うんざりする程、暑い日であった。
東急多摩川線は慣れぬ日差しに顔を顰め、腕にじんわりと浮かぶ汗に顔を顰めながら走っていく車両へ目をやった。
「多摩川」と記された行き先表示も何もかもが見慣れない。おまけに言えば、ついでのように新しくあてがわれた路線の色にも違和感があった。どう見たって紫のそれを、上層部はしれっとした顔で臙脂色と言い放った。臙脂はもっと赤が深い色だろう、と多摩川は頭の隅で考える。自分のこの色は、赤紫がせいぜいだ。
「めか、……多摩川さん」
「うん?」
「少しお休みになった方がいいんじゃないですか? 顔色、あまりよくないですよ」
「あー、うん、そうだね。暑くて仕方ない。夏の昼間って最悪だね、オレ知らなかったけど」
顔と体を傾けて(勿論マナー違反だ)ホームの端から線路を見ていた多摩川は、ぐいと体をまっすぐに戻して休憩の提案をしてくれた現業へと振り返った。急に二回も体の方向を変えたのが悪かったのか、暑さにやられた頭はくらくらと回って気持ちが悪い。
さっと青くなった顔を見咎められたのだろう、現業がああ、と少し慌てた風の声になる。
「多摩川さん、ここはいいですから」
「いいって君、今日は一応単独路線としての初仕事なんだけど、……いいや。お言葉に甘える」
こんなに暑いと髪を結う気にもなれなくて、今日は長い髪を高い位置で一つに結んでいた。その時点で十分に風紀違反なのであるが、今日くらいはと言われて渋々制服を着たお陰か、髪については何も言われなかった。第一、髪が長いのは元々だ。多摩川線となった瞬間にそれをとやかく言われても腹が立つ。
「池上!」
蒲田駅の改札脇に立っている姿を見つけて、走り寄る。池上も男にしては長い髪をしているが、それにしたって背中の中程まで伸ばしている多摩川に比べれば雲泥の差だ。多摩川の声に反応した池上の金茶の髪が、さらり、と髪の隙間から隠れた耳を見せて揺れる。
「多摩川」
「蒲田には、今?」
「そう、だけど」
「休憩しよう? 暑くて初日から廃線しちゃいそう、オレ」
「……多摩、川」
眉をひそめながらも、引いた手には抗う事なく池上はついてきてくれる。どうやら「目蒲線には無抵抗でいる」と言うのが彼なりのスタンスらしいが、それが今は逆に有り難い。
兎に角、話し相手が欲しい気分だった。
「暑くてやんなるね。制服着ろとか、信じらんないよ。玉川なんて、ここぞとばかりにポロシャツ着て世田谷線内に引き篭もってたのにさ」
「多摩川」
「ああ、オレじゃなくって、世田谷の話ね? 腕章付けてるからいいだろ、とか言っちゃってさぁ、玉電のサヨナラ運行はどうしたのさって言う――」
「多摩川」
後ろを歩く池上が歩みを止める。つられるように歩みを止めると、外の日差しに比べれば薄暗いようにも思える屋内の明かりの下で、髪と同じ色をした瞳がじっと多摩川を見上げていた。
「多摩川駅には、行った、の、多摩川」
発される声は細いものの、テンションの低い一本調子だ。いつもと変わらない。
だからこそ、答えるのに少し、時間がかかった。
「……行ってない。目黒と東横がいるじゃない、あっちには」
「それで、ずっと、蒲田、なの」
「……朝にはいたさ、あっちにだって」
唾棄するような口調になってしまって、はっとした。池上の手首を掴んだままだった腕を払って、おどけるように肩を竦める。それで誤魔化せる相手だとは全く思っていないが、それでもただ動揺しているよりはマシだ。
「見間違われるのが癪だったんだよ。ここならオレしかいないからね」
「……そう」
ここはオレの駅でもあるんだけど、とぶつ切りの口調で言ったきり、池上は黙り込んだ。
「切れば」
「え?」
沈黙を保ったまま廊下を歩いて、休憩室のドアを開けた瞬間であった。ぱたん、と閉じた空間の中で振り返って、多摩川は池上の言葉を反復する。
「切る? 髪を?」
「そう。鬱陶しい、から」
休憩室は冷房が効いていて、汗をかいた首筋に冷たい風がそっと当たるのが心地よかった。肩にぶつかる長いポニーテールを引っ張って、これを、と言うと、池上はこくりと静かに顎を上下させる。
「目障り」
「……なら、池上が切ってよ」
髪を伸ばしているのに、大した理由はなかった。伸びてきたものを目蒲は――目黒と多摩川は煩わしく感じる事はなかったし、切らねばいけないものとも思っていなかった。女々しいだの気持ちが悪いだのと揶揄される事はあったが、そんなものを気にする性格ではない。
――そう言えば。
(昔も言われたかな。池上に、髪が長いね、って)
「絶対に、嫌」
返答は予想のついていたもので、だからこそ多摩川は綺麗に口の端を吊り上げる事が出来た。池上はそうでなければ。
「君に、触らないと、いけない、だなんて」
そこまで嫌がるのであればいっそ蔑視してくれればいいのに、池上はそう言う眼差しを多摩川にくれた事はなかった。
好意を感じないのであれば、いっそ疎んじて欲しい、嫌って欲しい。多摩川がそう思っている事を、池上はきっと気付いているのだろう。
「つれないなぁ」
肩を竦めて、多摩川はとん、と池上の肩の辺りを指先で突いた。「退け」の合図だ。
「どこ、行くの」
「池上も目黒も東横もいない所」
わざとにっこり微笑んでやってから、多摩川は閉めたばかりの休憩室の扉を開けた。呼び止めるだろうか、と一瞬浮かびかけた期待をすぐさま塗り潰して、池上の方を見ぬまま部屋を出る。
「……ちっくしょう」
結んでいる毛先を手で払って、歩く。両端でしか他路線と接続していないのだから、その間のどこかで降りればいい。ああ、珍しく「路線の仕事」とやらをする気が向いた。くそったれ。
「あんの池上電車!」
鼻奥に感じる塩水の気配を振り払って、誰もいない廊下で声を上げる。池上自身に聞こえるかも知れない、と思ったが、それくらいでどうこう言う池上ではないのは知っていた。
「……くそったれ」
再度呟いて、ネクタイの結び目に指を引っ掛ける。そのまま引き抜いた布をポケットに入れて、おまけに襟のボタンを幾つか外した。
「オレは目蒲線じゃない、東急多摩川線だ。――目黒線なんかじゃ、断じてあるもんか」
次の日から、多摩川はまともな制服を着る事はなくなった。