「多摩川さん?!」
「やあ、お疲れ様」
「お疲れ様です……え、いや、あの」
「ああ、うん。切っちゃった」
似合うかな、なんて言いながら、多摩川はすっきりとしたうなじにかかる髪を指先で撫で付ける。
あれから暫く無言で抱き合って、多摩川が漏らしたのは、じゃあ帰らないと、の一言だった。
「書類ね、ほとんど終わったんだけど。まだ数枚残ってるんだよねぇ。部屋で片付けておくから、明朝でもいいかなぁ」
「え、ええ。大丈夫だと思います」
「じゃあ、伝えておいて?」
あっけらかんと笑うその肩には、もう髪の束は垂れてはいない。切った際に散った毛先もすっかり払い落として、髪が短くなった以外はいつもの多摩川だ。
池上の手を取って、多摩川は自路線が発つホームへと歩いていく。思わず反射で手を振り払ってからしまった、と思ったが、目を丸くして振り返った多摩川にさしたダメージは見受けられなかった。ついさっきは縮こまって抱きついていた癖に、つくづく分からない男である。
「何だよ。ホントに君はつれないなぁ」
「気色が、悪い」
「もう、傷付くなぁ。……あ、発車する」
目が合った車掌には軽く手を挙げるにとどめて、池上は多摩川と共に近くの車両へ体を滑り込ませた。
終電が近いせいもあってか、車内は仕事帰りのサラリーマンばかりだった。その中で、多摩川と池上は大した言葉もない。
「池上」
「……何」
「有り難う」
「別に」
ガタガタと小刻みに揺れながらすれ違っていく踏切を尻目に、多摩川がぽつりと呟く。
先刻の事を言っているのは分かっていたから、池上はついと車窓の景色へと目を転じさせた。目を合わせたまま何と言ってやればいいのかが、分からない。
「目蒲電鉄に、そんな事、言われる、なんてね」
「そんな日もあるさ」
ふっと細い息を吐き出しながら、多摩川が言う。先程からひどい言い回しをしている自覚はあったが、癖で悪態が口をついてしまうのだ。
「目蒲電鉄目蒲線にだって、東急多摩川線にだって、君のような者には計り知れぬ遠大な悩みがあるのさ、池上電車」
「……よく、言う」
多摩川駅で東横線に乗り換えてからは、更に互いの口数が減った。
多摩川駅で職員に聞くと、東横はギリギリまで横浜にいる予定らしい、と言っていた。つくづく自路線の好きな男だ。
「ねぇ、池上」
「……何」
渋谷駅で並ぶ九〇〇〇系を見遣りながら、多摩川が言う。
「田都と東横、くっつくと思う?」
「さぁ」
それは田園都市が努力次第だ。田園都市が延伸してからこっち、東横は「あいつが渋谷にいるなんて」と怒っているから、万一そうなるとしても日がいるだろう。
短く返して、池上は腕にかけたままだったコートを羽織った。
社から支給されたトレンチコートである。ベージュとどちらがいい、と問われて、池上は黒を選んでいた。
隣を歩く多摩川は潔く手ぶらで歩いている。コートは、と言うと肩を竦めて忘れた、と言うので、池上は呆れて嘆息した。
「春だから、って、まだ、夜は冷える、よ」
「夜にこんな気温が落ちるなんて思ってなかったんだよ。明日からはちゃんと着るさ」
目蒲の時に着ていたベージュのコートは、目黒が使っているらしい。春物のコート買ったからね、と零して、多摩川は襟をぐるりと囲うベルトできゅっと固定させた。
「留めても寒いもんは寒いね」
ふふ、と笑う多摩川には返事をせずに、池上は渋谷の坂を上る。
繁華街とは逆の方向、東急が本社を構える方向へと暫く坂を行くと、傘下の不動産が管理をするマンションがある。そこが、池上達東急線の住処だ。
「夜は気温が落ちるって、知ってたはずなんだけど」
「……」
「でも、昔に比べればこの国も大分暖かくなった」
環境も、建物も、着る服だって変わった。あの頃は背広も外套ももっと薄っぺらい布地をしていたし、寒さを凌ぐ為に入ったカフェだって十分に暖房が回っているかと問われれば頷きがたい。
「ところで池上、その髪って自分で揃えてるの?」
「……そう、だけ、ど」
エレベーターの昇降ボタンを押したときに問いかけられて、池上は携えていた鞄から鍵を出したポーズのまま固まった。
少し考えてから、頷く。
人との接触をあまり好まない上、髪を切りに出ると言うのは何とも気が進まない。不器用な訳でもないし、伸びてきた分だけ切り揃えれば済む話だ。言うと、多摩川は池上の肩に触れるか否かと言う長さの髪を見ながら、あのさ、と口火を切った。
「梳き鋏、貸して欲しいんだけど」
「え」
「今までも前髪切るくらいにしか使ってなかったんだけど、鋏も目黒の所だから。このまま明日出てったら、東横が五月蠅いだろう?」
「朝、大井町にでも、頼めば」
「冗談やめてよ。大井町に頼みでもしたら、耳まで切られる」
それには反論出来ずに、池上は諦めて肩を竦めた。
フロアに降りて、部屋に帰ろうとする多摩川の名を短く呼ぶ。え、と振り向いた頭はやはりざらざらの毛並みをしていて、確かにまあ、らしくないと言えば、らしくない。
「毛先だけ」
「へ?」
「毛先だけ、切って、あげる。後ろ、一人じゃ出来ない、でしょ」
「おや、……どう言う風の吹き回し?」
「泊まっていけば、って、言ってるん、だけど」
口をぽかんと開けた状態で暫しフリーズしてから、じゃあ、と多摩川が言った。
一人にしておけない目をしているから、とは言わずにおいた。そんな事くらい、とうに本人が気付いているだろう。
鍵を回して、多摩川を導き入れる。鞄を置いて風呂のスイッチを入れてから、池上はリビングで所在なさげに立ち竦む背中へ目をやった。
背筋のいい、白い服に包まれた背中。自分よりも五センチ程高い背丈も、その体の大きさも変わらない。
変わってしまった、と感じるのは、それだけ多摩川がボロを出したと言う事なのだろう。
「先に入れば」
じきに沸くだろうから、と言って浴室へと多摩川を押し込み、池上はそっと息を吐いた。どうにも、慣れない距離である。
彼が出てくるのを待って、池上も手早く入浴を済ませる。生乾きの髪のまま鋏と紙を持ってリビングへ顔を出すと、多摩川は貸した部屋着に袖を通して、ソファで持ち帰った書類に目を通していた。
「池上のサイズだと袖が足りないよね」
置いていたペンでサイン欄へ流麗に名を書いてから、多摩川がにっこりと池上に笑いかける。嫌な男だ。
「喧嘩、売ってる、の」
「あとこれ、池上のにおいがする」
「出てって」
「ちょっと、髪切ってくれるんじゃないのかよ!」
がなる声を無視して隣に座ると、多摩川は書類を脇に寄せて池上へ背を向けた。何だかんだ冗談を言いながら、髪は揃えて欲しいらしい。
二人がけのソファは、男二人で並ぶと少し窮屈だ。部屋に呼んだ事もなかったな、と思いながら、池上は多摩川に頭を少し俯かせた。
「でもこれ、ざっくり尻尾を切ったにしては、割とまともに行けてると思わない?」
「全然」
理容用でも何でもない文房具の鋏を適当に入れたせいで、よく見ずとも毛先はバラバラだ。湿ったままの髪を少しずつ切っていくと、池上の指先には濡れた毛束が張り付いた。
駅で見た時は、もっと長いものが机に零れていた。あれを池上がどんな目で見ていたか、きっと多摩川は気付いていないだろう。
他人事めいた目でもったいない事を、と眺めていたのと同時に、目黒と同じ長さでなくなったのを愉悦に感じていたなんて、多摩川は朽ちるまで知らなくていい。
「こんな事してる内に朝が来そうだね、池上」
「少しくらい、は、寝たいん、だけ、ど」
「それは同意見だけど」
細かに鋏を入れて、髪を梳いていく。うなじにかかるくらいまで毛先を整えると、すんなりとした白い首筋が目に入った。
思っていたよりも、細い。今手を伸ばせば、両手に納まってしまうであろう、目蒲の首。
「……池上がこんな風にしてくれるなんて、思っていなかった」
否定はしまい。池上だって、何でこんな事、と思っているのだ。
「ねぇ、池上。新奥沢の事は――」
「聞きたくない」
髪の間に挟まった毛先を払って落としてやりながら、池上は短く言い返す。
「あの男の代弁でも、するつもり、なの。あの人が、欠片も思って、いなかった事、でも、言うつもり」
「……そうだね。ごめん、忘れて」
大体、君は嫌だったんでしょ、と言う言葉を飲み込んで、ざっと視線を上下させる。前髪は前から整っていたから、後ろ髪が揃っていれば取り敢えずは大丈夫だろう。
「終わったよ」
「ありがと、池上」
毛先を受け止めるのに使っていた紙を畳んで、鋏を片付ける。確認の為に洗面台へ行かせると、多摩川は不思議そうに首をさすりながら戻ってきた。
「髪がないって変な感じ。池上よりも短いだなんて」
うなじから手を離した瞬間、ふっと浮かんだ笑みは寂寥の類だろうか。どうにも追求出来ないまま、池上は多摩川から視線を逸らした。
「ベッド、使えば」
「いいよ、ソファで。それとも、ベッドで一緒に寝てくれる?」
「……それは」
別に構いはしないが、狭い上に気まずいだろう。それならば、池上がソファで寝た方がまだマシである。
思わず顔を顰めると、ほら、と多摩川が苦笑した。
「一応オレ、しつこく君に気があるつもりだからさ。そうやって全く興味ないから大丈夫です、って態度取られると、ちょっとは傷付く」
「別に、そうは思って、ない、けど」
「は?」
失言である。舌打ちして、池上は寝室から予備の毛布を引っ張り出した。
「ちょっと待って池上、今のつまりどう言う事?」
「はい、毛布。おやすみ、多摩川」
わたつく多摩川の手に毛布を押しつけて、池上は踵を返した。馬鹿は放って寝よう。
「え、おやす……って、結局オレがソファなの? え、待ってよ池上ってば!」
「五月蠅い……。もう、ソファに、溶け込んで、同化、して……。明日、粗大ゴミに、出す、から」
「ひどくない?!」
「近所迷惑」
言い捨てて、寝室のドアを閉める。追い縋ってくるかと思ったが、空元気でそこまでの気力はないらしい。
ベッドに潜り込む前に指先を見ると、数本だけ多摩川の髪が引っ付いていた。切り終えた後にざっと手を洗ったのだが、どうやら落とし切れていなかったらしい。
指と指の間、水掻きに隠れていたそれを舌先で拾って、ゴミ箱へ払い落とす。
指で摘まずに舐め取ろうと思ったのは、ただの思いつきである。気の迷いと言うべきか、もしくは。
「――君は、昔、から、余計な、事を、考えすぎ、なんだよ。多摩川」
はらはらと落ちる髪へ呟いてから、照明を消す。
夜明けは、窓の外のすぐそこまで迫っていた。