二〇〇三年、五月。春の陽気もうららかな、昼下がりの事。
その日通された広い会議室の中で、名の付いたばかりの第三セクター路線はただひらすらに身を竦ませていた。
名はみなとみらい線、正式名称をみなとみらい21線と言う。
真ん中で綺麗に分けた栗の渋皮色をした髪の先をちょいちょいといじっていると、隣に座っていた男にこら、と叱られた。
「もう少し落ち着きなさい。これから『彼』が来るぞ」
「……うん」
いつもはどんなにラフな服を着ていたって何も言われないのに、今日に限っては制服を着なさいと言われてしまった。だから今日の自分はTシャツもパーカーも封印して、シャツにネクタイまでして、薄手のカーディガンを羽織っていた。
「……この服嫌いなんだけど、オレ。動きづれーじゃん」
「文句を言うな、みなとみらい。もう暫くの辛抱だから」
――もう暫くって、いつ。
黄のラインで縁取ったカーディガンの袖を見下ろしながら、はあ、と息を吐く。足を揺らす事は一番最初に注意されたから、両足は既に揃えて地に着いている。
(色は好きなんだけどさ、この服も)
このカーディガンもそうだが、細身のネクタイも鮮やかな青と黄色のストライプ模様だ。青と黄は、どうやら自分の路線のコンセプトカラーであるらしい。ジャケットを着ろと言われたが、そこは断固拒否してカーディガンに着替えてしまった。あんなに肩の凝りそうな服、できうる限り着たくない。
「……トウヨコセンって、ラインカラー赤なんだっけ?」
「ああ」
「ふーん、じゃ、オレとトウヨコセンで信号機カラーじゃん」
「………東横線の前であまり馬鹿な事を言ってはいけないぞ」
怖いから、と言うのも何度も聞いた。曰く、見た目に反してえげつないらしい。流石東急、と横浜市政から来た青年は隣の男の話を聞いて首を縮ませていたが、生まれたばかりで一度も車両を走らせていないみなとみらいにはよく分からない話だった。まず、渋谷と言うのがどこにあるのかが分からないのだ。
「復習するぞ、みなとみらい。東横線が入ってきたら?」
「ドアが開いたら立って、名前言って、お辞儀」
指を折りながらプロセスを辿る。このやりとりも今日だけでもう何度目だろう。少なくとも五回はやっている気がする。
「頭を下げる前に言う言葉は?」
「……んと、『ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します』、だろ」
「よろしい」
「流石に覚えたって」
噛んでしまいそうになる言葉は、何日も前から叩き込まれている。呪文みたいで意味が分からないとぼやいた時に、「これから宜しく、を先輩に言うと思え」と言われた事を思い出した。未だに正確な意味は分からないが、その説明は自分相手だからって流石に雑すぎるんじゃないかとみなとみらいは思う。
――そんな事を考えていると、ノックが響いた。
今言っていたばかりの事を実行する為に、慌ただしく立ち上がる。急いだせいで椅子がガタガタと音を立てたが、肝心のトウヨコセンはまだ顔を見せていないからいいだろう。
「どうぞ」
隣の男(ちなみに、彼は自分が所属している横浜高速鉄道の職員だった。役職は、聞いたけど覚えていない)が慎重に声を出す。するとすぐさまノブが回って、この会議室の本来の持ち主達が顔を覗かせた。
先に入ってきたスーツの男性二人は、何も感じるものがないから一般の職員だろう。だが、その後に最後の一人が入ってくると、場の空気ががらりと切り替わるのが分かった。
(――この人だ)
彼がトウヨコセンなのだろう。入ってきた瞬間に隣で身を強ばらせる気配がしたし、先だって入室した二人も彼に気を遣っている事が丸分かりであった。その緊張ぶりときたら、警戒されていると表現してしまっても過言ではない。
染められた茶の髪は癖毛らしく、うなじと耳の辺りで毛先がぴょこりと跳ねている。片耳は会社のロゴの一部を象ったピンで留めていたが、それでも纏められてるとは言い難かった。見つめてくる黒の瞳は憮然としていてお世辞にも愛想がいいとは言えなかったが、その眼差しは引きずり込まれそうな強さを含んでいる。
丈の短い制服は東急線独自のものなのだろうか。それとも、この赤い彼だけのもの?
「みなとみらい」
隣の男が肘で突いて、鋭くした小声で名前を呼ぶのではっと我に返った。そうだ、頭を下げて、名前と、それから。
「あ――えっと、みなとみらい21線、です」
取り敢えず慌てて頭を下げる。すると頭上でふん、と鼻の鳴る音がして、若さを残す落ち着いた声が降ってきた。
「頭を上げろ」
がばりと顔を上げると、トウヨコセンがすぐ目の前に立っていた。隣でふっと息を呑まれたのが分かる。しかし何かされるのだろうか、と思っている間に目の前の彼が肩を竦ませて、「オレが東急東横線だ」と短く名を名乗った。
「手、貸せ。クソガキ」
「え」
ぼけっと体の横にくっ付けていた手を取られて、ぎゅっと握手をされる。
「いいか」
東横線は不機嫌そうな顔を崩さぬまま、口を開いた。
「オレとお前は、こう、だ。相互直通、この状態が常だ。――お前の開業とオレの横浜以西の廃線、散々揉めてるのは分かってるだろ」
「わ……分かってるよ」
そんな事、言われなくたって分かっている。新聞を読まなくたってテレビは見るし、そもそも社内にいれば嫌でも耳に入ってくる。だが、反対をされようが文句を言われようが、決まった事は決まった事だ。東横線は横浜以西を廃線に。そこから元町までを、自分が走る。
(どうすりゃいいか決まってる事じゃん。――オレは、走るだけ)
だから、みなとみらいは東横線の言葉にこくこくと頷きを返した。隣から咎めるような視線が飛んできたが、それは無視だ。
今は自社の職員に構っている場合ではない。今、彼と合わせている視線を逸らしては、いけない。
「じゃあ、横浜以西はお前に任せたぞ、みなとみらい」
「………え」
「お前の所まで客は運んでやる。だから、それに見合う仕事はしろ。お前は兎も角、オレの評価まで落としたら承知しない。――返事は」
みなとみらいの手を握ったまま、東横線がそこへぎゅっと力を篭める。それはもう痛いくらいで、つい眉間に皺も寄ってしまったが、負けじと自分も手を強く握り返した。
「うん、分かった。……よく分かんねーけど、オレ、信じるよ。東横」
「ガキにしては悪くない目だ。――が、口の利き方にはもう少し気を付けさせた方がよさそうだな?」
握っていた手を不意に離して、東横線が第三セクター職員をぎろりと睨み付けた。あ、まずい、と思って東横線のジャケットの七分袖を引っ張った。いけない、言わなきゃいけない事を忘れる所だった。
「ゴシドー、ゴタツベンの程、宜しくお願いしま、す………?」
隣が項垂れて、東横線と一緒に入ってきた東急の職員二人が揃って噴き出した。
「あだっ……!」
何かしくじったかな、と発言を遡ろうとした矢先、額に衝撃が走った。思わず痛む箇所を掌で押さえていると、また東横線がふん、と鼻を鳴らした。その手の形を見るに、どうやら額を指で弾かれてしまったらしい。
「まずは日本語から教えなきゃいけないみたいだな、MM」
エムエム、と名称を縮めて呼んで、先程手を握って相直を示してみせた東横線は、こうしてみなとみらいが頼り――と言うよりも甘えるのに十分な器量を見せつけたのである。