ループ - 1/4

寒い風の日

 颯々と渡る風は、清く冷たい。しかししんと体に染みる寒さすら今は心地よく、玉川電気鉄道玉川線は、纏った羽織の袂を手繰り寄せながら、ほうと一つ丸い息を吐いた。
 抱えた酒瓶はいつもよりも上等なもので、さりさりと袖を滑る包み紙の感触すら快く胸に響く。並んでいる門松を見れば、自然と口角が持ち上がった。休日の朝であるのに、人々とすれ違う道は平日の昼間のように賑やかしい。
 ひたひたと草履を鳴らしながら、何度か訪れた事のある邸宅へと向かう。一般的な家に比べればどっしりとした構えをした屋敷の門には、当然のように大ぶりの松が飾られていた。

「お邪魔しまーす」
「はーい?」

 一声かけてから門をくぐると、誰もいないと思っていた庭先から声が返ってきた。それも、玉川の知っている者の声である。

「目蒲!」
「おや。誰かと思ったら君だったんだね、玉川」
「おうおう」

 屋敷の陰からひょこりと飛び出した顔に破顔して、玉川は一足飛びでその側へと寄っていく。隣に並んで顔を見合わせると、麦穂のような色をした髪を揺らして、ふふ、と彼――目蒲電鉄目蒲線は、にっこりと愛想良く微笑んだ。

「千客万来だね、今日は」
「そりゃまあ、元旦だからなあ……、っと」

 自分もその来客の一人であったのを思い出して、玉川はぱっと居住まいを正した。おろしたてでまだしゃんとした羽織の裾が、勢いよく下げた頭に倣って揺れる。

「明けましておめでとう御座います。何卒、本年も玉川電気鉄道を宜しくお願い致します。つまらないものですが、お納め下さい」
「あらあら、これはこれは」

 しずしずと酒瓶を差し出した玉川の様子がツボに入ったのか、袖で上品に口元を隠して酒瓶を受け取ると、目蒲はころころとひとしきり笑って、玉川と比べれば浅めにぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ、目蒲電鉄と東京横浜鉄道を宜しくお願いします。……ふふ」
「……こう言うのって慣れないよなあ、何か」

 くすくすと笑う目蒲につられて、眉尻をうんと下げて情けない笑みを作った。そんな様がまたお気に召したらしい、袖口をぴらぴらとこちらに向けながら、目蒲が笑い足らぬ様子で口を開く。

「もう、こちらとしては君が紋付きの羽織を着てるだけで愉快だよ。いつものくたびれた銘仙はどうしたんだい?」
「何だよ社紋入りだぞ? 言わせて貰えば、お前の着物だって見慣れてない上に変に似合ってるから、何かあの人のお妾さんみたいに見える」
「ヤだなぁ、あの人にそう言う趣味はないってば。第一、僕もあんなオジサンは遠慮したいなぁ、なんて」
「おっまえなー!」
「……ちょっと!」

 けらけらくすくすと笑いあって、藍色の織りに華やかな縁起模様を入れた着物に包まれた肩をばしばしと叩くと、玄関先から鋭い声が飛んだ。おや、と首と背を反らせてそちらを見ると、やや派手な印象すらある橙の振袖をひらひらと踊らせながら、一人の若い女性、と言うか少女と言ってもいい年頃の人が、小股で二人の方へと駆けてくる所であった。

「アンタ達ねぇ、あんまり大声で話してると叱られるわよ!」
「大井町は心配性だなぁ。聞こえたって、あの人なら気にしないから大丈夫だよ」
「目蒲!」

 んもう! と腕を突っ張って怒る彼女――大井町線の白い頬が、酒と寒さのせいかほんのりと赤く染まっている。そこでふと、ここに一人足りない路線がいるのを思い出して、玉川はううんと首を捻った。

「町、町さん」
「何よう、アンタその名前縮める癖どうにかなさいよね」
「癖なんだよ。それより、坊ちゃんは?」

 自社の路線すら縮めて呼んでいるのだと唇を尖らせ、敢えて路線名を口にせずに件の人物の話題を振ってみる。すると大井町はああ、と髪飾りで纏めたまっすぐに伸びるやや赤い髪を振って、ぴっと細い指で家の中を指した。

「アタシと代わるとか言って、お客さん相手に役に立たないお酌中よ」
「はぁっ? 神奈川のお坊ちゃんが酌?」
「だから言ったじゃないの、あの不器用ぶりじゃどう考えたって役に立ってないわね。傾けた酒全部零しかねないわよアイツ、ああ勿体ない!」
「あと玉川、もう神奈川じゃなくて『東横』だからね。いい加減、直さないと」

 どうせ外見に合わぬ横柄な態度でお役の交代をさせられたのだろう、恩着せがましいだの、あの不器用は日頃出される菓子すら綺麗に食べないの、おまけに噛み癖まであるの何のと文句を言い出した大井町を遮るように、やんわりと、しかし強い口調で目蒲が指摘を付け加えた。

「ああ……そうなんだよなぁ、慣れないの何のって。間違える度に溝に神奈川じゃない東横だって怒られてさぁ」

 いつだって鳥の巣のようになってしまっている強い癖毛の頭を掻きながら、言い訳にもならぬ言い訳を零す。
 先程から玉川が口にしていた「神奈川」とは、東京横浜鉄道神奈川線の事を言う。一昨年の二月に開業した彼は、つい昨年の一九二七年八月、開業から約一年半の間を開けて、未開業部分であった渋谷線区間との直通を果たしたのであった。その際に路線名も変更となり、「東横線」となったのである。
 そして、玉川が「神奈川線」と言う度に怒るのが、自身の支線である溝ノ口線なのだ。

「溝ノ口に?」
「何かアイツ、坊ちゃんが気になるみたいでさ。開業前に挨拶行ってからぽーっとしちゃってもう、恋する乙女のよう!」
「わぁ何それ、男色だぁ」

 溝ノ口ったら、と笑う目蒲の顔には、でかでかと「面白い事を聞いた」と書いてある。まるで日の沈んでいる間の彼のように弧を描く瞳を見て(彼は日の入没を契機にして性格が変わると言う奇病持ちなのだ)、もしかしてこいつ今日寝てないのかな、と玉川はそっと心中で一つの仮説を打ち立てた。
 日中はおっとりとしていて人のいい目蒲であるが、日が沈むとそこに毒が加わるのだ。利き手まで右から左に変わるもので最初は一体何が起きたのかと思ったが、今ではすっかり慣れてしまった。その内どうにかなるかもしれないし、このままの状態が続いたとしても、慣れっこになった玉川としては特に困る事もなかった。

(今んトコ取り敢えず他社だしなあ、目蒲も)

 玉川は、対岸の火事はこちら側に延焼するギリギリまで堪えて眺めるたちなのである。

「……溝ノ口線って、あの綺麗な子でしょ?」
「ん? ああ、まあ、綺麗っちゃ綺麗だな。溝がどうかしたのか?」

 ぽつりと問いを零した大井町を見遣ると、下駄で伸びた背がやや丸まって、ううん別に、と不明瞭な声を返した。
 はてさて、これはもしや。

「……町、溝が気になんのか?」
「ち、違うわよ! そんなんじゃなくて、ただあの子が東横をねぇ、って思っただけよ」
「ふうん」 

 勿論顔には出さぬものの、よもや口にしない方がいい話をしてしまったか、とそっと反省しつつ、玉川はわざとそっぽを向いて狼狽する大井町を見逃してやった。
 その様子に、大井町がほ、と息を吐くのが分かった。そんな彼女を、やはり新しく与えられた玩具のような顔で見つめる目蒲の視線には気付いていないようであったが、そこは言わぬが花であろう。

「……ま、東横ならきっと今頃、あの人の横で訳知り顔で栗きんとんでも食ってるわよ。呼ぶ?」
「いんや、別にいいよ。この調子じゃあちらさんも忙しいだろ?」
「そうねぇ……。でも来てる事を言わない訳にも……」
「いやいや、いいっていいって」
「玉川、君、さてはあの人に会いたくないんだね?」

 ぶんぶんと手を振る背後から嫌な声がしたが無視だ。まさかそんな、あの男に会うといちいち面倒だの話が長そうだの無碍に扱われたらちょっと空しい、なんて事は欠片も思っていない。

「玉川、思ってる事全部顔に書いてあるよ」
「うげぇ、本当か」

 わざとらしく顰め面を作って、再び目蒲と顔を合わせて笑いあう。食えないやつだな、と言うのが自分から彼への総評なのであるが、結局の所、彼も同じような事を思っているに違いない。

(だって、他社だし)

 心中で二度同じ事を呟いて、羽織の懐から懐中時計を引っ張り出す。時刻を確かめれば、これくらいまでに帰ってくるように、と溝ノ口から厳命されていた時間が間近であった。

「溝がおキヌと雑煮作ってんだよ。遅れて餅が伸びたらどやされる」
「……君って何で末っ子君とお嫁さんにそんな尻敷かれちゃってるのかなぁ」
「おキヌは嫁じゃないって。男女だからって夫婦になったら、お前と大井町だって夫婦になるぞ」
「ちょっと、こんな女々しい旦那なんて嫌過ぎるわよぅ!」

 ぱたぱたと顔の前で手を振って目蒲の言葉を否定して、去り際にと屋敷に目をくれる。すると丁度からりと縁側の襖が開いて、狭い隙間から跳ねた黒髪の少年が庭先を覗き込んでいた。神奈川――否、東横だ。

「東横坊ちゃん! 明けましておめでとーう!」

 玉川の立っている所から東横のいる縁側まで、些か距離がある。いかにも着慣れていなさそうな和装で顔を出した少年へ声を張り上げると、お屠蘇を飲まされたのか、少し赤らんだ頬が戸惑いに強ばった。

「……あ、う、明けまして、おめで……」
「今年も宜しくなー!」
「む、う、……玉川、大声で五月蠅いぞ! 後ろにコイツと客がいるんだ! 大体、東京横浜鉄道東横線に向かって坊ちゃんとは何だ、恥辱だっ!」

 見ているのに気付かれるとは思っていなかったのだろう。それに加え、袴に着られてしまっているのもあるのかもしれない。いつものはきはきとした声音をどこへ置いてきたのか、東横はしどろもどろになっていた。しかしそれにも構わず言葉を重ねると、怒りも露わに怒鳴りつけられてしまう。悪い、と言い返そうとする隙もなくぴしゃりと閉じられた襖を呆然として見ていると、隣の大井町がはあ、と大きな溜め息を吐く。

「……ありゃ飲まされたわね、アイツ」
「顔真っ赤だったし、よっぽど自分の方が大声出してたねぇ」
「……『恥辱』って、坊ちゃんまた過激な言葉を覚えたもんだな」

 まあお正月だし仕方ないかなぁ、と首を傾げてふんわりと微笑む目蒲と、それを横目で睨みながら膨れている大井町とを見比べてから、玉川は苦笑気味に言葉を零す。

「んじゃ、坊ちゃんにも挨拶出来たし、オレはそろそろお暇するよ」
「そう? ゆっくりお構いも出来ませんで、ごめんなさいね?」
「いやいや、オレこそ慌ただしくて申し訳ない」
「溝ノ口クンとお嫁さんと愉快な支線達に宜しくね」
「だから砧は嫁じゃないし、お前んトコのが十分愉快だって」

 飛ばされる言葉にあれこれと言い返してから、ざりざりとした砂利を草履の裏で鳴らして歩き出す。玉電の路線が宿舎代わりにしている家はこんな風には立派ではないが(まあ、この家とて東横と目蒲電鉄の家ではなく、その経営者の自宅であるが)、路線数が五と数は多い為、広さはある。その広い台所で溝ノ口と砧が格闘しているのだと思うと、自然と足は早足になった。
 家路に就く道はやはり寒かったが、日が先程よりも高くなっているお陰か、日の当たっている地面がじんわりと暖かい。

(お年玉とか配ったら、溝に「子供扱いしないで頂きたい」って叱られるかな)

 だが、中目黒に溝ノ口、と弟分が増えたのだ。少しくらいの兄貴面はさせて欲しいものである。
 ――兎に角、早く帰ろう。自分のせいで待たせてしまっては、腹を空かせた天現寺に文句を言われてしまう。
 顰め面でお帰りなさい、と言ってくれるであろう溝ノ口と、その彼の隣できっと笑顔で出迎えてくれるであろう砧とを思って、ついに玉川は駆け出したのであった。

 ◆

「……がや、世田谷ってば!」

 女性の声がする。砧よりも高くて、強さのある声。
 砧の声はもっと低かった。低いのに細くて、その声で己を玉川さん、と呼ぶのである。

「――って、うおああっ!? お、おはよう町!?」
「……何でそんな驚くのよ、アタシは起こしただけよう?」
「………や、夢、見てて。昔の」
「昔の?」

 うん、と口の中でもごもごと相槌を打って、俯せていた顔を持ち上げる。時計は東横が指定していた打ち合わせの時間を三十分程過ぎていたが、まだ彼は到着していないようであった。

「……うん、昔の、夢」

 今はもう田園都市線と名乗る溝ノ口が開業した次の年始の事だ。大井町ももっと背が低かったし若かったし(なんて言うと怒られそうだ)、目黒と多摩川はまだ「目蒲」の形をしていた、あの頃。
 最早手の届かぬ、遠い日々の夢だ。綺麗に整頓して仕舞い込んだ思い出である。

(何で今更思い出したんだろうな、砧)

 瞑っていた瞼の裏で笑っていた少女の顔をもう一度だけ脳裏に描いてから、世田谷は全てを忘れたように「東横遅いなぁ」と呟いた。