「ねぇ、多摩川」
「うーん?」
「それ、いつ切る、の」
言うと、ギ、と椅子が軋む音がした。多摩川が背もたれをしならせて、ペンを片手に池上の方を向いている。
「ああ、切って欲しいんだ?」
にやにやと笑う顔にはそっぽを向いて、池上は再び書類に目を落とす。
書類仕事を溜めているつもりはなかったのだが、日々に埋もれてしまえばそんな事もある。書類の半分以上は多摩川が持ち込んだものであったが、その内の幾つかには池上のサインが漏れているものもあった。言い訳はしない。田園都市でもあるまいし、池上にだってそう言う時だってある。
季節は過ぎ、年は変わって、桃が咲く頃になっていた。二十三区外の山間を走る京王線などとは比べ物にはならないが、東急の沿線にもちらほらと花が見え、少しずつ春の訪れを感じるようになってきた。
多摩川は、開業の次の日から変な服ばかり着るようになった。翌日は妙なチャイナカラーのノースリーブを着てきて(ご丁寧にも、前身頃の隅に紫の花の刺繍が入った和風のものだった)、夏が終わると、やはりどこか大陸を思わせる真っ白いスタンドカラーのジャケットを、シャツの上に羽織るようになった。どうやら、それが制服のジャケットの代わりらしい。
およそ制服とは言えない格好ばかりしているものの、見かけるのはその服装が多い。職員もラインカラーのパイピングが施されたその立て襟を彼なりの制服と受け止めるようになったようだが、池上は未だ見慣れなかった。
目蒲線の時は、少なくとも仕事中の時はきちんと規律と風紀を守っていたと思っていたのだが、よもやそれも「彼」に抑圧されていたからなのだろうか。
髪は少し毛先が短くなったものの、やはり後頭部の上の方で一つに括っているのは変わりない。紐を外せば、淡い色の髪は肩甲骨に届くだろう。
目黒も同じ長さをした髪をしていたが、こちらは肩の辺りで緩く一つに結んでいた。元来の言動も手伝ってか、目黒の雰囲気はすっかり縁側に佇む人の好い老人のようである。
(――それでも、やはり、目黒はおぞましい)
路線の接続の関係から、目黒や田園都市などに比べれば、多摩川や大井町と接する時間の方が絶対的に多い。勿論全く顔を合わせない訳にはいかず、週に一度と決められたミーティングの折などには他路線と話をする機会もあるのだが、目黒とはあまり積極的に話をする気にはなれなかった。
多摩川と同じ目、同じ顔、同じ声のはずなのに、話の内容も、そこから受け取る感情も、多摩川を対している時とは全く違う。
「いやぁ悪いねぇ池上、残業に付き合わせちゃってさー。今日は早上がりだったんでしょ?」
「本当に、悪い、って思ってる、なら、溜め込まないで、くれる」
「ごめんって」
蒲田駅の休憩室に池上が来た時、一つしかない事務机は既に多摩川(と、彼が持ち込んだ大量の書類)に占拠されてしまっていた為、池上はソファで作業をしていた。ただ紙を読んで、間違った事がなければサインをする。間違っていれば赤を入れる。それだけと言ってしまえばそれまでだが、低い高さのテーブルのせいで背にいやな疲労が溜まりつつあった。
心持ちも機嫌も、あまり芳しくはない。さっさと宿舎にしているマンションに戻って、今晩くらいはゆっくりしたかったのに。
「池上ぃ」
「うるさい。口を動かす前、に、手、動かせ、ば」
今頃自室にいるはずだったのに、狭苦しい仮眠室で夜を過ごすのはどうしても避けたい。終電までに蒲田を出たい、と書類から顔を上げずに言うと、多摩川は唐突に黙りこくった。
的を射た指摘に流石にばつが悪くなったのか、それとも多摩川を構う素振りもない自分がつまらなくなったのか。兎に角自分に課せられた仕事をさっさと終えて、多摩川は置いて帰ってしまおうと池上が思っていた、その時であった。
ジャキン、と休憩室に響いた鈍い切断音が、何の音か分からなかった。
ぱっと池上が顔を上げて後方を振り返ると、頭を俯かせた多摩川が左手――彼の利き手をしゃらりと閃かせたのが見えた。手の先には、筆立てに突っ込んであった鋏が見える。
「―――、え」
ばさばさと書類の上に落ちたものは、長くてきらめいている。東横のように染料を染み込ませた不自然な色ではない。すすきの色を思わせるそれは、在りし日に気に入っていると彼が口にしたものだ。
『奇妙な色だって言われるけど、オレは気にしてないんだ。生まれ持ったものだし、池上が嫌じゃないなら、悪い気はしないものさ』
「多摩川」
ぱらぱらと首の付け根から毛先を落としながら、多摩川が鋏を持ったまま、池上の方へと視線をやった。ポニーテールの根元に適当に鋏を入れたせいで、解けた紐から落ちる髪はざんばらもいい所である。
「口よりも手を動かせって、そう言ったのは池上だろう?」
「……そうじゃ、ない」
「もっと言うと、切ればって言ったのも池上。切ってくれって頼んで断ったのも、池上。鬱陶しいって言ったのも、目障りだって言ったのも、池上。まあ、確かにそう思っていたけどね。髪洗うのもこの長さじゃ面倒臭くって」
多摩川が机に鋏を置く。その鋏の上にも、ぱらぱらと髪が落ちていった。
「多摩川」
「あぁ、でもこんな短いのっていつ振りだろ。荏原鉄道の時とかかなぁ。毛先を整える以外で鋏入れたのって初めて、オレ」
「……多摩川!」
ギッと椅子を鳴らして、多摩川がゆっくりと立ち上がる。髪を短くした彼が自分の方へ歩いてくる姿が、コマ送りのフィルムでも見ているようだった。
背もたれの後ろから、白い袖がゆるりと伸びてくる。後ろから抱きつくように体を寄せられて、震える唇が池上のそこへ押し付けられた。
数十年も前に、戯れのように唇を掠め取られた記憶は残っている。けれども、こうしてしっかりと唇を触れ合わせたのは、初めての事だった。
「『あってもなくてもいい目蒲線』だなんて、つくづく失礼だと思ってたものだけど、事実そうなのかもしれない」
離れていった唇を、眼差しで追いかける。そのまま目を上にやると、思っていたよりも動揺している目と視線が絡まった。
彼はこんな目をしていただろうか。いつも不遜で、ふざけていて、真意の見えぬもっと底深い色の目をしていなかっただろうか。
「かたや延伸、かたや『エイトライナー』だの『蒲蒲線』だのって御伽噺みたいな計画は不透明で曖昧なまま凍結。本当にいらなかったのは、あってもなくてもよかったのは」
「多摩川」
背中で絡まっていた腕にぎゅう、と力が篭って、多摩川の体がソファに沈む。
倒れこむように抱きついてきた体を、池上はそっと支えていた。大変不本意ではあるものの、支えてしまっていた。
「切り捨てるくらいなら、『オレ』の存在なんてなかった事にしてくれてよかった。目黒線には昔性格のよろしくない副人格があって、って、知らない『多摩川線』に言えばよかったんだ。……なのに、どうして残っている?」
すり寄せられた頬から響いてくる声は引き攣れていたが、顔を無理に引き剥がす気にはなれなかった。彼が泣いているのか、確認するのが怖い。
「目蒲線だったのに、あいつと一緒でいればよかっただけなのに、名を与えられて体を与えられて。……営業距離は短くなったのに同じ背格好だなんて、皮肉もいい所じゃないか。これがいつまで続くものかも分からないのに」
憎らしくて仕方がない目蒲線。鬱陶しいばかりの夜の彼。夜道で己の手を引いた腕は、こんなに小刻みに震えるものだったのか。
「東京横浜鉄道の、東京急行の繁栄をオレは一度も疑った事はない。これからも。……だけど、そこにこんな風に居座るつもりは、オレは」
他にどうしてやればいいか分からず、池上は多摩川を抱き締めた。
彼がどれ程目黒の元に戻りたいか――「目蒲線」で在りたかったのか、池上には想像する事は出来ない。
池上は一個の人の形をしている。目黒と多摩川が体を共有していた事は知っていても、それはただの知識だ。実際それが一体どう言う事なのか、副人格でしかなかった彼がどれだけ目黒の存在に依っていたのか、池上は考える事しか出来ない。
けれども、池上はどちらへの理解も隅に追いやる事にした。
考えても分からぬ事をぐちぐちと追いかける程の情熱は、池上にはない。それよりも強く感じるものに、今の池上は衝き動かされていた。
「君が――多摩川が、そんな、馬鹿げた事、言うなんて、信じられ、ない」
「……ひどいなぁ」
愛情や憎悪程振り切れない。けれども、この苛立ちは何だろう。
こんな多摩川は池上の知っている多摩川ではない。
「………もっとずっと、君の方、が、ひどい」
言って、池上は多摩川にキスをした。
染み付いた習慣と言うものは恐ろしい。どんな多摩川だって気にしない、なんて奇麗事は、口が裂けても言えやしない。
疎ましく憎たらしい彼でなければ。彼は――東急多摩川線は、池上線がどれ程振り払っても纏わりつく存在でなければならない。
これを人が執着と言うのならば、甘んじて受け入れよう。それくらいの言葉が、この関係には似合っている。
凭れかかる多摩川の切れた毛先が、池上の肩に降りかかる。グレーの背広の上を、明るい糸みたいな髪が汚していく。
「ねぇ、池上、オレまだ書類残ってるんだけど」
纏わりつくような声色が、少しだけ甘えたような色を帯びていた。
「……持ち帰れば」
壁にかけた時計の針が真上を向いて、かちりと小さな音を立てる。
終電までに帰らなければ、渋谷までは戻れない。