ある朝、渋谷駅の会議室の床に貼られた紙を見て、世田谷は鳥の巣になった茶髪頭をわしわしと掻いた。
「……何だ、これ」
「あー! ガヤぁっ!」
きゃあ、と黄色い声が沸いて、がっしりと後ろから抱きつかれる。上背があると言っても女性の体なのでよろけながらも受け止めると、真後ろからわあ、と彼女は浮かれた声を上げた。
「世田谷が渋谷なんてめっずらしい!」
「いや、だって今日会議だろ? 大井町」
「そうだけどぉ」
ついでに言えば、その会議の事をわざわざメールで知らせてくれたのも彼女である。ガヤ可愛いガヤ可愛い、と呪文のように繰り返しては頭をわしわしとかき混ぜてくる大井町を尻目に、世田谷はガムテープで貼られた紙を見下ろした。大きさはA3版、中央を境にして、大小二対の足形が描かれている。
「……で、大井町? これ何なん」
「あー、それね、ハグマットって言うのよ」
ガヤそっち立ってみて、と言われたので、大きい方の足形に合わせて立ってみる。すると大井町は小さい方の上に立って、丁度世田谷の向かいに立つ形になった。
えへ、とルージュを塗った唇が綻んで、そして大井町は突然に世田谷へと抱きついてきた。
「とまあ、こう言うマットな訳よー」
「はあ………なるほどなぁ」
「何かね、ハグはリラックスするし医学的にも脳内で化学反応が起こってどうの、とまあ、いい事づくしらしいわよぉ」
なるほど、つまり街頭で配られていたキャンペーンの紙を、大井町は馬鹿正直に床に貼ってみたらしい。彼女らしい事だ、と嘆息しつつよしよし、と背に手を回して軽く抱き返してやると、大井町は満足げに微笑んで体を離した。
「で、これ、まさか他の奴らもやったの?」
「……やった、よ」
後ろからぽつ、と声がして、振り返る。するとそこには案の定、と言うべきか池上がいて、やはりと言うべきか、後ろから抱きつく形で多摩川がべったりと引っ付いていた。
金茶のボブを揺らして、池上がはあ、と地に這うような溜め息を吐く。タートルネックの上に羽織ったジャケットにだらりと伸ばされた腕は、多摩川がいつも身に纏っている白いスタンドカラージャケットに包まれていた。
「大井町がやれ、って言うから、やったら、さ……。このまま……離して、くれなく、て………」
ぽつりぽつりと途切れがちに言葉を吐いて(単語を区切って喋るのは、彼の癖だ)、うふふ、と乾いた笑いを浮かべる池上の髪を、多摩川が楽しそうに指先でもてあそんでいる。目黒が後ろ髪を切って、もっと人を食ったような顔をしたらこうなるだろうな、と言う容姿をした彼へと視線を移すと、多摩川はうふ、と口の両端を吊り上げて、「役得だよねえこれ」とせせら笑った。
(哀れだなあ、何てーか)
お互いがお互いを食い物にして遊んでいるふしのある多摩川と池上である。さてどちらの方が必死かな、と思っていると、世田谷が肩を竦めたのを自分への批判かと思ったのだろう、大井町がきりりと眉を吊り上げた。
「だって、現業間の双方向コミュニケーションって、うるさいくらい言われるじゃないの。ねー、目黒」
「うん、そうだね大井町」
一人会議室の席に掛けてずるずると茶を啜っていた目黒は、世田谷の視線に気付くと「僕もやったよ、大井町と多摩川と」と言ってにこりと笑った。
――大井町に、池上に多摩川。そして目黒に自分とくれば、あとは。
「つまり、町が一番やらせたい奴らが来てない、と」
「そうなのよねぇ」
すると、それなりの厚さがあるはずの壁を貫いてがつがつと荒っぽい靴音と、何事か諫う声が聞こえてきた。ああ来たな、と大井町と視線で頷きあっていると、ご丁寧に足でドアを開け放って、東横は開口一番恥辱だ、と叫んだ。
「大体だな、お前の駅は訳が分からないんだよ! ゴチャゴチャと無駄に作り込んで、何が地宙船だ、馬鹿が!」
「迷子の言い訳にしては随分とお粗末だな、東横。後々お前の駅にもなるんだぞ」
「東横、お行儀悪いよ」
田園都市を伴って部屋に入ってきた東横に、目黒が形ばかりの忠告を入れる。しかしそれも「両手を見ろ」の一言で片付けて、東横は両腕を塞いでいた書類をどかりと机の上に置いた。
「重い!」
「だから、持つか、と聞いただろう」
「お前なんかに手伝われる程落ちぶれちゃいない!」
「田都、東横は黙って持ってくれる、オットコマエーな田都が見たかったんだってさ」
やいのやいのと言い合う間に、また多摩川が要らぬ茶々を入れる。その言葉を聞くや否や、東横がバンと机を叩いた。
「誰が!」
「……そうなのか?」
「お前は黙っていろ田園都市! ……多摩川!」
「東横はもっと素直にならないと、ねっ? ねー目黒、大井町?」
池上の頭に顎を載せながらうふ、と口の端を吊り上げ微笑んだ多摩川に、呼ばれた二人がうんうんと頷きを返す。これから始める予定であるミーティングで使うのであろう山積みの書類を綺麗に無視して、大井町はそうだわ、と手を叩いてメインライン二人に向き直った。
「ちょっとそこの赤と緑、そこの紙の上に立ちなさいな」
「はあ? 紙の上?」
東横が顔を顰めるのも気にせず、大井町が二人の腕をぐいと引っ張って紙の前へと誘う。すると、どうやらその紙がどう言ったものであるか知っているらしい、田園都市が眉を微かに顰めさせて、眼鏡のブリッジを押し上げながら大井町を呼んだ。
「……大井町、これは」
「あら、知ってる顔ね? だったら話は早いわ、はい、田都はそっちね」
田園都市を大きな足形の上に乗らせると、大井町はくるりと振り返って東横を手招く。
「で、東横はこっちよ」
「いや、意味が分からん」
「現業間の双方向コミュニケーションよ! 男でしょ、つべこべ言わずにやんなさい、ほら!」
「なっ!?」
後ろから背を押される形で、東横が田園都市の真向かいに立つ。数センチあるはずの身長差は、ヒールのお陰で相殺されていたが、その分男女よりも顔の距離が近い事になった。この二人が顔を付き合わせて口論するのも日常茶飯事だから、見慣れていると言えば見慣れているのだが、それにしたって、些か色々な事を心配したくなる近さだ。
「で、このふざけた紙が何なんだ、大井町」
「ん、ハグマットって言うのよぅ、それ」
そこで大井町がぴっと人差し指を立てて、街頭で配られていたのを貰ってきた事、ハグは医学的にもいいものであるらしいと言う事、そして最後にお互いもう少しコミュニケーションを図るべきだと言う事をつらつらと説明し始めた。話の途中から東横の額には青筋が浮かび、田園都市も眉間にくっきりと皺を寄せていたのだが、生憎と彼女の目にはそんなものは映っていないらしい。
「って事で、はい! ちゃっちゃとやる!」
「他の皆もやったから。頑張ってね、東横」
「何を馬鹿げた事を……っ! こいつとハグ、だと?! 寝言も大概にしたらどうだ、お前ら!」
椅子に座ったままのほほんと言い放った目黒の一言がトドメになったようで、東横がそちらを向いて吼えた。まあ東横(と、田園都市)の性格からして、こんな提案をあっさりと受け入れるはずはないのだが、紙の上でいきなり方向転換をしたのは不味かった。
「あ」
「……あーあ」
最初に上がったのは世田谷の声で、それを継ぐような形で、明確な笑みを含んで多摩川が感嘆を漏らす。
東横の足下からビリ、と鋭い音が響いて、ブーツの靴底の下でぴんと張っていた紙が破れた。足の下に敷いていた紙が破れたのだからその足が滑ってしまうのも当然で、更に東横にとって不幸な事に、それを目の前にいた田園都市が鮮やかに抱き止めてしまったのである。
「結果オーライ、だね。よかったよかった」
「ちょ、ウケる……! 取り敢えず目標達成じゃない、あはははは……!」
やはり全く動じぬ様子で目黒が頷いた後に、多摩川が池上を離さぬままげらげらと笑う。池上は東横が怒鳴るのを踏んでだろう、すでに顔を青くさせていた。
「ち……恥辱だ! 離せ、この馬鹿!」
「人が助けてやったのに、その言いぐさはどうかと思うが」
「知るか!」
――兎にも角にも。
田園都市の腕の中でばたばたともがく東横を指差して、世田谷は大井町に向かってぽつりと言葉を投げかけた。
「……これさ、写メっとけば? 両路線の現業が見たら卒倒するぜ」
「あ、いいわねそれ。ネタにもなるし、ナイスよガヤ!」
アタシこれJRにも見せよう、と言いながら、嬉々とした面持ちで大井町がジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。最初から最後までいつも通りの目黒と、東横がいつ周囲に八つ当たりするかはらはらとしている池上と、そんな池上を抱えてへらへらしている多摩川と、メインラインの関係改善に必死らしい大井町と、そんな事はお節介だと言わんばかりのメインライン二人と。
「やー、今日もウチは平和みたいで、何より何より」
今日も傍観者を貫いている世田谷は、そんな言葉で騒動を纏めてしまうと、ぎゃあぎゃあ騒ぐ東横を尻目に席についたのであった。