ひかりよ

「……は?」

 旧桜木町駅舎が閉鎖になったと聞いて、みなとみらい線は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
 急に立ち上がったせいで、座っていたパイプ椅子がキシリと音を立てる。いつもならばそれは耳に残る嫌な類の音色なのだが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。

「何がは、だ。事実を言ったまでだぞ」
「や、だって……。『なった』? なる、じゃなくて?」
「もうなった。先週末」

 横浜駅の休憩室に入ってくるなり「そう言えば」なんて言って開口一番でみなとみらいの頭上に爆弾を落とした東横線は、耳の上で癖の強い茶髪をぴょこりと跳ねさせながら、不機嫌さを隠しもせずにこちらを睨み付けてきた。

「お前にもオレにも、もう関係のない話だろうが。あそこが歩道橋になるのは、お前だって知っているだろう?」
「や、うん、知ってる、けど」
「だったらこの話は終わりだ。………オレは寝る」

 みなとみらいは東横と相互直通運転をしているから、昨日の深夜にトラブルを起こしたのも、その対応で遅くまで残業していたのも知っている。プライドの高い彼の事だから、他の東急線の邪魔が入らない場所で仮眠をしたかったのだろう。それは分かるのだが、………だが。

「ちょ、東横、だって桜木町って」

 桜木町と言えば、つい六年前まで彼の終点であった駅である。それも忘れていると言うのならば兎も角、毎年廃線日の一月三十日、彼は真っ赤な花束をボロボロになったホームに手向けているらしいから、東横がそこに何らかの愛着めいたものを抱いているのだって明らかな事だ。
 らしい、と言うのは、みなとみらいが実際にそれを見た事がないからだ。毎年その日にみなとみらいが見るのは、花束と鍵を持って出掛けてゆく東横の後ろ姿と、手ぶらになって帰ってきた彼の、いつも通りつんと澄ました横顔だけで。
 追い縋るみなとみらいの様子にも構う事なく、東横は脱いだジャケットを横の空いた椅子の背に掛け、律儀に携帯のアラームをセットして、さっさと机に突っ伏してしまう。よほど疲れていたのだろう、ちょっと、と繰り返すみなとみらいの声が聞こえてないはずはないのに、暫くして彼はすぐに寝入ってしまった。

「とーよこぉ……」

 みなとみらいが座っていた真向かいに陣取った東横の額の横で真っ赤なピンが嘲るようにこちらを見ている。だが、大切な事を黙っていた彼に対して焦れる気持ちはあれど、仮眠を取り始めた以上起こすのも躊躇われた。
 仕方ないか、と一人でひっそりと息を吐いて、元座っていた席に戻る。ちょっとしたミーティングも行う事が出来る大きめのテーブルには、みなとみらいが広げていたスナック菓子の袋と、横浜ウォーカーと、東横の染められた髪の先が散らばっていた。

「………東横」

 閉鎖になった、だなんて。どうせ前々から知っていた癖に、ひどい人だ。
 彼の性格上、そこまで惜しむとも思われなかったが、駅舎の閉鎖は東横にとっても一つの節目になるはずだ。

(だって)

 だって、今年だって花束を持って出掛けて行ったのに。今年になってあの駅舎に愛想が尽きたとか、そんな事がある訳ないのに。
 ――いつだって思い出す事が出来る。あの日の桜木町駅の光景を、あの晩確かに輝いた、ほんの小さなひかりを。
 音を立てないように気を付けながら、そっと背もたれに体重を掛ける。うっすらと瞳を閉じれば思い出はすぐに脳裏から湧き上がってきて、未だに色褪せぬ鮮やかさでみなとみらいの瞼の裏を染めた。

 ◆

 東急東横線桜木町駅。JRの同名の駅からも程近いそこを、みなとみらいは人々から離れた場所で見つめていた。
 ついさっき九〇〇一がそこに停まって、最後の乗客を綺麗に吐き出して。最後の務めを終えた桜木町駅は、たった今から閉められる所だった。

「……」

 人のざわめく声、カメラのフラッシュの焚かれる音と光が、みなとみらいの五感をちかちかと刺激する。なのにその全てがどこか遠いものに感じられて、変に現実味が沸かなかった。
 つい先月の上旬、そこを走らせてもらったばかりだったのに、もう廃線だなんて。

(まあでも、オレが何か言える立場じゃない、か)

 みなとみらい21線が開業するにあたって、東横線の横浜以西の廃線は必要不可欠だ。残念だな、なんて口が裂けても言える立場ではないし、そう言おうにも、東横本人にこの廃線を悲しんだり惜しんだりしている様子がなかった。
 ああ、もしかして同じように感じているのだろうか、と、ちらりと横に立つ東横を盗み見る。みなとみらいの予想に違わず、彼はやはり平素と変わらぬようにしゃっきりと真っ直ぐに立っていて、じっと据えた目で桜木町駅と人々の作り出すシルエットを見つめていた。

「有難う、桜木町!」

 ほらな、やっぱり、と思ったのと、その声が聞こえたのは、確か同じタイミングだったかと思う。
 誰かが上げた声に呼応するように、桜木町、桜木町、と、人々が駅名を叫ぶ。友人の名でも呼ぶように、今生の別れでも惜しむように、痛切に。
 そこに籠められた人々の思いが見えぬ波を作って、みなとみらいの視覚と聴覚を襲った。
 当たり前なのだが、廃線の瞬間をを目の当たりにするのはこれが初めてだ。まだ開業もしていない内に、ひとの――相直先の廃線を見るなんて、なんて不思議で、因果な瞬間なのだろう。
 ほんの少しだけ、来なきゃよかったかな、なんて思ってしまった。だが見たいとせがんだのは紛れもなくみなとみらい自身で、今更そんな事を後悔したってどうしようもない。

(受け止めねぇと。これは、オレが招いた事なんだから)

 距離を取っていると言うのに、熱気に気圧されるように足が後退りしかける。そんな時に突然ぎゅっと東横が手を握ってきたものだから、みなとみらいは開業前に心臓が止まってしまうんじゃないかと思った。

「急にどーしたんだよ、と………」

 手を繋ぐ事自体は嫌ではない。寧ろ好きな方だが、いかんせんタイミングが悪かった。だからほんのちょっとだけ文句を言って、それから「東横から手繋ぐなんて、最初の日以来じゃん?」なんてからかってやろうと思って顔を上げたのに、みなとみらいは彼の名前すら呼ぶ事が出来なかった。
 横で見上げるみなとみらいの事には一切気付かず、自分から手を握った自覚もない様子で、大きなガラス扉を閉める駅員と、その前に群がった人々を見て、東横は静かに泣いていた。
 きっと、涙を流している事にすら気付いていない。それくらい真剣な眼差しで、十数メートル先で繰り広げられている光景を見つめている。

「不思議だな」

 発された声は全くぶれずに、少し平板で不遜な、いつもの彼の口調を保っていた。

「廃駅は前にもあったが、……そうか、オレは全く痛くないのに、人は惜しむのか、これを」

 悲しむのか、東横線の廃線を。
 まるで他社線が遅延したぞとでも言うようなどうでもよさそうな調子でそう言って、東横は瞬きもせずに前を見ていた。
 静かに伝った涙は一度零れたきりで、薄く透明な轍を頬に残している。東急の未来を見据える瞳を、賛美も誹りも、全てを受けてもなおたじろがぬ頬を濡らした涙の跡を、駅舎から零れる光が微かに照らしていて、そんなものを見てしまった以上、もう感動的なシチュエーションに流されて泣くなんて安い真似は出来なかった。
 俯いて、握られっぱなしの手をぎゅっと握る。するとようやく手を繋いでいた事に気付いたらしく、少しだけ驚いた顔をして東横がみなとみらいの方を向いた。

「急にどうした、MM」
「んー、何でも……ねーよ………?」

 誤魔化す声は、泣き出す寸前のように震えてしまっていた。それを聞いて、また東横がひょいと片眉を上げてみせる。

「お前まで泣いてどうする、馬鹿」

 堪える涙は、決して人々からのもらい泣きなどではない。今はもうそんな名残なんて欠片もなくなってしまった、一筋だけ流れた気高い涙に、東横が初めてみせた「人間らしさ」に胸が詰まって、苦しくて仕方がないだけだ。

「もう、じきに閉まる。そろそろ戻るか」
「ま、待って、とーよこ」

 明日も仕事だしな、と言って、東横が繋いでいた手を解こうとする。その指を追い掛け、己の指を絡みつかせて、みなとみらいは子供らしく甘えた。

「あともーちょいだけ、見さして。あとちょっとで、ドア閉まるみてーじゃん?」
「……仕方のないやつだな。明日寝不足で遅刻したら、承知しないからな」
「………ん、あんがと、東横」

 全く、と短く文句を言ってから、東横の視線がまた前へと戻る。それからみなとみらいは、扉がぴっちりと閉められるまで、今度こそ目を背ける事もただぼんやりと眺める事もせず、東横が見ている景色を、彼が確かに人々から愛されていると言う事実を、ひたすらに目に焼き付けた。
 東横が忘れても、自分は忘れてしまわぬように。冷ややかで傲慢な立ち居振る舞いをする彼が垣間見せた温かみを離さぬように、ぎゅっと手を繋いで。

 ◆

(――だから、オレは)

 だから、みなとみらいは迷わない。あの日見た涙をもたらしたものを知っているから、誰になんと言われようとも、ただひたすらに、与えられた道を迷いもなく、まっすぐと走っていける。地下ではなく、海が見える場所を颯爽と走っていた、彼のように。

「東横がずっと守ってたもん、貰ったようなもんじゃん、な?」

 彼を起こさぬようにと黙って回想している間に、大分時間が経っているようだった。勝手に顔の傍に置いてあった携帯を開いて見てみると、アラームは今の時刻の五分先に設定されている。
 いつもならばちょっとした物音で目を覚ます癖に、今日は珍しく、みなとみらいが身を乗り上げて見つめても起きる気配がない。それで少し悪戯心が沸いて、ピンが留っていない方の髪をちょっとだけかき上げてみた。――それでもまだ、東横は目覚めない。

(だったら、いいよな?)

 耳をそばだてないと聞こえぬ寝息にほんの少しだけ心臓をどきどきさせながら、露わになったこめかみに軽く唇を押し付ける。祈るように、抱く思いを捧げるように。

(オレの、自慢のお兄ちゃん)

 それは、開業前の眠れない時に彼がみなとみらいにしてくれた仕草だった。彼は眠る時にしてくれたけれども、その逆だって別におかしい事ではないだろう。彼からのおやすみのキスがあるのならば、自分からおはようのキスがあったっていいはずだ。

「起きろよ、東横。ほらほら、もう時間じゃん?」
「う…………」

 俯せの顔を支えていた腕がずるずると伸びて、携帯を置いていた辺りを探る。お目当てのものが見つからなかった事で目が覚めてきたのだろう、のろのろと顔を上げた東横の瞳はまだ眠そうであったが、それでも見つめられればどきりとする程の強さを含んでいた。いつもの、そしてあの日と同じ眼差しである。

「おい、返せ」
「ん、別に田都とのラブいメールとかは見てねえよ?」
「………誰とのどんなメールだって?」

 伸び上がった姿勢のまま、手に持った携帯を見せびらかすようにゆらゆらと揺らす。すると案の定口にした冗談に眉を逆立てた東横がばっと真っ赤な携帯を奪い返して、そのまま携帯を持った手でごつりと額をはたかれた。硬いものを握り締めているせいで、甲の骨が尖って痛い。

「あだ……! ちょっと冗談言っただけじゃんかっ……! DVだDV!」
「何がDVだ、教育的指導の間違いだろう。馬鹿な事を言うお前が悪い」

 むすっと吐き捨てた横顔は、とてもじゃないが八十年以上も走っている路線とは思えなかった。背負っている歴史に似合うだけの尊大さと、一見ではそうとは思えぬ若い外見と。そう思えばひどくアンバランスではあったが、そんな所もみなとみらいは気に入っていた。

(大好きだぞ、東横。東横がいなかったら、今のオレはいないから)

「な、東横。いつかあそこに歩道橋が出来たらさ、オレと散歩してくんね?」
「……いきなり何だ、起き抜けに」
「起き抜けだろーが何だろーが関係ないじゃん。約束約束っ! ……な?」

 東横が切り離した場所を、姿と役目を変えて、これからも人々に愛されるであろう場所を、彼と手を繋いで歩きたい。
 心に潜む思いのまま、へら、と顔を緩ませて、きっと彼からすれば唐突であろうおねだりを一つ。テーブルに頬杖をついて、携帯を持つ彼をじーっと下から見つめて言うと、東横はわざとらしい溜め息を吐いてそっぽを向いた。
 ああ。今もあの夜東横が見せてくれたひかりを大事に抱えて走っていると言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。口元を歪ませて、皮肉っぽく笑うだろうか。それとも、眉根を下げて困った顔をするだろうか。もしかしたら、血相を変えて拳を固めるかもしれない。
 馬鹿にされたって、怒られたっていい。走る誇りをくれたのが東横であるのは、変わらぬ事実なのだから。

「……途中で変なものをねだったりしないと約束するなら、考えてやる」
「ありがと、とーよこ」

 不承不承と言った様子で、それでも確かに頷いてくれたので、みなとみらいは顔をふにゃふにゃにさせて笑った。
 ――さあ、今日も走ろう。大好きな横浜を、大好きな彼と一緒に。線路の通っていない所まで、どこまでも。