渋谷地下は暴風域

「田園都市には関係のない事だ」

 その言葉を聞くのも何度目になるだろうか。臍を曲げた(と、本人は決して認めないだろう)東横はいつもそう言って会話を打ち切って踵を返して、さっさと早足でその場を去ってしまう。
 東横線。己こそ東急の看板路線だと彼は言うが、実際の収益は自分の方が上だ。だからこそ田園都市は彼の言葉をいちいち真に受けるつもりなかったし、彼が自己をどれ程過大評価しようとも、田園都市としてはそれがグループに不利益をもたらしでもしない限り何も言う気はなかった。
 ――だから、今日も彼と自分は噛み合わない。

 ◆

「……東横」

 渋谷駅の休憩室にはふて腐れた顔の東横が陣取っていて、他の職員の姿はなかった。皆外の悪天候の対応に追われているのか、それとも東横の醸し出す剣呑な雰囲気に飲まれて退散したのか。田園都市としてはどちらでもいい事だ。ただ、伝達事項があるから伝えに来ただけで。

「お前の所の駅員が探していたぞ。雨に打たれたくらいで機嫌を悪くするな」
「お前の言いたい事くらい分かってる」

 服は着替えたのだろうが、髪は未だにしっとりと濡れたままだ。なのにタオルは肩にかけたまま頭を拭う事すらせず、東横は顰め面でコーヒーを飲んでいた。ソファに悠々と体を沈ませて、田園都市と共有であるはずの休憩室を私室のように扱っている。

「日比谷がオレとの直通を取り止めたんだろ、どうせ」
「分かっているなら早々に復旧したらどうだ」
「……言われなくてもやっている!」

 荒っぽく置かれたカップを受け止めきれずに、ソーサーがガチャリと音を立てた。

「振替輸送とてタダでは出来ない。日比谷線との直通が切られればそれだけ他へも負担が回る。ウチの路線だけではない、他社にも」
「分かっていることをぐちぐちと言うのは楽しいか、田園都市」

 言葉を遮って、肩に掛けていたタオルを田園都市へと投げつけてくる。風に舞うように飛んできたそれを受け止める事は造作もない事で、きっと東横自身もそれを分かっているだろう。分かっているのにやってしまうのは東横とて同じなのだ。
 鳴り物入りで本州へ上陸した台風は、今まさに関東全域で猛威を振るっている。このままでは遅かれ早かれJRの在来や他の私鉄もやられるだろう。それは乗客も職員も分かっている事だろうが、だからと言って、始発の走る時間帯から故障はない。
 悪天候の時にこそ走らせなければ、私鉄の存在意義がない。JRが潰れる前に止まっては元も子もない。――いつもならば悪天候でもまだ走ると思われている路線ならば、尚更の事だ。

「分かっているなら立て。着替えも終わっているんだろう」
「オレが現場にいれば信号が直るって言うなら、そうする」
「……では、中目黒へ行って来い」

 着替えていて髪も濡れているのだから既に現場は見てきたのだろうし、確かにそれはそうだろう。だから別の事を口の端に乗せて言うと、カップへと伸ばしていた東横の手が引き攣るように動きを止めた。

「頭を下げてこいって? 日比谷に?」
「お前のお気に入りだろう、お前が直接謝らずにどうする。――ああ、それとも、だからこそ怖い、か?」

 じろ、と漆黒の目が濡れて重くなった前髪越しに田園都市を貫くように睨み付けてくるが、構った事か。正論を、彼が東急東横線としてなすべき事を言っているだけだ。

「日比谷の落胆した顔を見るのが怖いのか、東横」
「ふざけた事を言うなよ、田園都市! 第一誰が誰のお気に入りだって? 馬鹿な事を言っているならお前もさっさとトラブルに備えて表へ行ってきたらどうだ。半蔵門に捨てられるぞ」

 そうやってすぐに言い返す辺り分かり易いのだが、東横はその件――メトロの中で日比谷を殊更目に掛けている事に関しては認める気はないらしい。銀座と過去色々あったらしい事については隠しもしない癖に、一体そこにどう言う感情の差があるのやら。

(まあ、メトロと東横の関係なんかに興味はないが)

「――目に映る身の回りのものは全て自分のものか、東横。変わらないな」

 そう、変わらない。自分が開通した大東急時代のあの頃から、東横の性格は何一つ変わっていなかった。
 彼の中で、彼の接続先はすべからく彼のものなのだ。小田急や京急などが分離した今となっては流石に意のまま、とまでは思っていないだろうが、その全てが自分を重んじるべきで、自分はその全てに重要なものだと思っている事は変わりないだろう。
 彼のエゴイスティックな考えの下で、どれ程の人が、路線が、唇を噛み締めた事だろう。
 だが、もう都会を東急だけで占められる時代ではない。地下鉄だって昔よりうんと走っている。彼が気に入らないと言う副都心線との乗り入れ計画だって着々と進められている。
 我が儘が過ぎるのだ。その事を、東横本人だけが分かっていない。

「……悪いか」

 ゆらりと立ち上がった東横が、険しい表情のまま田園都市の襟元へと手を伸ばした。
 ラインカラーである深緑のネクタイへ手が伸ばされる。殴られるか、それとも襟元を絞られるか、と咄嗟に浮かんできた選択肢を、次の瞬間東横が全て否定した。
 掠めるように、ほんの一瞬だけ唇を奪われる。顔を離した東横はやはり怒った顔をしていて、いきなりされた事に、流石に思考が止まる。

「手の届く全てはオレのものだ。……だが」
「東横」
「お前には関係のない事だろう、田園都市」

 ぱっと勢いを付けてネクタイから手を離し、東横が荒々しく部屋から出て行く。ドアを閉める直前に放り捨てられた「日比谷に会ってくる」と言う言葉からして、恐らくは自分の言った通り中目黒へと向かったのだろうが、しかし。

「………東横?」

 ――おまえいがいは。
 関係のない事だ、そう言われる直前に唇の動きだけで呟かれた一言が頭に残って、未だ自路線には影響を及ぼしていない台風に吹き荒ばれたかのように、田園都市は暫くその場に立ち尽くさなければならなかった。