「……悪くない」
ぱくりと口に放り込んだ銀のフォークをひらりと顔の前で振りながら、青年はさもつまらなさげに呟いた。
外見から想起される年齢は、青年と言うよりも少年に近いだろう。明るい亜麻色のくせっ毛を左側だけ耳の上でピン留めして、彼は優雅に組ませたブーツの足先を中空に遊ばせている。
「悪くないってねー東横、それ資生堂パーラーよ?」
ソファに悠然と腰掛けた少年――東急東横線の後頭部を見遣りながら、大井町線はうんざりとした様子でぼやいてみせた。自慢の栗色のウェーブヘアを肩の位置で揺らして、自社路線の一人とて見向きもしてくれない魅力的な曲線を描く開襟シャツの胸を強調するように張って、やれやれと肩を竦める。……背を向けた東横は、見てすらいないが。
「だから、不味いとは言ってないだろ。大体どうしたんだ、これは。どこかからの差し入れか?」
「そ、乗り入れ計画でお世話になってますー、って、メトロから」
彼個人の宛名で届いたそれを勝手に開封した事は言わないでおきながら、大井町は再び東横、と名を呼んだ。
「何でアンタだけ一人でソファ座ってんのよ」
「どこに座ろうがオレの勝手だろ、大井町」
ふん、と鼻を鳴らす東横の姿は、実は大井町の座っているテーブルからは後頭部しか見る事が出来ない。
東横線に田園都市線に目黒線、と、近場で暇をしていそうな人々を自由が丘へ呼びつけたのは他でもなく大井町なのだが、テーブルについているのは東横以外の三人だ。東横は休憩室に入って来るなり一直線にソファへ向かってしまって、微動だにする気配もない。
「ちょっと、皆でお茶してんのよ? 協調性ないわねぇ」
「田園都市の向かいなんて、誰が座るものか」
つん、と顎を仰のかせたのが、後ろからでも見て取れた。
「……だそうだ、残念だったな大井町」
話題に上った当人が、目黒の横で他人事のように感想を述べる。
黒々とした髪をさらりと額に垂らした田園都市線は、外見もいかにも生真面目なサラリーマンと言った感じであるし、制服と指定されたスーツを唯一まともにを着ている人物であったから、その点に関しては大井町とて否定を挟む気はない。だが、協調性がないと言うならば彼だってそうだ。東横の物言いにツッコミ所が多々あるのは自分とて重々分かっているが、何もその全てに突っ掛からなくとも、と思うのだ。
(東横を「東急の王様」扱いしてんのは誰よりもアンタじゃないのよ、田都)
店で挽いてもらったばかりのブルーマウンテンは流石に香りが高い。その香気の中でこれからまた始まるのであろう口論を思って、大井町は向かいに掛けた目黒線と目を合わせて密かに苦笑した。
「仏頂面を眺めながら茶など出来るか」
「あーもう、じゃあアタシが移動するわよ。目黒の向かいならいいでしょ?」
「……嫌だ」
「我が儘言うんじゃないわよ、もう! アンタらがそんなんだから、ウチは我が強いとか言われるのよ」
今の一言にむっとしたらしい、東横がマイセンのカップを持ったまま立ち上がる。
「別にそれは関係ないだろ、お前のドアカットのせいだ」
「それこそ関係ないでしょうが!」
「……まあまあ」
ドアカットは自分のせいではない。ひとえにホームが短いのがいけないのだ。………多分。
大井町がそう反論しようとした所で、今まで静かにコーヒーを飲んでいた目黒線が片手を挙げた。褪せた茶の髪を短く結び、ジャケットの代わりにグレーのセーターを着込んだ彼は、東急で一番の古株だけあって誰よりも路線達の和を大事にしようとしているのだ。
「ほら、一応東横と田都二人でウチのメインライン、だしね?」
……ただ、いかんせん、言葉を選ぶのは下手だが。
「田園都市なんかとオレを一緒くたにするな、目黒!」
「でも、君達が一番お客さんを乗せてる訳だし」
「乗客数ならわたしの方が上だがな」
「住宅地ばかり走ってるからっていい気になるなよ、田園都市っ……!」
「あーもー!」
東横に田園都市の乗客数の話題はタブーなのに、敢えてそこに話を向けてしまう目黒の天然具合はさて置いて、止まりそうにないメインラインどもの口論(と言うか、これは東横が田園都市に突っ掛かっているだけだ)に耐え切れなくなって、大井町は乱暴にテーブルに手を突いた。
「大井町、食器が割れるよ」
「今言うそれを?! ……兎に角、アンタ達仲が悪すぎんのよ! ケンカすんのもいい加減にしなさい!」
「東横が悪いと思うのだが」
それは確かにそうだが、折れない田園都市にも非はある。東横の自分勝手さを存分に理解しているのならば、適当にあしらったりすればこんな騒ぎにはならないはずである。
ああ、と嘆くように天井を仰いで数秒、素晴らしい事に思い至って、大井町は「そうだ!」と大声を上げた。
「アンタら一日限定で担当路線交換すれば?」
「はあ?」
「意味が分からないのだが」
「……だからさ、きっとアレよ、お互いへの理解が足りてないのよ、アンタ達は」
憎たらしい事にこう言う時ばかりはタイミングを合わせて、東横と田園都市が首を傾げた。しかしここで「同時に発言なんて仲が宜しい事で」などと言ったが最後、東横ご自慢の蹴りが飛んでくる事は目に見えている。からかってやりたい衝動と自分に降りかかるであろう損害を秤に掛けて、大井町は取り敢えず思い付いたアイディアについて話す事にする。
「お互いの苦労とかが分からないから、そうやって口論になるのよ。だからさ、一日だけでもお互いの路線を」
「オレにあんな色のネクタイをしろって言うのか? 断る」
「それはわたしにあの改造制服を着ろと言う事か、大井町」
……だから、なぜタイミングが同じで、言っている内容も似たようなものなのに、どうしてここまで噛み合わないのだろう。
「……もういいわよ、じゃあ」
名案のつもりが新たな火種を生んでしまったようで、大井町は滑らかな口当たりのチョコレートケーキに雑にフォークを突き刺しながら降参の言葉を場に投げ掛けた。
「大体だな、オレの五〇五〇にこいつからのお下がり車両を使わなきゃいけないと言う現状からして、オレにとっては耐え難い恥辱だって言うのに……!」
「それはわたしの意思ではないのだが」
「お前からの車両だけ汚いんだよ!」
「それは職員に言えばいい話だろう」
恥辱なんて今日日滅多に聞けないような単語は大声で言わないで欲しい。そこまで防音が効いている訳でもないのだ、職員の耳に入ったらこの駅を通過する自分が何と思われるか、考えただけで陰鬱な気分になってくる。
(……ダメだ、今日飲もう、絶対飲もう)
国産でも輸入物でもいい。ビールをリットル単位で飲まねば気が済まない。
最早ケーキもコーヒーも他の二人も放置して口論を始めた二人を見遣りながら、大井町はテーブルに頬杖を突いて溜息を吐いた。向かいでやはり困ったように笑っている目黒を横目で一瞥して、赤と緑の二人には聞こえないようなボリュームで問い掛ける。
「あれってさ、嫌いすぎて嫌いすぎて好き、と、好きすぎて好きすぎて嫌い、と、どっちだと思う?」
「僕もう若くないからなぁ、よく分からないけど」
「……あっそ……」
何十年経とうが透明性のない二人の関係をそれとなく問うた言葉に返ってきたのは、予想以上に掴みようのない返答だった。
コーヒーカップを持っているのに、目黒の姿に縁側で湯飲みを持つ老人がだぶって見えて、大井町は頬杖どころかケーキ皿を脇に避けて顔を突っ伏した。
(……ウチの男どもはこれだから)
こんなに積極的にヤケ酒のネタを提供されても、大井町の肝臓が保たない。
「こら、お行儀悪いよ」
「もうほっといて頂戴よー……」
今日は大井町でJRの京浜東北でも捕まえて飲もうそうしよう、と他社にとっては迷惑極まりない事を考えながら、大井町は突っ伏した先の珈琲スプーンに映る自分の顔を見て、こんな美人がいるのにウチはどうしてホモとおじいちゃんしかいないのかしら、と重い溜息を吐いたのであった。