「……多摩川」
「おお、多摩川さんってば」
「あらやだ、何よそれ!」
翌朝のミーティングに顔を出した多摩川を迎えたのは、そんな声だった。
頭から、田園都市、世田谷、大井町である。えへ、と彼らにVサインをすると、一番奥に座っていた東横がはん、と大袈裟に肩を揺らした。
「ようやく清潔な頭になったようだな、お前も」
「それ、目黒にも言えば? 目黒も同じくらいなんだけど」
「目黒のはいいんだが、多摩川の結び方は目について鬱陶しい」
「……それは、同意、する」
隣で呟いて、池上はさっさと席についてしまう。ほら見ろ、と鼻を膨らませる東横に舌を出しながら、多摩川は頭の隅で今朝の事を思い出していた。
起きろ、と朝方に声をかけられるまで、実は一睡も出来なかった。
入った事がない池上の部屋で、これまでに触れられた事もなかった髪に触れられて、彼に毛先を切り揃えられて、それでも、膝を抱えて朝が来るまで考えていたのは目黒の事だった。
(池上、もっと蔑んでくれると思ったのに)
池上があんなに優しくしてくれるとは思っていなかった。優しい人間であるのは目蒲電鉄の頃から知っている事だが、池上にとって目黒と多摩川は「憎むべき仇の目蒲電鉄」であるはずである。少なくとも、今までの池上と多摩川の関係性はその言葉の上に保たれていた。その根本へ急に罅を入れられても、完全に崩れてしまうまでは多摩川はそこに縋る以外に術がない。
今まで嫌われ、憎まれて、怨まれる、少なくとも表面ではそう言う間柄だったはずだ。形骸化したとしても、暫くはその「遊び」を続けてもらわねば、困る。
「多摩川? 座ったらどうかな?」
「え、ああ。そうだね、うん、座る」
東横の隣に座っていた目黒に声をかけられて、はっとした。気付けば、己を除いた六路線はとうに椅子にかけている。
(上手くやるさ)
きっと、本質的な所は何一つ変わりはしないのだろう。多摩川は深層のうちで目黒の存在を求め続けるし、池上の態度が軟化した所で、多摩川は戸惑ってしまうだろう。昨晩はああ言ったものの、悲しいかな、想いが積み重なりすぎて、彼に向けていた好意がどんなものか多摩川にはもう判別が付かない。
もしも池上の気が向いて多摩川に手を伸ばしたとしても、確かに己は抗わないであろう。だが、逆に彼と性的な関係を持ちたいかと聞かれてもよく分からなかった。池上と多摩川は、そう言う仲ではない、気がする。
(いつか「毎日池上にキスしないと脱線する!」とか言う日が来るのかな)
想像は容易に出来たが、現実味がなかった。きっと、二人の関係なんてそんなものなのだ。
さして何かがある時期ではない為、会議はさっくりと終わった。各々がぱらぱらと立ち上がり始める中、ゆっくりと腰を上げると、視界の端で東横が田園都市の手を勢いよく叩き落としているのが見える。
「……っ、お前の助力などいらぬ世話だ! 離せ!」
「だが」
「路面上がりが調子に乗るな! お前に頼むくらいなら、目黒に頼む!」
(おやおや)
ぎゃあぎゃあと叫ぶ東横を視界に納めながら、そっとテーブルから距離をあける。
渋谷駅から自路線まで戻るには、JR線か東横を使わなければいけない。朝会議室に入る前に聞いた通り、池上はJRを乗り継いで行くようだった。他社線である事さえ気にしなければ(そして、それを使った事が東横にバレさえしなければ)、ここから池上線内に戻るのはJRの方が楽だ。
自分は東横の乗り場まで戻るか、とドアに手を伸ばした所で、先にノブを掴んだ手があった。
見ずとも気配で分かる。視線をくれてやる事もない。目黒だ。
「――ああ、いい所に」
「僕に何か?」
「ちょっと、付き合って欲しい所があるんだけど」
ドアを開けようとした手を掴んで、代わりに扉を開ける。
近付いた顔に口を寄せて、多摩川は目黒の耳に囁いた。