(I Can’t Get No) Satisfaction - 3/3

間に

 あの日の東急電鉄本社ビルの会議室で、新車を導入する、と言う触れ込みで呼び出されていった東横の顔が、出掛けていった時と帰ってきた時で百八十度表情が違っていたのは、今でもありありと思い出せる。
 出掛けの時はスキップでもしかねん勢いで出て行ったと言うのに、帰ってきて田園都市の目の前に書類の入った封筒を置くなり、彼は苦虫を噛み潰したような顔で恥辱だ、と呟いたのだ。

「……また、お前、か」
「は?」
「六扉様はまだ車両が余っているそうで羨ましくて何より、だ!」

 いい加減にしろ、と田園都市本人にはどうにも出来なさそうな事を叱咤して去っていった彼の背中と、目の前の小さな背中が重なったせいだろう。一ヶ月程前の出来事を回想しつつ、田園都市は長津田のホームの端にいる姿へと視線を移した。
 深呼吸から始まって、屈伸運動に伸脚、前屈と、一通りの準備運動を終えてから、小柄な背がくるりと振り返る。ぴょこんと毛先の跳ねた茶の髪に、きゅっと引き絞られた唇。赤のネクタイも「彼」と同じだったが、流石に制服は改造したものではなく、電鉄指定のきちんとした制服を身に纏っていた。

「田園都市」

 名を縮めずに呼ぶ所も、彼と同じ。だが、その目だけは違っていて、そこが田園都市の心を些か動揺させる点でもあった。
 彼の――東横線の目は、もっと赤みがかった、茶に近い黒だ。こんな風に、色自体が退色した、灰がかった黒ではない。

「五一六九」

 つい先日、検車区のあるここへ入って来た五〇五〇系の新車の車番を。四桁の数字を言うと言うより、四つの数字をバラバラに区切るように発音して舌に乗せる。すると小さな彼の目がぱちりと瞬いて、こくりと小さな顎が上下した。
 五一六九F編成。四両目のみ田園都市の五〇〇〇系の車両を使用した、東横の新しい車両である。
 数ある五〇五〇系の編成の中で、十八も、十九も、二十二も、田園都市が使っていた五〇〇〇系の車両を使用したものだ。あの時も相当に怒っていたが、今回の癇癪もなかなかだった。恐らく、他の七両は己の車両であるのに、間の一つだけが五〇〇〇、と言うのが気に食わないのだろう。
 ――いや、違う。自分の為す事で、彼のお気に召す事なんて一つもないのだ。だからこそ事ある毎に衝突し、その度に恥辱だの屈辱だの何だのと罵倒を受ける羽目に陥っているのだ。とは言え田園都市一人では現状を打開出来ようはずもなく、予定調和めいた日常を繰り返すほかないのだが。

「……田園都市、大丈夫か?」

 己と同じ色をした目に見上げられているのに気付いて、田園都市は慌てて意識を思考から引き剥がした。ホームの端にいたはずの五一六九は、いつの間にか少し距離を置いていた田園都市の目の前に立っている。ふんぞり返るように胸を張って立つ姿は東横線所属らしくはあったが、新車と言うのもあるのだろう、路線本人と比べればまだ可愛らしくしゃちほこばっているように見えた。九〇〇〇系のトップナンバーである九〇〇一などはもう慣れたもので、彼の立ち居振る舞いを見ていても小さな東横を見ている気分になるものだが、はてさて。

「すまない、考え事をしていた」
「駅で呆けるな。呆けていると、東横にまた言われるぞ」
「………そうだな」

 東横とほぼ同じ顔で、彼の幼かった頃と似た声でそう言われてしまうと、田園都市としては立つ瀬がない。確かに、駅務もせずに彼の新車を放ってぼんやりと立っている所などを東横本人に見られたら、それこそ激高してどやされるに相違ないだろう。

「路線をかりるぞ、田園都市」

 ちょい、と停車している五〇〇〇系の向かいに停まる五〇五〇、つまり己の車体を指して、五一六九が背を伸ばすように反らさせた。ついでに腕を伸ばしてストレッチをして、辺りの住宅地の景色を見ながらぽつりと呟く。

「はやく、東横の所を走りたい」
「まだ点検が済んでいない。今暫くはわたしの所で試運転だ」
「……わかっている」

 むす、と頬を膨らませて東横よりも更にストレートに不満さを顔に出した五一六九は、何か不思議なものでも見る目つきで己の車両を見つめていた。
 未だにシートにはカバーが掛かった状態の、真新しい車体。日光を受けてきらめくステンレスボディはまだ白く、いかにも導入したてに輝いていた。

「渋谷から、横浜まで、だれよりも速く。そう、東横が言っていた」
「……あれの言いそうな事だ」
「田園都市」

 湘南新宿ラインなどに負けはせん、と言うのが彼の口癖である。恐らく導入時の顔合わせの時にでも言われたのだろう、と嘆息を吐くと、不意にじっと車体を見つめていた視線をふいに逸らして、五一六九が田園都市を見遣った。
 五一六九は、言ってしまえば東横と田園都市の合いの子編成である。その象徴とも言える自分と同じ目は、しかし東横に似た眼差しの強さを秘めていた。田園都市が内に秘めている事まで射貫いてしまうような、背筋がぞっとする程の視線。

「なぜ、東横にそう言う顔をしてやらない」
「は?」

 唐突に考えもしていなかった事を言われて、流石に素っ頓狂な声が出てしまった。しかし五一六九は気にする事もなく、うん、と相槌を打って、

「東横は、一八も一九も二二が入った時にも言ったが、誰からのお下がりの車両だろうが、ウチに来たからにはウチのモノだ、と言っていた。『確かに田園都市から車両を回されたと言う事実は悔しいが、だからと言ってオレに属する車両を嫌ったり憎んだりする理由にはなり得ない』、と」

 と、少しだけ東横の真似をしながら言葉を零す。
 それもまた、彼の言いそうな事だった。プライドが高く、排他的である癖に、彼は身内にはひどく甘い。懐が広いと言えば聞こえはいいが、みなとみらい線への甘やかしぶりなどは目に余るように田園都市には思えた。だが、五一六九は路線ではない。第三セクター所属でもない、東急電鉄の、彼の所有する車両である。変に目くじらを立てる必要もないだろうと己に言い聞かせ(そうしなければ眉間に皺を寄せてしまいそうになる自分は、狭量なのだろうか)、無言のまま、相槌代わりに頷きだけを返した。それを受けて、五一六九がふん、と慣れぬ仕草で鼻を鳴らす。

「まだ東横の所には行けないが、不安はない。おれには、お前がいるからな」
「……五一六九」

 試運転が始まるのだろう、運転士が乗り込み、車掌が様子を窺うようにこちらを見つめている。彼を急かそうかと逡巡しかけたが、その瞬間にとん、と身を翻らせて田園都市から一歩退いたから、彼も時間が迫っているのは分かっているらしい。
 準備運動をしていた頃と同じくらいの距離まで離れると、五一六九が顔だけをちらりとこちらに向けた。そしてまるで舌を出す子供のように目の下に人差し指を当てて、

「目が、走り方を覚えている。だから走る事に関して、おれは何も心配していない、田園都市」

 きっと、東横もそう思っている。
 最後にそう付け加えて、彼似の髪を軽やかな動きと共に跳ねさせ、五一六九は車掌台へと飛び乗っていった。

「……子供に諭されるとは、な」

 走り去ってゆく五〇五〇系を見送って、独りごちる。タイミングを計ったかのように振動した携帯を取り出すと、予想通り、液晶には田園都市が思い浮かべた人物の名が表示されていた。

「わたしだ」
『オレだ。五一六九はどうしている?』

 電波越しに聞こえる東横の声は、周囲のノイズを纏ってもなお、耳にすんなりと通る。東急のメインラインたるに相応しい、あらゆるものを従わせる好ましい声だ。絶対に、口に出しては言わないが。

「今丁度、試運転に行った所だが」
『……そうか』
「東横、心配はない。あれは、きちんと走るだろう」

 少し不安げな、安堵するような声を聞いて、ついそんな事を言ってしまっていた。こんな言葉に、彼が素直に頷く事などある訳ないのに。

『当たり前だ、誰の車両だと思っている』
「……そうだったな、東横」

 案の定返ってきた不機嫌そうな声にふ、と音のない小さな笑みが漏れてしまっている事に気付けぬまま、田園都市はいつも通り、わざと気のない風に彼へ相槌を打つ。
 五一六九が正式運用を始めた暁には、何か労うものでも贈ってやろう。
 ああ、鈍色の瞳が、赤の誇りを孕んで走ってゆく。