな事考えただけで萎える、と吐き捨てて、東横が田園都市の首筋に顔を埋める。べろりと太い血管の上辺りを舐めるその体の腰を支え持つと、伝い上がってきた舌が再び唇に触れた。
 抱く気がない、と言われたのは、些か意外であった。押し倒してきた以上、てっきり彼が上になるのだろうと思っていたのである。

「……ん」

 執拗な口付けに応えながら、肌蹴たシャツの中に手を差し入れる。指先で軽く押すようにして触れた腹筋はなだらかで、さして鍛えている風にも見えなかった。

「……焦れったい触り方をするな、この馬鹿」

 触れるか触れぬかの曖昧な手つきが気に障ったのか、東横が手を掴んで掌を己の脇腹に押しつけた。
 力を入れれば骨の位置すら分かってしまいそうな体は、華奢や繊細と言った儚いイメージの言葉は似合わず、ただただすんなりとしていた。彼自身が内包する性格もあるのだろうが、肉付きがまるで少年のようなのだ。
 その体が今、田園都市の体の上にある。手を伸ばせば届く所で、無抵抗にも肌を曝しているのだ。
 その事実がぞわりと腰の辺りが疼かせるのを自覚しつつ、脇腹に押し当てられた掌を撫でるようにしながら上へずらしていく。その痩せた線を撫でられるのが気に入ったのか、東横は心地良さそうに吐息を漏らした。

「っ」

 日に焼けていない胸をさらりと撫で上げる。掌に引っかかる尖りに指先で触れると、うく、とくぐもった声が零れた。

「東横」
「話しかけるな、呼ぶな、黙ってろ」

 仮にもセックスをしている間に「話しかけるな」はないのではないだろうかと思ったのだが、文節ごとに入る吐息を聞いて追求する気が失せた。流石に、そこまで空気の読めぬたちをしているつもりはない。
 不意に東横の両腕が首の後ろに伸びて、引き寄せられるようにして口付けられる。
 東横の反応の一つ一つが、静かに田園都市を昴ぶらせていた。触れるごとに硬さを増す胸の先に執拗に触れると、重ねられた唇の端から熱い息が零れ出る。
 お返しとばかりに、その唇が首筋に強く噛みついた。加減もなく歯を立てられていると言うのに、思わずびくりと体が反応を返してしまう。
 胸に舌を乗せられて、乳首を口に含まれる。濡れた音とともにそこに吸い付かれると、殺しそこねた声がくぐもって喉をすり抜けた。

「う」
「……ふん、マゾヒストめ」

 ふ、と顎先の辺りで東横の笑う声がする。
 否定出来る程の余裕は、実の所あまりない。脈の通る首と、鎖骨を食べるように噛む体を今度は己の方から引き寄せてやると、腕に引っかかっただけのシャツの裾がぱたぱたと魚のヒレのように翻った。

「田園都市」

 吐息のような声が、田園都市の耳を犯してゆく。
 そんな声色で名を呼ばれる時が来ようとは、夢にも思っていなかった。憎たらしい、売り上げばかりが先行している東急の主要路線、それが彼にとっての自分であるはずなのに。

「……何だろうか」
「足」

 なるべく平静を装って返事をすると、ぺち、と軽い音を立てて、東横の腿が田園都市の足を叩いた。
 東横の目からふっと情欲の色が消えているのにはっとして、何も言う事が出来なかった。己に跨ったまま湿気を含んだスラックスを脱ぐさまはひどく難儀そうだと言うのに、奇妙な緊張が喉を押し上げるせいで手伝う事も出来なかった。
 制服を脱いだ足は、向かって右側の腿に包帯を巻いている。傷は塞がったのではないのか、と視線で問うと、東横はなぜか小さく笑って、取ってみろ、と囁いた。
 いやに静かになってしまった空気の中で、包帯の結び目を解く指先が震えてしまっている。どうにか片結びを解くと、手から離れた包帯の先がはらりと腿から垂れ落ちた。
 東横が微かに身じろぐと、合わせたように太腿を包帯が滑るように落ちてゆく。押さえるもののなくなった小さなガーゼがシーツの上に落ちると、あの日確かにこの指で刃を突き立てた、あの場所が目に入った。

「……ちゃんと、塞がっているだろう?」

 確かに、新しい皮膚はまだ赤みを帯びていたものの、傷はしっかりと塞がっているようだった。だが、そこにはいかにも何か細いものが刺さりましたと言わんばかりに窄んだような形の跡が残っていて、それ程の傷を東横に負わせてしまったのだと言う暗い後悔が、今更ながらに胸を覆う。
 問いかけてくる東横の声はやけに静かで、彼らしくない穏やかさすら含んでいるようだった。まるで、己を宥めようとしているのではないかと錯覚したくなる程に。

「東横」
「無駄な事言ったら、殴る」

 これ以上の問答をする気はないのだろう、ぐっと東横が体を寄せてきた。包帯を解く為に起き上がらせていた腹筋に、じわりと熱いものが押しつけられる。

「さわ、れ」

 長年慕う彼にそう言われてしまっては、田園都市に否と言う理由はない。
 下着を引きずり下ろすと、東横の性器は緩く勃ち上がっていた。
 同性の性器などに触れるのは初めての事であったが、つまりは田園都市と同じつくりをしているのだから、その扱いは十分に分かっている。括れに手をかけ、ゆるゆると扱き上げると、先端から滲むように透明な汁が浮かんだ。

「ん、く、……う」

 きちりと噛み締められた唇の間から、隠しようのない声がこぼれ落ちる。声を聞かせたくないのだろうか、噛んだ唇の上に更に手を押し当てて、東横は切なげに眉根を寄せた。

「お前、も」

 ずるりと性器を引きずり出されて、扱かれる。同性と関係を持った事があると言ってのけるだけあって、やはり触り方に慣れが見えた。
 ――そう言えば。

「東横」
「だから、最中に話しかけるなと言っているだろうが」
「……今まではどうしていたのだろう、と思ったのだが」
「はあ?」

 もたれ掛かってくる体の向こう側、腰の後ろにするりと手を回す。場にふさわしくない顰め面を作った東横は、胸を張るように背筋を反らせる。

「どうも何も……」

 なぜかその先の言葉をこくりと飲み込んで、東横は噛みつくように小さく叫んだ。

「兎に角、お前はじっとしていればいいんだ、よ……っ!?」

 そんな事だろうと思ったのだ。昔に目蒲今更ながらに多摩川から聞いただけではあるが、東横は同性を抱きはするものの、抱かれたと言う話は聞いた事がない。
 短く溜め息を吐いて、彼の腰今更ながらにと言うより、臀部を引き寄せる。ひ、と驚いて上げられた声に構わずに肉付きの薄い尻に指を這わせると、抱き寄せて距離の縮まった東横が目尻の辺りを赤くさせていた。

「自分で慣らすと言っているだろうが……!」
「……何を」

 強情な、と言う感想を飲み込んで、彼の先走りで濡れる指を尻の谷間に滑らせる。骨ばっていて女性と比べればお世辞にも柔らかいとは言えない分、皮膚はぴんと張っていて滑らかであった。

「う………」

 下手に暴れられぬ内に、奥の入り口に指を触れさせる。ああは言っていたものの、こうなってしまった以上は自分に任せるつもりらしい。田園都市の肩に手を置いて、東横はふ、と息を吐いた。
 力の抜けた瞬間を狙って、濡れた人差し指を差し入れる。指を入れた途端に堪えるような声が耳元に響いたが、やはり東横は努力して体の緊張を抜こうとしているようであった。

「余計な心配をするな。……こっちは、お前より慣れてるんだ」

 確かに彼の言う通りだ。たとえ今まで男を受け入れる立場を味わった事がないにしろ、その逆があるのだから、多少のコツくらいは持ち得ているらしい。思ったよりも温かい壁の中でゆるゆると指を前後させていると、いいから早くしろ、と不釣り合いにねだる声がかけられた。

「う、ん、く、……っ」

 指が二本、三本と増えるごとに、東横の口からは苦しげな声が漏れる。ゆっくり、傷を付けぬように指を動かしていると、時折苦しそうな声に艶が乗った。
 幾ら性的なアドバンテージがあった所で、初めて受け入れる異物感は相当なものだろう。本来ならばそんなつくりをしていない所で、未だになぜそうしようと思った理由も分からぬまま、東横は田園都市を飲み込もうとしているのだ。
 噛み癖がある事を思い出して、噛み締めている唇にそっと指を触れさせる。指先を唇の輪郭をなぞって、緩く口が開いたのを見てから、彼の首の根を掴んで肩口へと押しつけた。

「噛むのなら、そこでも噛んでいてくれ」
「……どこまでマゾなんだ、お前は」

 呆れるような吐息が耳のそばで聞こえて、ゆっくりと東横が体を離した。

「……そんな気遣いなんて願い下げ、だ」

 背筋を伸ばしてずり上がったせいで、彼の中から指が抜け落ちる。内部からずるりと指の出る感触で眉間に皺を刻みつつも、東横はひたと田園都市の性器に手を伸ばした。
 支え持った性器の上に跨ろうと、東横がそろそろと体を動かす。本当に自分で入れるつもりなのか、とは思ったが、ここから押し倒して田園都市が挿入を試みようものならば彼は激怒するに違いない。
 ふ、と一際大きく息を吸う音が聞こえて、濡れた音とともに慣らされ解れたそこに性器の先端が触れる。
 汗と雨で湿った前髪の向こうから、鮮烈な眼差しが田園都市を見つめていた。
 は、と呼気を吐き出す音と共に、東横がずぷりと身を沈ませた。

「――っ、あ、は……っ!」

 呻きとも喘ぎともつかぬ声が、東横を襲っている感覚の強さを物語っていた。
 自身を包む快感もそこそこに、田園都市は彼の背を支えてやる。指とは圧倒的に質量の違うものを飲み込んでしまうと、流石に余裕そうに見えた彼の顔にも苦痛が浮かんで見えた。その苦しげな表情がいつかの顔と重なって、見ていられないのだ。
 ぎゅっと肩を強く掴んでくる手を取って、握ってやる。そうして固めた手を軽く引いて顔を近付けると、東横は抗う素振りもなくキスを受け入れた。

「……もう、平気なのか?」
「多分、な」

 暫くキスを交わしていると、東横の腰がそろそろと上げられる。抽送と言うにはあまりにもぎこちない動きに彼のが心配になったが、唇に直接吹き込むように呟かれた言葉はひどく濡れて響いた。

「っ……、く、ぅ」

 雨に降られて冷えたはずの体はいつのまにかしっとりと熱を帯びていて、じくじくと田園都市を侵していく。下から腰を突き上げてしまいたい衝動を何とか押さえつつ、東横がゆっくりと動くのに任せていると、慣れてきたのか、次第に声に甘さが混ざるようになった。

「東横」
「あ……?」

 汗の伝う頬に触れて思うのは、こうもなってなお、彼に恋慕の思いの欠片すら伝える事の出来ぬ自分の愚かさであった。
 ――きっと、ずっとこのままなのだろう。
 求め、奪い合う。そうする事でしか、田園都市は胸に秘める思いを匂わせる事が出来ないのだ。

「あっ、馬鹿、やめ……!」

 互いの腹の間で擦られていた東横の性器に手を伸ばし、強く扱いてやる。ひあ、と舌のもつれたような声が田園都市の耳を心地よく打ったのは、きっと彼にとっては汚点なのだろう。ぐっと肩に押しつけられた口は先刻田園都市が言ったように歯を立てて、その痛みすら己にとっては快楽として返る。

「でん、えん、とし………っ」

 絶頂の狭間、ふ、ふ、と短い呼吸の間に名を呼ばれて、気付けば薄い唇を奪っていた。
 肌同士が触れ合う乾いた音と粘膜の擦れる水音が、東横の吐息を、零れる声を、あまりにも淫猥に彩る。
 今、この時だけは、まるでまともな人間のように快楽を感じて。この刹那の合間だけ、まるで恋人のように互いを求めて。
 きゅう、と絞るように蠢く内部の動きに導かれるように、田園都市は達していた。

 ◆

 引き攣って泣き声にも似た吐息が、少しずつ穏やかさを取り戻していく。
 腹を己の吐き出した精液で濡らした東横が、田園都市の肩にしがみついたまま呼吸を整えていた。
 ん、と息を吐いて、ぐっと東横が余韻に震える腕を突っ張る。飲み込まれたままだった性器がずるりと音を立てて抜けて、緩んだ後ろからは田園都市が吐き出した白濁が腿を伝った。

「う……」

 傷の横を自分が放った体液が伝っていくさまは、どこか皮肉げに映る。田園都市の横にぺたりと腰を下ろした東横は、腸壁を伝い落ちていく精液の感触に堪えているように見えた。
 ――だから、反応が僅かに鈍くなっていた。
 セックスで疲弊しているだろうと思っていた体が驚く程俊敏に動いて、痩せた腕がこちらへと伸ばされる。
 気付けば、田園都市は再び押し倒されていた。
 体にのしかかられているのも先程と同じであったが、それだけではない。運行表をめくる細い指が、田園都市の首をがっちりと固定しているのだ。

「……まだ死にたいか、田園都市」
「とう、よ………」
「ああ、言い方が違うな。まだオレに殺されたいか、田園都市?」

 見下ろす東横の瞳は、数十年前に溝ノ口の心を囚えた時の色をしている。

「お前、が……東横線が、そうしてくれるのならば」

 突き刺すような視線に誘われるがまま、田園都市は思っている通りの事を正直に吐き出した。
 今だろうがこの先だろうが、この息を止められるのは彼しかいないのだ。
 思い詰めて煮詰まった感情に行き先はない。けれども、ならばいっそと望む結末を、きっと東横は欲していないのだ。

「断る。……言っただろう、オレはお前を絶対に許さない、と」

 その言葉と、ごく弱く掴まれたきり力の加わらぬ手が、予想していた絶望を告げていた。

「勝手にこっちの視界に入ってきた挙げ句、殺せ、だと? 自分勝手も甚だしいんだよ」

 ああ、やはり、と言う諦めが心を支配してどうしようもなかった。彼が自分を殺すなんて、天地がひっくり返ったって有り得ないのだ。

「オレは、この首に、東急東横線の首に一度でも手をかけたお前を赦さない」
「……東横」

 言葉を重ねるごとに激高していく彼にどうしてやればいいのか、甚だ見当も付かなかった。
 ただ、己の為に震える背がいたたまれなくて、首から手が離れると同時に薄い体を抱き寄せた。
 押し倒され、ベッドに仰向けになった己の胸の上に、東横の体が覆い被さっている。鉄あらざる身なれば涙くらいは零れたのではないかと思う程、あたたかな体が。
 背と同様に震えている唇が、触れるだけのキスをした。顔を離して見つめてくる瞳は東横線とは思えぬ程揺れていて、田園都市は心中で彼に詫びるほかなかった。

(すまない、東横)

 田園都市が求める安寧を東横が与える気がないのと同じように、東横が求めてくる真っ直ぐなものを、田園都市は差し出す事が出来ない。

「延伸を繰り返し、東急の主要路線と呼ばれるまでになって、そうしてオレの隣に立つのならば、勝手にオレから離れるな………!」

 ――恐らく、東横も分かっているのだろう。
 こうして、互いをすり減らしながら触れ合う事しか出来ないのだと。安っぽくも普遍的な幸せなどが、二人の間に存在し得る事などないのだと。
 それでも、そうと分かってもなお、東横がそばにいろ、と言うのであれば。

「……承知した」

 そう頷きを返す事が、今の田園都市に出来る精一杯であった。
 エゴが強すぎて、互いの想いの先があまりにも違いすぎて、こんな形でしか妥協しあう事が出来ない。何の事情も知らぬ第三者が端から見れば、ある種幸福にも見えるであろう、こんな形でしか。
 なんて脆く危うい着地点なのだろう。それでも、揺らせば覆ってしまいそうな程のものに、彼と二人で縋るほかに術はないのだ。
 間接照明がほのかに浮かび上がらせる体を冷やさぬように抱き寄せると、やはり東横からは今宵も鉄のにおいがした。ついでに彼のバスソープのにおいだろうか、そろそろと回された腕のうちからは微かに花の香りさえして、どちらもろくに出来やしない不器用な性格であるのに田園都市は笑いたいような、泣きたいような気分になった。

「そばに、オレの手の届く所にいろ、田園都市」

 ――ああ、彼から鉄とバラのにおいがする。