黒のオニキス

 休日の夜、ぼくとシリルは、プライベート・ブラッドの前にいた。
 吸血鬼と契約した後もクラブで他の吸血鬼と戯れる人間もいるらしいが、一人きりだった時ですらろくに吸血鬼と話すことが出来なかったぼくに、そんな器用なことが出来るはずもない。
 ただ、ロジェ――このクラブを取り仕切っているらしい少年が、言ったのだ。

『たまにはシリルを里帰りさせてやったらどう、先生』

 そう、ロジェは少年である。
 明るいオリーブグリーンの瞳。重いが野暮ったさのない程度に梳かれた金の髪。見た目こそ中流貴族の子息のような彼は、しかしその実ひどく老獪である。
 年若い者はもれなく愛らしいと感じる少年性愛者のぼくだが、ロジェに限っては、素直に可愛いと感じることが出来なかった。常に感じるプレッシャーのようなもののせいだろう。
 とにかく、里帰りと言われて、ぼくは少し考え込んだ。
 里帰りか。シリルは決して感情を表に出すような青年ではなかったが、確かに突然ぼくと契約を交わし、クラブを出ていったのだから、寂しさくらいは覚えているかもしれない。
 そんな訳で、ぼくは今日、仕事が休みであるのをいいことに、起きてきた彼にクラブへ行かないかと声をかけたのである。
 シリルはさして深く考える様子もなく「いいけど」とあっさりと返事をしていた。まさかクラブへ行く用事が自分自身にあるとは思っていないのであろう。

「ムッシュ」

 ドアマンの女性は、久しぶりに訪れたぼくに恭しく礼をした後、申し訳ございませんが、と前置いて両手を出した。

「契約をしている方でも、資格を確認する取り決めとなっております」
「『宵闇にこそ真実が宿る』――シリル」

 店の合い言葉を唱え、名を呼ぶと、隣にいた彼がフロックコートのポケットから預けていた会員証を出し、ドアマンの彼女に渡した。
 カードを渡す際に、シリルの手首でくすんだ金のタグがきらりと光る。
 うちに引き取ってからつけていなかったブレスレットだが、今夜はつけさせていた。
 店の中には、他にも吸血鬼や、彼らを目当てに来店している人間がいる。無用なトラブルは避けたかったのだ。
 シリルが会員証を受け取るのを確認してから、ドアマンの彼女が引いてくれたドアをくぐる。
 薄暗い闇の中に、キャンドルの明かりがちらちらと揺れる。葉巻と酒のにおいが辺りで渦を巻いているような空気の中で、ぼくは歩いていたギャルソンを呼び止めた。

「ロジェに取り次いで欲しいんだが」
「失礼ですが、お客様。どのような……」
「シリル!」

 用件を聞くのは当然のことだろう。しかし、言葉を続けようとしていたギャルソンの後ろから、突然弾けるような声がシリルの名を呼んだ。女性の声だ。

「エレーヌ」

 シリルが淡々と言う。その言葉につられるようにギャルソンの背後へ視線をやって、ぼくは思わずぎくりとしてしまった。
 肩につくかどうかの金の巻き毛に、睫毛の重そうなライトブルーの瞳。露出の高いドレスは娼婦のようであったが、しかし、纏う雰囲気は決して品を失していない。
 見事なバランスの女性であった。男が望む、ほどよく淫蕩で、ほどよく上品な女性である。
 だが、ぼくはその美しい均衡に息を呑んだ訳ではない。
 彼女には見覚えがあった。
 シリルと初めて出会ったあの夜、クラブに入ってすぐのことだ。
 広間の太い柱にもたれかかるようにして、彼女は立っていた。
 情事の気配を色濃く残した雰囲気で、ぼくに眼差しをよこして、にっこりと色っぽく微笑んでみせた女性――それが、彼女である。
 彼女の空気に圧倒されて、恥ずかしくなってテラスに上がって、そこでシリルと出会ったのだから、彼女と会っていなければシリルと出会うことはなかったと言ってもいい。だが、どうにもぼくには彼女に感謝や親しみといった気持ちを持つことが出来なかった。
 先ほど男の願望通りの女性だと言ったが、しかし、ぼく自身はこういう類の女性は決して得意ではないのだ。
 ギャルソンの肩を掴んで身を乗り出していたエレーヌであったが、それだけでは飽きたらず、ギャルソンの前に回ると、一息の間にシリルをぎゅっとハグしていた。もちろん、ぼくの目の前でである。

「シリルじゃない! あなたいきなりいなくなっちゃうから、心配したのよ、私」
「……ごめんね、エレーヌ」

 人に謝るなんて気遣いがシリルにあったのか、なんていささか無礼な感動もおいていきぼりにしながら、シリルとエレーヌは二人の空間を作り上げていた。
 エレーヌがそこそこの声量でシリルを呼び止めたから、近くに座っている客の視線がぼくたちに突き刺さっている。それに、シリルと彼女は、どう見たって完璧な二人だった。絵画から出てきたカップルのようだった。近くにいて見るなと言う方が無理だろう。

「……吸血鬼のシリルが用がある、と言ってくれないかな」

 人の視線に晒されるのは苦手だ。ギャルソンに口早に告げると、彼ははっとしたような顔をした後に、しばらくお待ち下さい、と言って端にある狭い階段を駆け上がっていった。

「なぁに、シリル。ロジェに用があるの?」
「たぶん」
「なによ、たぶんって。ねぇ、久しぶりに話しましょ? 私、紅茶を淹れてあげるわ」

 ハグをした後も、エレーヌはシリルの腕に腕を回し、片側に抱きつくような姿勢をとっていた。
 シリルは、ハグの時からずっとされるがままだった。慣れているのかもしれない。だが、どういう意味にせよ、あまりいい気はしなかった。
 彼女のこういう態度に慣れているのだとしたら、これまでの二人のやりとりが気になって仕方がない。誰になにをされても気にならないたちなんだとしたら――そしてそれは彼の性格を鑑みるに十二分に有り得ることなのだが――それもやっぱり、気にしてしまう。
 誰になにをされても気にしないのだとしたら、それは、ぼくがなにをしたって、なにを言ったってなにも変わらないと言うことだ。
 エレーヌの方はロジェの居場所に心当たりがあるらしい、先ほどギャルソンが上がっていった階段の方へと勝手に進んでいる。
 シリルがちらり、とぼくを見た。なにも考えていないような眼差しだったが、ついてこいということだろう。
 溜め息を吐いて、階段を上る。そう言えば、シリルと契約をする際にも、この階段を上がってロジェと応接間のようなところへ行った記憶があった。
 二階は、大広間とは違う空気を漂わせていた。
 大広間は浮き世離れした空間になっているが、言ってしまえば、二階はずいぶんと俗っぽかった。長い廊下にはいくつもドアがついており、清潔にされてはいたが、普段客を通していないのだろう、廊下もドアも、シンプルな木板のものであった。

「ロジェに用があるのはムッシュの方かしら?」

 シリルに抱きついたまま、エレーヌがぼくを見た。

「……いや、実際のところ、大した用はないんだ。ただ、久しぶりにシリルを店に連れてきたらどうだって、ロジェが言うものでね」

 そう説明すると、エレーヌはぱっと顔を輝かせた。元々派手な顔立ちをしているから、そうやって表情を明るくさせると、モデルや女優のようだった。

「私が言ったからだわ! ありがとう、ムッシュ!」

 なるほど、つまり、シリルがどうこうと言うより、彼に会いたがっている人間がいるからああ言った訳だ。
 先ほど見たギャルソンが、ドアの一つから出てきた。すれ違いざまに、ぼくに頭を下げて去っていく。そのすぐ後に、再びドアが開いたかと思うと、中から可愛らしい少年が現れた。ロジェだ。

「おや、先生。用があるならもっとスマートに来たらどう?」

 にやにやと笑いながらロジェが言う。この様子では、下でなにがあったかギャルソンから聞いたのだろう。

「ぼくはもっと静かに来たかったとも」

 どうか嫌味に聞こえますように、と思いながら言い返すと、ロジェは小さな肩を竦めて、まぁまぁ、とぼくを軽くいなしながらシリルを見た。
 本当に、年不相応な少年だ。否、実際のところ、見た目通りの年齢なのかも分からない。吸血鬼は決して不老という訳ではなさそうだが、彼に関しては、人なのか、吸血鬼なのか、はたまたそのどちらでもないのかもよく分からなかった。

「エレーヌだけじゃなくて、他のやつもシリルを気にしてたんだ。いやぁ、とても分別のある素敵な先生と契約したんだとは説明してやったんだけどねぇ」

 まったく信用出来ないような笑みを浮かべて、ロジェが言う。黙ってそれを見ていたエレーヌが、ねぇ、と少年に向かって声を上げた。

「シリルのタグ、石が付いてないのよ。忘れたでしょ、ロジェ」
「……ああ、そう言えば。急な契約だったもんでね、忘れてたよ」
「石?」

 いったいなんの話だ。思わず口を挟むと、ロジェはすたすたとシリルとエレーヌの方へ歩み寄ると、二人の手首を細い両腕でぐいと持ち上げた。

「クラブに契約した吸血鬼を連れてくる時に、先生みたいにタグをつけさせてくる人は結構いるんだけどさ、それだとひと目では契約していないのか、そうじゃないのか分からないだろ。それでトラブルもあってね」

 なるほど、手が付いている吸血鬼に手を出そうとする人間がいたのだろう。確かに、契約の有無に関わらず、タグはただの金メッキのされた金属のものだから、それを見て区別をすることは不可能だ。

「だから、契約した子のタグには、その目印に小さな石を打ち込んでやることにした訳。シリルにやってやるのを忘れてたんだけど、ちょうどいい。いまやることにしよう。シリル、なんの石がいい?」
「黒いオニキス。それか、アンバー色のクオーツ」

 まるでそう尋ねられるのが前もって分かっていたかのように、シリルの返答はスムーズだった。

「契約者思いの吸血鬼だね、お前は」

 そう言って、ロジェが笑う。シリルとロジェの間に視線を漂わせていたエレーヌが、ぼくを見てにっこりと笑った。

「妬けちゃうわ」
「え」
「分からないの、ムッシュ。ムッシュの色でしょう」

 黒に茶。確かに、ぼくの髪や瞳の色に近い。
 そう言われると途端に恥ずかしくなった。シリルの方はなんの気もなしに、関係のない色にするくらいならと思ってそう言ったのかもしれないが、人の所有物だと示すタグでそんなことをされてしまうと、まるで彼がぼくに所有されたがっているような、そんな錯覚に陥ってしまう。
 羞恥は首筋を上って、たちまちに頬を熱くさせる。思わず俯いたぼくのつむじに、ロジェとエレーヌのくつくつとした笑い声がぶつかった。

「とにかく、しばらくシリルを借りるよ。それまで誰かに酌をさせようか、先生」
「いや、いい。ぼくはその、よそで飲んでくる」

 シリルを待っている間に、彼以外の誰かから酒を注がれるなんて、あんまり考えたくなかった。ぼくは本当に器用でないのだ。
 同じマレ地区にある、時たま行くバーの名前を告げると、ロジェは片眉をひくりと上げた。

「ははぁ、あそこか。それじゃあ先生、後で適当に呼びに行ってあげるよ」
「頼むよ。……それじゃあシリル、くれぐれも、その、いい子に」

 なんと声をかけたらいいか分からなくて、しどろもどろになりながらそう言うと、シリルの両脇にいたロジェとエレーヌがぷっと吹き出した。
 子供扱いかと言いたいのだろう。勝手に笑えばいい。
 ぼくにとって、シリルは美しい恋人であり、手に余る子供でもある。あながち間違った物言いではないはずだ。
 エレーヌに引っ張られるようにして部屋の一つに引っ込んでいったシリルを見送って、ぼくはでたらめな場所にある通用口ではなく、ドアマンがいる出入り口から店を出た。そのまましばらく歩いて、三区に入った辺りで広めの路地に出る。
 セーヌ川に近い、雑多な区域にあるバー。そこは、ぼくが研究室に進んだ頃から時たま足を運んでいる店だ。
 中に入ると、休日だけあって狭い店内にはそこそこに客が集まっていたが、カウンターの端が空いていた。
 そこに腰かけて、アプサンを頼む。ほどなく出てきた薬くさい緑色をした酒を口に含むと、プライベート・ブラッドに入った頃から心にあった感情がつむじ風のように巻き上がって、ぼくは思わずはあ、と長い溜め息を漏らしていた。

「参ってるね」

 隣にいた男が、ぼくの様子を見て小さく笑った。
 笑い声に引き上げられるように、テーブルを見つめていた視線を上げる。さっぱりとしたブロンドの、ごくごく普通の好青年といった感じの男だった。ぼくより少し年下だろうか。
 鷲鼻の奥の目が優しげなのにつられて、ぼくはつい口を開いてしまっていた。

「その……恋人の、見知らぬ面を見て傷つくのは、身勝手だろうか」

 ぼくの情けないつぶやきに、男はひょいと眉を上げた。

「まぁ、そんなこともあるんじゃないかな」
「……たまに、自分の願望を押しつけすぎているんじゃないかと思う時があって……」
「分かるよ。そういう時だってある。まぁ、とにかく乾杯しようじゃないか」

 男は軽い調子でそう言うと、ほら、とグラスを寄せてきた。
 男の態度は、心地よかった。ほどよくぼくの話を聞いて、踏み込みすぎることもなく相槌を打ってくれる。
 男はエンジンの設計士らしい。仕事は大変らしいが、このご時世、エンジン式の機械は諸手を上げて歓迎される。

「やり甲斐のある仕事じゃないか」
「ありがとう。あんたは?」
「しがない教員だよ」
「どこの?」
「そこ」

 対岸――我が大学のある方向を顎でしゃくると、男は目を丸くした。

「パリ大学の? すごいじゃないか」
「地味な科目だよ。すごくないさ」

 見知らぬ相手と酒を酌み交わすのはいつぶりのことだろう。これっきりの相手かと思うと、余計な緊張が抜け、気が楽だった。

「願望と言えば――」

 何回か杯を変えているうちに、ぼくはすっかり酔っていた。だからだろう、グラスに注がれた白ワインを揺らしながら、つい口が滑ってしまった。

「その、夜のことでもそうなんだ。ぼくは、その、彼がもっとうぶであると思ってしまっていて……」

 言ってから、しまった、と思ったがもう遅い。
 だが、男はぼくが「彼」――男の恋人の話をしているのに気づいても、まるで気にしていないかのようなそぶりで、それで、と話を促した。もしかしたら、酔っていて本当に気づいていないのかもしれない。

「ずいぶんとそういうことに慣れている風で、少し……ショックを受けたと言うと言いすぎだが、驚いてしまって」
「見た感じ」

 男もぼくと同じように、白ワインを飲んでいた。酒くさくなった息が、ふっと近くに感じられる。
 きっとぼくの息も同じにおいがしているのだろう。そう思うと、彼がごつんと肩を寄せてきたことも、顔が先ほどよりも近いのも、あまり気にならなかった。

「あんたの方はうぶそうだ」
「……そんな」

 これでも、女性との交際経験だってあるとも。そう言いかけた時である。足の長い椅子にかけていた足に、がん、と鋭い衝撃が走った。

「いっ……」

 痛い。誰かにすねを蹴られたのだと気づいて、すぐさま横を見たが、隣の男も驚いた顔をしていた。
 その顔が、ぼくの背中の方へ向いている。慌てて振り返ると、そこには静かに突っ立ったシリルがいた。

「シ、シリル! いまの、まさかきみか?」
「違うよ」

 答えたのは、シリルではなかった。
 よくよく見てみると、シリルの脇腹辺りに、金色の丸い頭が見えた。椅子に近く、そして背が低いから気づかなかったが、ロジェがいたらしい。
 呼びに行くと軽く言っていたが、まさか少年の風貌をした彼が本当にバーまで来るとは、来られるとは思わなかった。もしかしたら、彼のことだ、マレ地区一帯の店くらい顔が利くのかもしれない。

「なにふらふら引っかかってんの、先生」
「引っかかるだなんて、そんな」

 彼がぼくを引っかけてなにになるのだ。
 そう思って隣を見ると、男は微妙な顔をしていた。苦笑いに近い。
 否定の表情でないのに、ぼくは少なからず戸惑っていた。なるほど、それでぼくが「彼」と言っても驚かなかったのか、とか、道理で顔が近い訳だ、とか腑に落ちる部分もあったが、それよりも単純に驚きが勝っていた。ぼくを口説こうとする男がいるとは。
 普段子供が入るはずのない店の中で、ロジェの姿は浮く。急いで会計を済ませて彼らとともに外に出ると、タイミングを待ちかねていたようにロジェが口を開いた。

「あの店、そういうやつらが集まるっていう話を聞いたことがあるんだけど、それでよく行ってたの、先生」

 なるほど、だからロジェは店名を聞いた時に微妙な顔をしたのか。
 しかし、ぼくはいままでそんなこと知らずに店に通っていた。確かに、ずいぶんと男性客が多いようには見えたが、元々バーというのはそういう店だ。

「初耳だよ」
「通っててそれもどうかと思うけどね」

 あの店のことよりなにより、彼らがぼくの話を聞いていなかったらしいことに安堵していた。
 吐き捨てるようにそう言ってから、ロジェはシリルの腕を肘で軽くつついた。

「それより、シリルをありがとう、先生。エレーヌたちも喜んでたよ」
「それならいいんだ。……シリル」

 結局、飲んで愚痴を言うだけで、悩みの解決には至らなかったことを思い出しながら、ぼくはシリルを呼び止めた。

「なに」

 ロジェとともに前を歩いていた彼が、ふと歩みを止め、ぼくの方へと振り返った。ふわふわの金の髪が一瞬だけ広がって、ラナンキュラスの花みたいだった。ラピスラズリ色の瞳は物憂げな雰囲気こそ漂わせていたが、ひたとぼくを見据えている。
 その手を、ぼくはそっと取った。ぼくよりも少し大きな手をしているくせに、手首はぞっとするほど細かった。
 軽く手を持ち上げるようにすると、手の動きに合わせて、左の手首につけていたブレスレットがしゃらりと音を立てる。
 「Cyrille」と刻印されたネームタグの端には、黒のオニキスが埋め込まれていた。

(ああ)

 もったいないことを、とぼくは少しだけ後悔する。
 他人が見ればただのアクセサリーであるこれは、この美しいいきものが、誰かの――ぼくのものであるという証なのだ。
 不可侵で、なにものでも誰のものでもない、そうであるべきはずのこの幽霊ルヴナンは、しかし悲しいかな、ぼくと契約した――契約してしまった、ぼくの血がうまくて仕方のないらしい、そういうどうしようもないいきものなのだ。
 支え持った手首を顔の近くまで引き寄せ、額を擦る。やはりぼくは酔っ払っているらしい、冷たい金属が肌に触れるのが心地よかった。ついでに、袖口のシャツのさりさりとした感触も。
 掴むように持っていた手首が動いて、ブレスレットのついた左手がぼくの髪を撫ぜた。一つに結ぶ際にまとめそびれた毛束を拾っては、耳の後ろにかける。

「帰ろう、ケイ」

 クラブに――懐かしい「家」に帰っても、彼はまったく揺らぐ様子もなかった。実におそろしいことだが、彼はたぶん、ぼくの血以外のことは本当にどうでもいいのだ。

「そうそう。そういうことは家でやりな」

 そう言って、ロジェはあからさまな溜め息を吐いた。
 ぼくとしてはつい、美しいものを崇拝する気分で手に額を擦りつけてしまったのだけれども、確かに傍目から見れば睦まじくしているようにも見えただろう。それに、細い路地に折れたとはいえ、ここは往来である。

「……すまなかった」
「へぇ、反省する頭は残ってるんだ? 酔っ払い」

 にやにやと笑いながら、ロジェは再び歩き出した。恐らく、店の近くまでは一緒に歩くつもりなのだろう。

「……すごいお酒のにおい」

 ぼくの頬や髪から手を離してぽつりとつぶやいたのち、シリルもすっとぼくから離れて歩みを再開した。
 その、歩き出す前のほんの一瞬、ぼくから手を離して半歩下がり、くるりと前方を向き直ったその時に、月光とガス灯の光を受けてぼんやりと彼の輪郭が浮かび上がった。ガス灯の人工的な明かりを受けて、ブレスレットのタグがまたきらりと光る。それが彼が彫像ではないことの証左の一つであるように思いながら、ぼくはその美しさに思わず目を細めたのであった。