あなたを呪う夜 - 2/8

 最近、あからさまだな、と思う事が多くなった。
 新しい宿舎は、どこか空々しくて未だに慣れない。椅子も机も先程畳んだ床も、何もかもがしっくりこない。
 あの翌年、池上電鉄は本当に目蒲電鉄の傘下になった。ろくろく整わないまま開業した新奥沢線は廃止の方向で方針が定まり、それから池上は、新奥沢と個人的に会う事を禁じられた。
 彼と自分では、同じ宿舎でもいる階層が違う。同じ会社で育ち、弟分として色々な事を教えていた存在も、今となっては仕事で顔を合わせる程度だ。

(……惜しい)

 悲しい、寂しい、と言うのはヒトの感情である。だが、新奥沢にかけられた情熱と、金と、資材は、少しずつ解体されて無に帰すのだ。それがただ、惜しかった。

「はい?」

 何ともなしに読み返していた日報を閉じて、立ち上がる。扉を叩く音がしたからだ。

「何、だ……っ!?」

 誰、と言う前に手を引かれたのにも、引いてきた腕がそんな事をしそうにない人物のものであったのにも驚いた。
 目蒲だ。

「やあ、そんなに驚く事、かな。『オレ』じゃなくて僕が君に用なんて、って顔をしているけど」
「……君は、オレが、嫌い、でしょう」
「僕は誰も嫌ってはいないよ?」

 それは、つまり誰も好いてもいない、と言う事だ。
 今日の池上は、休みを貰って部屋で休んでいた所である。そろそろ昼食を摂ろうかと思っていた頃だから、勿論まだ日も高い。
 宿舎の窓から見える空は綺麗に澄んで、雲一つない。春の頭に似合いの天気であった。
 つまり、今対面しているのは、折に触れ池上と会話を交わしている方の目蒲ではない、と言う事である。その彼が休みを取っている池上に用事だなんて、あまりいい予感はしない。

「……中、入れば」
「いや、いいよ。業務連絡に来ただけなんだ、今日は」
「業務――」

 それこそ由々しき事態である。訝しげに顔を顰めると、ああ、と目蒲は晴れやかに笑った。
 にっこりと笑って口を開く。整った顔をしているし、その表情は疑うべくもない笑みに彩られていた。
 ――だからこそ、気味が悪かった。

「そう、業務。君には言っておいてあげようと思って――」

 伸びてきた手が襟元を掴んでいるのが、まるで他人事のように瞳に映っていた。
 襟を掴み、曲げられた手首が顎の下に刺さる。開けたばかりの扉の裏、玄関の角の壁に押し付けられる形で、池上は目蒲に叩きつけられていた。

「な………」
「本当に残念だけれども。池上電気鉄道は、もう終いなんだ」
「え――?」

 壁に押し付けられた池上に、笑みを掃いた目蒲の顔が寄ってくる。昼間の彼に吐息がかかる所まで距離を詰められたのは初めての事だった。
「あの方は、君達の後ろについている財閥から会社の株を全て譲り受ける気らしい。同時に、新奥沢の廃線も正式に決まったよ」
「………っ、そんな。急すぎ、る」
「あの人が堪え性がないからなぁ。我慢の限界なんだろうね」

 顎の下で首を圧迫している手は、彼の利き手――右手であった。そのせいか、力の仮借がない。

「新奥沢、は、どうなる、の」
「どう、って? 廃線になる、と言ったけれど」
「そう、じゃ、なく、て、……新奥沢、自身、は」
「そんな事が聞きたいのかい?」

 池上が問うても、目蒲はやはり笑ったままであった。
 なんて美しく、おぞましい笑みだろう。夜の彼の方が、同じ顔立ちとはいえども、もっとくだけた、もう少しは取っ付きやすい笑い方をすると言うのに。

「さぁ? どう言う訳だか人の形を得たものが、その路線自体が消える時に、どうなると思う?」

 どんな惨たらしい事になるんだろうね、と悪趣味な小説の話でもしているような顔で、目蒲は言った。

「廃止が決まってから、どうして周りが君と新奥沢を離したと思う? 余計な事を見聞きされては、余計な情を持たれては困るからだと、僕は思うんだけどな」
「あ―――」

 残酷な微笑みを口の端に浮かべる目蒲を見て、池上は何となくの所を察した。
 人の胎を経ずに生まれた体は、消える時にどうなるのか。
 ものが消える時に、何の形も痕跡も残さずに消えるはずなどない。立つ鳥は水面に羽根を落とさずとも、そこに確かに水紋は残るはずだ。

「そん、な……そんな、事、が」

 それ以上深く考える事を放棄して、池上は与えられる力に抗う事なく扉に背を押し付けた。
 ただ走っているだけのつもり、であった。その仕事がなくなって、その後自分達がどうなるかなんて、考えた事もなかった。
 漠然とした、形のない不安が押し寄せてきて、目蒲が支えてなければ座り込んでしまいそうだった。

「新奥沢……」

 どこか自分に似ている、いい後輩だ。その彼の存続も、紙一枚で決まってしまう。
 目蒲は呟く首元から手を離し、そのままずるずると滑り落ちる池上を静かに見下ろしていた。
 その瞳には何も映ってはいないのだろう。否、映っているものを、何とも感じていないのだろう。そんな目だ。
 あの男も、大井町も、東横も、池上は愚か、己の半身にすら興味を払っていない、あらゆるものへの興味が失せた虚ろな瞳。

「昼間の間に伝えられてよかったよ。『オレ』は、少し甘い所があるだろう? それが、僕は些か好きでなくてね」
「……そう」

 もう何も言い返す気になれなくて、池上は俯いて己の膝頭に額を埋めた。
 そんな言い方をするのならば、恐らくもう一人の目蒲は自分達の顛末など未だ知らずにいるのだろう。
 こんなに動揺している様を見られる事にならなくてよかった、と思ったが、伝えに来たのが夜間の彼や社員であれば、ここまで心を揺さぶられる事もなかっただろう。
 ――ああ、きっと左利きの目蒲は、あれこれと池上を庇い正当化する言葉を吐くに違いない。君は存続でよかっただの、すまないと思っているだの、その決定に欠片も関わっていない癖に、池上にべたべたと何かしら言うのだろう。
 そうでなくてよかった。今目の前にいるのが、ただ何の気概もなく列車を走らせている彼でよかった。
 今は、どこかいびつで、その癖よく笑う彼を構ってやる精神的余裕はない。

「……出て行って、くれる」
「うん。用件は済んだからね。僕は失礼するよ。……ああ、くれぐれも、この件は他言無用で頼むよ?」
「………」

 そんな事を話す相手なんて、目蒲以外にいなかった。
 立ち上がれない程力が抜けてしまった訳ではないが、背を伸ばして彼と目を合わせるのが嫌だった。あの目を直視出来る気分ではない。

「安心して欲しいな。目蒲電鉄は君を歓迎するよ」

 そんな言葉のどこを信用して心を安らげればいいのだ。
 視界の真ん中を突っ切るように、目蒲の革靴の先が流れていく。キィ、と扉が軋む音をバックに、視界のうんと外、池上の頭上から声が降りかかった。

「それじゃあね、池上。よい休日を」

 完全に閉まったのを確認してから、池上は目蒲を吐き出していった扉の端を蹴り飛ばした。

「新奥沢……、目蒲、電鉄……」

 つい先程まで見ていた日報に見えた新奥沢の字と、冴えた月を背負って笑う目蒲を思い出して、池上は再び俯いた。
 せめて彼の口から聞ければよかった、と思っている自分に多大な嫌悪感を抱きながら、池上は瞳を閉じた。