落日

 ちゃり、と手の中に収まった鍵の束を弄び、東横は白く朽ちた建物の中にいた。
 上に申請を出した時は柄にもないと笑われるかと思っていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。試しに言ってみた要望はあっさりと叶えられ、東横の体は閉鎖されたはずの駅構内の中にある。

「……」

 未だに切符売り場の跡も片付けられていない、山積みの資材やら何やらをブーツの爪先で器用に避けながら先を目指す。一切合切が終わったはずの場所なのに、皮肉にも未だに電気は通る。だが東横は敢えて蛍光灯のスイッチを入れる事はせず、薄暗い構内を靴音も高らかに歩いていた。
 ボロボロに汚れた階段を上って、最後の段を踏みしめる。コンクリートで美しく舗装されていたはずのそこは、いつからから雑草が生えるようになってしまっていた。
 人の文明も技術も、自然の氾濫に勝てるはずもない。忘れられているのならば尚更だ。道行く人々も、きっとここの事を忘れている者が大半だろう。
 必要でなくなった線路は高架の途中で切り取られ、レールも綺麗に片付けられてしまっている。ここにあるのは朽ちたホームと、主のいなくなった線路跡だけだ。もう、ここに自分の車両が通る事はない。
 今日は一月三十日、東急東横線の横浜駅以西が廃線となって、丸六年目になる日だった。
 みなとみらいはきちんと仕事をしているだろうか。用があるので外出する、その間の運行は任せた、と言って来てしまったのだが、果たして廃線と同じ年数しか営業をしていない彼に委ねてしまってよかったのだろうか。

「……まあ、大丈夫か」

 元々あまり長い時間を空ける気はない。それに、ああ見えて彼は東急と横浜市が共同で出資した路線だ。半分でも東急の血が流れているのならば、東横が頼んだ以上それなりの仕事をしてみせるだろう。
 ――それに。

『ああ、うん、分かった。行ってらっしゃい、東横』

 いつもならばどこに行くのかだの、土産を買ってこいだの、挙げ句自分もついて行くだのとごちゃごちゃ言う癖に、出掛けてくると言った時、みなとみらいはこくりと静かに頷いて、彼にしては珍しく素直に返事をしたのだ。
 この日の外出も恒例になっているから、みなとみらいもきっと気付いているのだろう。そう思うと彼がこの行為を当てつけと思っていないか心配になったが、そこまで東横の意図が汲めないやつだとは思っていなかった。寧ろ、己の一部を切り取って彼に譲り渡したからだろうか、東横の考えている事を一番汲んでいるのはみなとみらいなのではないかとさえ思う。
 ホームに傾いていた西日が射して、東横は思わず目を細めた。
 夕日の光は、夜間に入線してくる車両のヘッドライトのまばゆさにも似ていた。

「――………ふん」

 こんな事、普段ならば考えない事だ。きっと次の日別の誰かに言われたとしたら、恐らく詩的に過ぎると一蹴するに違いない。
 だからきっと、やはり今日の自分は些か感傷的になっているのだろう。それくらいは認めてやる、と心中で一人ごちて、東横は手に持っていたものをかさりと揺らし、上りの線路跡へと放り投げた。
 夕日を受けて、包装に使われたセロハンがキラキラと安っぽく光る。赤いリボンを悠然と棚引かせて、東横の目にはひどくスローに、実際の速度の何倍も掛けて花束が落ちていく。小さく乾いた音を立てて視界から消えた花束は、赤い花を中心に、弔うと言うより祝うような華やかさであつらえてあった。
 それが「らしい」だろう、と思ったのだ。悲しんで泣き喚くような事ではない。あの時の会社の決断は正しかったし、廃線と言ってもほぼ同じ範囲をカバーするようにみなとみらい線が走っている。
 ただ。

「……ただ、横浜の夕日を見る事がなくなっただけだ」

 みなとみらい線と相互直通での乗り入れを始めて、最初に思ったのがそれだった。
 横浜を含め、みなとみらい線は駅も路線も、全てが地下に設置されている。そこを走るようになって以来、東横は横浜の空を見る回数がぐっと減ったのだ。
 悲しい事なんて一つもない。恨む事や相手もいないし、損得で言えば己の路線がみなとみらい21地区まで延びたようなものなのだから、寧ろ乗客の増加が見込めていいくらいだ。
 ゆったりと朽ちていくここは、近年中に改装を施して遊歩道にするのだそうだ。だから、言ってしまえば死ですらない。ここに電車が走っていた事を忘れぬ人だって、きっと山程いるだろう。廃線となったあの日、駅を閉鎖する時に人々が上げた「桜木町」のかけ声を忘れる程、東横は人でなしでもないのだ。

「お前達はよく働いたからな。今日ぐらい、オレだけは……」

 冬の空気は乾燥していてよくない。喉がひりついて、独り言の声も上手く出てこなかった。
 涙なんて流さない。そんなものを、鉄で出来た東横は知らない。

「人間の真似事くらい、してもいいだろう。なぁ?」

 一人きりのホームで、応える声は一つもなかった。それでも満足して、東横は少しだけ口の端を吊り上げる。
 線路跡に散った花々を確認する事もせず、東横はそのまま踵を返して階段を降りていく。コートのポケットから出した携帯を開いて、履歴から目的の番号を探り当てて発信する。

「――MMか? ……ああ、オレだ。お前、何か甘いものは食いたくないか? ……うるさい、オレが食いたくなったんだ。横浜に戻るのに、一人分だけ買っていったら絶対文句を………ああもう、だから電話したんだろうが、この馬鹿」

 握ったままだった鍵をまたくるりと回しながら、慣れた手つきでドアを閉める。駅の入り口脇の柱の「東横線桜木町駅舎跡」と言う表記を横目で見て、思わず滅多に笑わぬ口元が綻んだ。

「……は? ……馬鹿言うな、笑っていない」

 気配で察したのだろうか、笑ったかと問いかけてくるみなとみらいにぴしゃりと否定の言葉を投げ返して、東横は鍵をポケットへと放り込んだ。
 さあ、真っ赤なベリーのタルトを買って帰ろう。