あなたを呪う夜 - 3/8

 多摩川――東急多摩川線には、譲れぬものがある。
 それはたとえば路線名の頭に必ずと言っていい程付随する「東急」の名だとか、およそ守られていない制服へのポリシーだとか(必ず路線の色を取り入れるよう気を払っているが、指定の背広なんて一年間で数える程しか袖を通していない)、些細なものまで挙げればキリがないのであるが、そんな多摩川にも、己の存在を賭けたものがあった。
 己を委ねたと言えば、それは東急電鉄そのものである。在りし日の東横の背、と言ってもいい。だが、存在を賭けてまで欲しがったものとなると、その数は限られる。
 それは二つある。そのうちの一つを、東急池上線と言う。
 そして、もう一つは。

「………」

 目覚めは明瞭なもので、その分いつもあっけなかった。
 ベッドに横たわって、お休み目蒲、なんて馬鹿馬鹿しい挨拶を独りごちてから眠ったはずだ。カーテンの隙間から差し込んでくる光は、慣れ親しんだ月の光ではない。まばゆいばかりの日光である。

「……何これ、死後の世界?」

 鉄道にも天国とか地獄とか極楽とか奈落とかあるのかな、じゃあきっとここは地獄か奈落だな、と目蒲は唇の端を僅かに吊り上げた。東横も己も、恨まれる事ばかりしている気がする。
 陽に透かせて見た己の手は、輪郭が薄く透けてぼやけて見えた。死んでいるからか、と一瞬思いかけたが、どうやらそれは太陽光のもたらす効果であって、更に言えば目蒲は死んだ訳ではない、ようであった。
 なぜならば。

「おはよう、『オレ』。気分はどうかな」

 寝室のドアの脇に背をもたれさせた人物が、目蒲の事を見ていた。
 褪せた亜麻色の髪が、濃灰のスーツの中でくっきりと浮かび上がっている。
 一瞬、何を見ているのかよく理解出来なかった。目蒲の寝室に大きな鏡は備え付けていない(「目蒲」ではなく、自分が鏡を嫌うせいである)し、透かした手はシンプルな寝間着に包まれている。東急の制服など、起き抜けの今着ていようはずもない。

「……最悪だ」

 何が起きたのか理解して、目蒲はシーツで顔を覆った。スリッパが板目を擦る乾いた音が、薄暗く遮った視界の向こうから聞こえてくる。

「多摩川」

 口にされたものが、ただの河川の名でないのは、何となく察しがついた。だからこそ、返事をする気が起きない。

「『目黒から多摩川の区間を目黒線とし、多摩川から蒲田の区間を多摩川線とする』、と言う通達がきたよ。僕が目黒線で、君が多摩川線だ、と」
「さいあくだ……」

 目蒲線が分割され、それぞれ独立路線になる、とは上の者から既に聞いていた話ではあったが、その話にこんなオチがついているなんて。
 第一、路線が分割される、と聞いて、己は少なからず喜んでいたのだ。「もう一つ」の路線が一体どうなるかは知らないが、分割されるのならば、横に立っている彼にとって自分は必要のない存在となる。必要でなくなったのならば、消えていくのが副人格の宿命である。
 己も東横も、東急に古くからいる路線は、恨まれるのには慣れている。それでも、その最初の一端であったと言っていい、池上電鉄の件には多少なりともダメージを負ったのだ。
 昔はもう少しは優良な間柄であったはずだが、あの件を境にして、池上は徹底して、「目蒲線」に対してドライな物言いをするようになった。昼間の自分には慣れたものだろうが、それは、夜に住まう自分にしてみれば決別と言ってもいいものだった。
 (それがたとえ一方的なものだったとしても)友人、と呼び慕っていた相手にどうしようもない事をしてしまった後悔を置き去りにして、目蒲電鉄は急速に成長を遂げていった。目蒲だけが――自分だけが、あの時から動けずにいる。社名が変わり、大東急と呼び称された一大傘下が解体されてもなお、目蒲はあの頃から変わらない。
 けれども、周りは随分と変わってしまった。分からない事が身の回りを取り囲んで、それでも日々は止まらない。あの日から目蒲もあらゆる事に無関心であるように努めていたが、それでも精神は疲弊していく。
 そろそろ幕を下ろす頃だと、そう思っていたのに。

「反吐が出る」
「そう言わないで。暫くは僕も君も目蒲線の仕事をしないと」

 元は同じ体を共有していただけに、彼の言う言葉の意味くらい考えずとも分かる。今の言葉も、そんなに滅入るな、と言う訳ではなく、同じ仕事をするのだから余計な波風を立ててくれるな、と言う事らしい。なるほど彼らしい事だ。

「触らないでよ、気持ちが悪い……」
「心外だな。君の手みたいなものじゃないか」
「だから気持ちが悪いんだよ、もう」

 ひたり、と肩に触れるのが自分の持つ手と全く同じ造形であるのが、見ずとも分かった。声まで同じで、目を覆っていても鳥肌の立つ感覚がちっとも軽減されない。寧ろ、鋭敏になった聴覚のせいでわんわんと耳の中で二人分の同じ声がエコーするようであった。慣れない。

「君もオレも、頭の中で会話してればそれで済んだ話じゃないか」
「けれど、そうも言っていられないんだ、多摩川」

 あっさりと己に付けられた――望んでもいないのに付けられてしまった、もう自分は彼の元へは戻れないと言う証を易々と口にして、彼はシーツに埋もれていた目蒲――多摩川の腕をぐいと引いた。

「君には多摩川から蒲田を走る仕事がある」

 一九〇〇年代の終わり、人々が世紀末と囃し立てる最中の事であった。
 声に弾かれて見上げた顔はにっこりと笑っていて、多摩川は思わず出かかった悲鳴を押さえる為に口を覆った。

 ◆

「おい、まだ確か日中だったはずだぞ」
「だから、『僕』から話聞いてないの? 東横。今日から目蒲線は二人だってば」
「……頭が痛い」

 えへ、と作り笑いを浮かべると、東横は茶に染めた髪の先を揺らせてふん、と鼻を鳴らせる。
 目蒲――否、多摩川は、黒髪の頃の東横の方が好きだった。全てを己のものだと言い捨て、実際に己の掌中に収めて、不遜に笑っていた彼の方の愚かな残酷さが好ましかった。今の東横はすっかりなりをひそめて、行儀が悪いばかりの傍若無人な東急線のトップの座を悠々と守っている。それが、その「らしさ」が、少しだけつまらない。
 大東急が解体されて、小田急を皮切りに数々の手足を失って暫くが経った。もう彼を「東急」と呼ぶものも大分少なくなった。勿論それに負けぬだけのプライドを持ち合わせているものの、もう、東横はただの東急のメインラインの一つに過ぎぬ。

「田都は?」
「知るか。ここをどこだと思っている」
「オレ達の多摩川駅。ちなみに、正解は『田都は大井町んトコでミーティング中』でした。って、さっき大井町が言ってたんだけどね」

 分かっているなら聞くな、と言って、東横はいとも簡単に怒る。それをまぁまぁと宥めつつ、多摩川は肩の片側から零れる束ねられた毛先を弄んで――そして、駅員の姿を視界の端に納めるなり、ぱっと手を離した。

「お前、人の話を聞いているのか?」
「聞いてる。聞いてるから、ちょっと待って」

 なおも何か言いたげな東横を手で制して、多摩川はぱちりと目を一度瞬きさせてから、現業の方へと足を向ける。

「『僕』に何か用かな?」
「ええ、この書類なんですが、目蒲さんのサインを頂きたくて」
「どこだろう? ここ?」

 さっと書類に目を通してから、誤りでない証に名を書こうとしてから、ふと気がついてペンをくるりと反転させた。後ろ側についている印鑑を名前の欄に押してやって、はい、とあくまで丁寧に書類を返す。

「お疲れさま」
「いえ、目蒲さんもお疲れ様です。失礼します」

 立ち去る彼にひらひらと手を振ってやろうかと思ったが、やめた。今はまだ陽も高い。

「何だ、今の猿芝居は」
「現在時刻は?」
「午後十二時四十五分だが、……いいから質問に答えろ」
「『僕』の振りだよ。って言うか、『目蒲線』の振り?」

 とっさにサインを印鑑に変更したのも、その為だ。つい癖で、左手で名を書こうとしてしまったのである。
 左利きなのは自分だけで、昼間の目蒲は右利きだ。
 くるりと東横に向き直って、多摩川は薄い笑みを掃いて控えめに声を発した。路線達の休憩室の前とは言え、完全に人の通りがない訳ではない。

「オレ達には話が来たし、こんなんなっちゃってるけど、現業へはまだ完全に伝わってないんでしょう? だから、取り敢えず暫くはオレの事は隠す方向でね、って言う話になったの」

 なった、と言ったが、そうした方がいいと言ったのは多摩川の方からだ。同じ仕事をするのはいいが、同じ容姿の人間が二人並んでいるのは乗客も気持ちが悪いに違いない。丁度本社の方でも分割の話を詰めているのだし、お互い交替で駅に立とう、と提案したのである。
 説明すると、東横は鮮やかに眉間に皺を寄せて、はん、と冷めきった笑いを吐き捨てた。

「それで今の名演か。つくづく気持ちが悪い」
「何度も言わないでよ。それはオレが言いたい台詞なんだけどなぁ」
「……兎に角、それで今日はお前がこちらにいる、と言う事か? 多摩川」
「………ねぇ、東横」

 さらりと吐き出された名前に体が反応しそうになるのを押さえ込んで、多摩川は皮肉げな笑みを浮かべる。

「お願いだから、八月までは目蒲って呼んでよ。その名前、慣れなくってさぁ」
「そう言うもんか?」
「君だって神奈川から東横に……なる時は………。ごめん、何でもない。東横でたとえようとしたオレが間違ってた」

 溜め息を吐いてから、それは何だどう言う意味だ、と言う東横の肩をぱしぱしと叩く。そう言えば、彼は名が変わる――渋谷まで延伸するのを馬鹿みたいに喜んで、渋谷線の開業日が決まるや否や周りに「東横と呼ぶように」と言って回ったのであった。そんな彼に今までの名前がどうの、なんてセンチメンタルな話が理解出来るはずもない。

「あー……、あれだよ。大井町の事だって、ずっと大井町って呼んでたじゃないか。そんなもんだよ」

 一時は路線の名を失して「田園都市線」となっていた彼女の事を挙げると、ようやく東横は一通りの納得を見せた。

「大体、お前の新しい名前は紛らわしい」
「そりゃどうも。で、その玉川は?」
「それこそ本社で話だと聞いているが」

 玉川――新玉川線は、元を玉電の軌道線とする東急の路線である。玉川は玉電から東急へと組み込まれた時からその名で呼ばれていたのであるが、下高井戸への支線を「東急世田谷線」とし、元の会社から一緒であった路線のほとんどを廃線とされ、そしてついに、目蒲線分割と日を同じくして、その名の由来である玉川線の区間をも手放す事となったのである。
 玉川は名も管理も世田谷線だけとなり、新玉川の区間はかつて溝ノ口線と名乗っていた同じ玉電出身の田園都市線が引き継ぐ事になる。可愛がっていた後輩に全てを奪われるなんて、皮肉もいい所だ。

「玉川の方こそ慣れないよねぇ。オレ達ずっと玉川って呼んでたのに、オレがタマガワになるって」

 目蒲電鉄の頃からの知り合いで、気心の知れた相手である。彼の規模縮小と反比例して延伸していった田園都市――溝ノ口の目を思い出しながら、多摩川はそっと東横の頬へと手を伸ばす。

「君も気を付けないと。田都に食べられちゃうかもよ」
「どう言う意味だ」
「そう言う意味だけど」

 同じくらいの背丈と言うのは、キスを仕掛けるのに丁度いい。頬に軽く唇を押し付けてから顔を離すと、多摩川に顎を取られたままの東横がおい、と声を発した。

「目蒲線らしい振る舞いはどうした」
「あぁ、そっか。ごめんごめん、ついじゃれたくなって」

 そう言えば昼間に彼とこう言う事をした事はなかったな、と思い返して、予想外に長い立ち話をしていた体をぐいと休憩室の中に引っ張りこむ。そうしてもう一度、今度は顎先に食むようなキスをして、多摩川はくつりと口の端で笑いを零した。

「もう東横とこう言う事するのやめようかなぁ、オレ」
「……は?」

 田都が怖いから、とは口にせずに、その代わりにくすくすと笑い声を上げる。
 元々戯れで触れ合っていた関係だ。解消した所で、互いに情も未練もない。

「取り敢えず、コーヒーでも飲もう、東横」

 言うと、東横は「お前の淹れるコーヒーは薄くて嫌いだ」と顔を顰めた。