あなたを呪う夜 - 1/8

 池上電車――池上電気鉄道池上線には、理解出来ぬものがある。
 それはひょろりとしていて、息を吐き、あまつ池上の事を好きだと公言して憚らぬ生き物で、そして、それは決まって、日が暮れてから池上の前に姿を現した。
 「生を受けて」からこの方、目立った人生など歩まずともいい、人の利になる仕事が出来れば、手足の代わりになれればそれでいい、と思っていた池上の頭を、横から張り倒すような存在である。
 それは、名を目蒲電気鉄道目蒲線、と言った。

 ◆

「池上! ……池上電車!」

 木陰から声をかけられて、池上ははっと上げた顔をゆっくりと横に傾けた。

「……目蒲」

 柳の陰に幽霊が立っているなんて、よく言ったものだ。目の前に佇む男は、池上にとっては幽霊にも等しい存在である。
 目蒲――目蒲線は、女のように長ったらしく伸ばして編んだ毛の先を、ひよひよと胸の辺りで揺らしていた。

「今日は、もう仕舞い?」
「そう、だけど」
「よかった!」

 綺麗に整えられた五反田駅は、他の民鉄の駅と比べてモダンな空気を漂わせているが、それでも夜が更けてしまうと黒い幽鬼のようであった。見上げる威容は、池上にとってはかの東京駅とさして変わらない。

「五反田駅は綺麗でいいねぇ。オレの駅なんて、こんな大きくないよ」

 言葉に応えず駅舎を仰ぎ見る池上の腕を引いて、ちょっと、と目蒲が不満げな声を上げた。

「池上はもっとオレの話を聞くべきだ」
「……それ、は、悪かった、ね」

 言葉を区切って話す癖がある上に無口なせいで、そもそもこうして「路線」と話をする機会自体が極端に少ない。会話を交わす相手なんて、彼をはじめとする目蒲電鉄の連中か、自分よりも長く走っている玉川電気鉄道の玉川線、それに、己の弟分である新奥沢線くらいだ。

「ねぇ池上、夜更かししようよ」
「もう、十分、深夜」
「オレにとっては昼みたいなもんさ。お腹が減ったんだよね。って言うか喉が乾いた」
「……」

 池上が抱えていた外套を奪って、目蒲は長い裾をひらひらと踊らせながら笑った。そろそろ日付も変わろうかと言う夜更けに、ひどい近所迷惑である。

「ほらほら、着て! 少し行った所で、明け方までやってる店を見つけたんだ」
「君、は、いい、けど、オレは、仕事」
「オレなんて万年寝不足なんだから、付き合ってよ」

 ――万年寝不足なのは自業自得ではないか。
 夜は静かに床に入る時間である。その時間を削って夜歩きして、あまつそれに池上を巻き込んでいるのは目蒲自身だ。彼からすれば、早々に寝てしまっては己の活動時間が減るだけで面白くないのだろうが、その夜更かしに毎度のように池上を誘うのは止めて欲しい。

「目蒲は叱らないの、君を」
「『僕』はオレには干渉しないタチだからね」

 全くちぐはぐの呼び名を、二人は上手に使って会話をしていく。
 目蒲、は彼ではない方の目蒲線の事だ。そして、彼らはお互いを「僕」「オレ」と、自分が使わぬ方の一人称を使って呼ぶ。
 彼らは、一つの体に二つの精神を持っていた。
 一時期世間を席巻した「ジーキル博士とハイド氏」と言うやつである。その契機は時間に左右されているらしく、大体は日が沈む時と夜明けで人格が入れ変わっていた。今は夜で、「オレ」と自分を指す方の目蒲の時間だ。
 昼間は仕事に必要な話しかしない目蒲と池上であるが、夜は些か事情が違った。どうやら、夜の方の目蒲は池上を構いたいらしい。

「大体、誤解されちゃ困る。別に記憶を共有している訳じゃないんだよ、オレ達は」
「そう、なの」
「そう。だから、業務連絡は覚え書きをしておかないと忘れる事もあるんだ。『僕』がきちんとオレに引き継ぎをしてくれていればいいんだけど。……つまり」

 背広の男が二人、それもこの時間に肩が触れ合う程の距離で歩いていると言うのはどうなのだろうと思ったが、道をすれ違うのは会食を済ませたお偉方やら連れの女ばかりだ。しかも、池上は簡素な外套を着ていたが、目蒲のものは装飾が凝っていて少し五月蠅いつくりをしている。髪が長いのも手伝って、一介の会社員には見えやしなかった。
 それはそれで迷惑ではある。池上の男妾のようだ。

「オレが池上とこうやって逢い引きして話した内容は、オレが漏れ伝えようとしない限り『僕』には伝わらない、って事」
「……変な、言い方、やめて」
「ひどいな。オレはこんなに池上が好きなのに」
「勘ぐらせたい、の」

 かちかちと足下で敷き詰められた石畳が音を立てる。

「オレには君と玉川くらいしか、友人と呼べる友人がいないんだよ」

 そこだよ、と脇の路地から覗くこぢんまりとした喫茶店を指して、目蒲はふふ、と目を弓の形にさせる。

「たまには君の後輩の話も聞きたいな」
「新奥沢、の?」
「あー、そうそう。夜に会った事ないせいで、顔も覚えてないし」

 そもそも、新奥沢はあまり社外の人間とは顔を合わせたがらない。「生まれた」ばかりと言うのもあって、確か目蒲には昼間の間に一度、顔見せ程度に会わせたきりだったはずだ。

「新奥沢は、まだ、だめ。勉強する事、が、多くて、君なんか、には」
「何それ。謙遜してるの?」
「違う。警戒、してる」

 すっぱりと言って、池上は喫茶店の扉を引いた。
 冷えた外の空気とは裏腹に、中はぬるく暖められていた。脇に置かれた最新式のストーブを見ながら、近付いてきた給仕の女に指を二本立てて、人数を示してやる。

「……一時間、半。それ以上、は、明日に、障る」
「ありがと、池上。愛してるよ」
「……迷惑」

 外套を脱ぐと、内側に含まれていた冷たい空気が一気に周囲に抜けていく。ふっと息を吐くと、隣で手早く外套を取り払った目蒲が、池上を見てにっこりと笑った。
 ――出会った時から、目蒲線は二人いた。それでも、昼間の彼と、夜の彼と、まるで双子に代わる代わる会っているようで、慣れる事がない。
 狐につままれているような気分だ。どう言う意味で言っているのかは追求するのも恐ろしいが、少なくとも昼間の彼からは「好きだ」なんて一言も言われた事はない。
 案内された席に座ると、目蒲は温かいコーヒーを二つ頼んだきり黙り込んだ。池上としてはこんな夜中に目の醒めるような飲み物は避けたかったのだが、注文をし直すのも面倒臭い。

「君にも苦労とか、迷惑とか、降り懸からせているなぁ、とはオレも思ってるんだよ? 一応ね」
「何、が」
「……会社の事」

 やがてカップが運ばれてきた時に目蒲が呟いたのに首を傾げてから、ああ、と池上は頷いた。

「アイツの後は京浜電鉄、その後はウチ、だろ。正直、自分でも気分が悪いよ」
「……何で」
 アイツ、と言ったのは、池上電鉄設立当初に社を率いていた男の事だ。
 池上の名を使って金を集めて私腹を肥やしていたあの男からこちら、池上の運営は上向いた試しがない。他社に翻弄され、利権を争い続ける羽目になり、そうして、挙げ句の果てにはかの男に目を付けられてしまった。
 そもそも、目蒲の走っている所は元々池上の会社が路線の計画を建てていた区間である。そこに本線が走る予定であって、池上が今電車を走らせている所は、そこから見て支線にあたる区間だ。
 だが、池上はそこに関してどうこう言うつもりはなかった。
 どうせ、走る区間も、会社を導く人間も選べない。計画が進み始めた所で「生まれて」しまった以上、恐らく全ての鉄道はその生き甲斐をその使命に委ねるだろう。
 池上もそうだ。何もかも選べぬならば、少ない人数であろうとも、人の代わりになれている事を支えにしていたい。

「君、だって、何も、選べていない、じゃない」

 当てつけかのように、経営力にものを言わせて開業された目蒲線。彼の上の人間だって、前の経営者からあの男へと変わっている。
 第一、こんな醜い争いを当の路線が望んでいるはずがない。

「……そう、だね。『僕』もオレも、大井町もかな。あの人に感謝はしてるけど、恩だの何だのは思ってないし」

 「彼」の存在が生まれたのは、荏原電鉄目黒線、とされていた計画時から、ちょうど目蒲電鉄に移る辺りに生まれた、と伝え聞いている。結局は精神によろしくない負荷がかかったのだろう。とすると、目蒲もある意味ではあの男の被害者だ。

「西南の、民鉄、は、全て、あの人、の、掌だよ」
「どうかなぁ」
「……いずれ、遅かれ、早かれ」

 己が所属している会社も、いずれはあの男が掌握するのだろう、と池上はぼんやりと感じていた。それはそれで、いい。ようやく頭の回る経営陣になる、と言う事だ。
 どうせ走っているのだ。もう少し路線を整えて、もう少し人を乗せてやりたい。

「東横なんてもう、すっかり染まっちゃってさ。まぁ、神奈川線の時から大概に自我が強かったけど。今じゃもう、小さいあの人を見てる気分」
「……そう」

 小さな体を思い出して、池上は苦く痺れるコーヒーをあおった。
 跳ね癖のある黒髪に、気の強そうな目。小さな体には余る程の矜持を背負って、東京横浜鉄道東横線は、年かさである池上にも全く気負う様子はなかった。確かに、あれは経営者の影響かもしれない。

「今日も冷えるね」

 目蒲がカップを左手で掲げる。彼らは利き手まで逆だ。
 窓の外からは、曇天の夜空が見える。月齢は満月に近かったはずだが、こんな色の空では月がどこにあるのかも分からなかった。

「君が、出て、くる時分、は、いつも、そう、じゃない」

 言うと、目蒲は小さく笑って、そうだね、と沈んだ声で同意を返す。
 ――目蒲線が開業して、そろそろ十年が経とうかと言う、一九三二年。
 覗き込んだカップでは、仰いだ空のようなコーヒーが、池上の吐息で小さなさざなみを作っていた。