あなたを呪う夜 - 8/8

 日が沈む。空が赤に燃えて、そうして紺色が水平線に押し寄せる。
 日の入り、夕暮れ、逢魔が時。世界が切り替わる瞬間だと人々が言い伝えた時間、多摩川はそこに佇んでいた。
 背の低い石の間を、少し冷たい風が通り抜けていく。ばさばさと音を立てるのは、どこに手向けられた草花だろうか。

「珍しいね。君がここに来たがるなんて」
「……まぁ、命日も東横に任せているしね」

 寺の墓地の入り口辺りでくるり、と後ろを振り向いて、多摩川は横に立つ目黒の言葉を受けた。
 帰宅ラッシュの前に自由が丘に来い、と言って、多摩川は目黒をこの寺まで連れてきたのである。
 九品仏浄真寺。あの男の墓がある寺だ。

「――何となく、どう言う形で収まっていたんだっけ、って、確認したい気持ちになっただけさ」

 ――新奥沢の亡骸はどこに安置したのだったか、すっかり忘れてしまった。
 遺体の処分、なんて言い方をした上の者に反発して、場所はどこでもいいから墓を作ってやれと言ったのは、目黒ではなく多摩川だ。池上には敢えて顛末を語らずにいたが、多摩川の意見は聞き入れられたはずだから、今もその亡骸はどこかの土の下で眠っているはずだ。

(どこか、池上が見える場所だといいんだけど)

 辺り一面に広がる墓地から目を離して、多摩川は短く、帰ろう、と呟いた。

「ねぇ、目黒」
「何かな」
「さっき多摩川駅で東横と現業に言われてオレも思い出したんだけどね。……今日、三月十一日だよ」
「ああ」

 そう。今日は目蒲線の開業日だ。
 自分は途中から生まれた意識だから、開業した当日の事を覚えているかと言うと、正直怪しい。
 それでも、周囲から祝われて、まだ小さかった大井町が同席して、あの人が目蒲の背を押してくれたのは、何となく朧気に覚えていた。
 夕暮れ時なのもあって、浄真寺には人気がなかった。来た時は僧の姿も見えたのだが、今は建物の中に引っ込んでしまっているらしい。
 それをいい事に、多摩川は目黒のジャケットの袖を引いた。顔がこちらを向いたのをいい事に、背けられる前に唇を押し付けた。
 唇をぶつけ合って、それで飛沫のように消えられれば、と、童話のような事を思っていたとは、言わないでおく。

「境内だよ、多摩川」
「知ってるよ。ああ、気持ち悪い……最悪だ……」
「そんな事言うなら、しなければよかったじゃないか」

 同じ顔とキスをしたらどう言う気分だろう、と思ってやってみたのだが、想像していた通り、そんな事をしても気は晴れなかった。
 一生変わらないのだろう。それならばそれでいい。

「やはり、鉄と架線の子でありたい、なんて、ね」
「何か言ったかい、多摩川」
「何でもない!」

 「ジーキル博士とハイド氏」の序文をもじったのだ。薬も飲まずに分裂してしまった体を持てあましながら、多摩川は駅に向かって歩き出す。

「あーあ、気分転換に池上に絡んで来ようかなぁ」

 急に「現実」へ放り投げられて、今になっても地に足が着いている感じがしない。昼間はいつだって慣れないし、太陽は眩しくて仕方がなかった。
 それでも、それが「多摩川線」に与えられた人生だと言うのならば、それを享受しよう。それしか選択肢がないのならば、折角ならばぐちゃぐちゃにかき回して、楽しむ振りでもしよう。振りでも続けていれば、いずれ本物の感情になるかもしれない。
 走る区間も、会社を導く人間も選べない。ならばもう、全てを諦めてしまうしかないではないか。
 すっきりとした首の後ろを、春先の風が撫でていく。少し慣れないけれども、悪くない感触だ。
 路線に戻って、列車に乗って、蒲田に行こう。
 それがきっと、目蒲線であった自分に与えられた余生だ。