オットー家の娘

「お嬢様」

 私の一日は、優しい声で始まる。

「ドロテアお嬢様、お目覚めのお時間ですよ」

 私付きのメイドであるイザベラの、優しくてやわらかな声だ。
 ふわふわのベッドの誘惑を振り切って、起き上がる。レースのカーテンからはやわらかい春の日差しが差し込んでいた。

「おはよう、イザベラ」
「さぁ、朝食の支度はもう出来ておりますよ。その前に、お嬢様のお支度をしてしまいましょうね」

 そう言って、イザベラはクローゼットを開いた。
 今日はどちらにしましょうか、と言うイザベラに、私はモスグリーンのドレスを指した。シンプルだが、色が春らしくて好きなものだった。
 その前に、とナイトドレス姿のまま、ドレッサーの前に座らせられる。
 イサベラが後ろに立って、私の髪を梳かす。私は猫毛だからそんな風にしなくても癖なんてついていないのに、私の髪に触れるイザベラは楽しそうだ。

「ああ、本日もなめらかで素敵な御髪おぐしです、ドロテアお嬢様」
「……ありがとう」
「さらさらのブロンドに、エメラルドみたいな美しい瞳……。こんなに、お人形さんのようにきれいなお嬢様にお仕えすることが出来て、イザベラは幸せです」
「もう」

 こうやって私を褒めちぎるのも、ほとんど毎日のことだ。
 身支度を整えて、ドレスを着せてもらう。そうしてようやく、私は朝食の場へ赴いた。

「おはようございます、お義母様」
「おはよう、ドロテア」

 広間では、既にいらしていたお義母様が、スープの皿にスプーンを浸しているところだった。

「ドロテアの分も持ってきてちょうだい」

 お義母様がメイドを呼び止めてそう言うのを見ながら、彼女の向かいに腰かける。
 Dorothea Ottoドロテア・オットー。それが、私のいまの名だ。
 いまの、と言うのは、以前は名字など持っていなかったからだ。
 私はこの家に養女として引き取られた。
 それまでは、とあるクラブの世話になっていた。ベルリンの、路地をいくつも曲がったところにある小さなクラブ。Privat Blut――クラブ、プライベート・ブラッド。
 物心ついた時から、私はそのクラブの住人であり、店員であった。
 住み込みという表現は、少し違う。年若い頃から風俗店に働かされていたのかと言われると、それもまた、少し違っていた。
 クラブではそういった――大人の方向けのサービスもしているようであったけれども、その仕事が私たちのような未成年に振られることはなかったし、クラブは私たちにとって家のようなものであった。
 とにかく、行くあてもなければ、行きたいあても思いつかない私を引き取ったのが、ゲルハルト・オットー教授――お義父様であった。
 それまでドロテアとだけ名乗っていた私には、立派な姓と、ドイツ某大の地質学教授の娘という充分すぎるほど安定した地位と、この郊外での穏やかで温かな暮らしが与えられたのだ。

「ドロテア、今日はお昼前に先生がいらっしゃるから、それまでには準備をなさいね」

 冷製スープを平らげてしまったお義母様が、口元をナプキンで拭ってからそう言った。

「ええ。お勉強と、ピアノのレッスンが終わったら、先生とお義母様とお茶がしたいです」
「そうしましょう」

 子供のいない家庭で、私はえらく歓迎された。お義母様は私を可愛い、と抱きしめ、専属のメイドをつけて下さったばかりか、家庭教師まで雇って下さった。お陰で、毎日退屈することなくすごせている。
 クラブにいた頃も読書が好きだったのだが、それを知るとお義母様もお義父様も喜んで本を買ってくれた。それに、お義父様の書斎へ顔を出せば、色とりどりの鉱石図鑑なども見せてくれる。この大きな屋敷は、私にとって上等の城であった。
 朝食を食べる。本当を言うとあまり食欲はないのだけれど、元から顔色があまりよくないからか、食事を残すとお義母様に心配されてしまう。機械的に食事を流し込むと、私は自分の部屋へと戻った。
 しばらくした後に馬車に乗っていらっしゃった先生を迎え入れ、勉強とピアノを教わる。まずは自室で英語を習った後に、部屋を移ってピアノのお稽古。習い始めの頃こそこの打楽器の扱い方がよく分からなかったけど、最近ではずいぶんと上手くなった……気がする。

「お嬢様、そろそろ新しい曲をやってみましょうか」

 そう言って、先生が微笑む。新しいスコアを覚えられる嬉しさに、私もぎこちないながらも小さな笑みを返していた。
 笑うのは、得意ではない。それでもこの家に来てから、少しずつだが笑うことを覚えたと、そう思う。それもこれも、この環境のお陰だ。
 ピアノのレッスンの後は、私が朝希望した通り、三人でお茶をする。みんなで穏やかなティータイムをすごしているうちに先生がお帰りになる時間になって、私はイザベラとともに庭まで先生をお見送りに出た。
 先生を乗せた馬車と入れ違いに、黒塗りのシックな馬車が入ってくる。お義父様を乗せたものだ。

「お帰りなさい、お義父様」
「戻ったよ」

 慌てて屋敷の中に戻り、お義父様を出迎える。
 ゲルハルト・オットー教授は、齢五十近くの地質学教授だ。
 ちょっと癖のついたブルネットと、きれいに整えられた口ひげ。くぼんだ眼窩に光るブラウンの瞳は彼を教授まで上り詰めた野心が含まれていて、いつ見ても不遜な雰囲気があったけれども、普段の物腰が丁寧なのはもちろん、私たち家族に対しては彼は常に優しかった。外ではどうだか知らないが、それだけで、私たちにとっては充分に出来た父である。
 後ろにいたメイドの一人がすっと彼の近くに行って、鞄をお預かりしますと手を差し出してから、義父宛に手紙が届いていること、手紙は書斎のデスクに置いてあることを告げた。

「ドロテア」

 お義父様は私をちらりと一瞥すると、メイドに鞄を持たせて空になった手で私を手招いた。

「見たい本があると言っていただろう? 見せてやろう」
「まぁ」

 声を上げたのは私の後ろにいたイザベラだ。私が本好きなのを知ってるから、きっと私の分まで喜んでくれているのだろう。
 私も嬉しかった。でも、それは本が読めるからではない。
 本を見せてやる――この言葉は建前で、違う意味合いを含んでいる。そこに隠された本質に、私は口の端をゆるく吊り上げたのだ。

「お帰りなさいませ」

 玄関がざわついているので帰宅に気づいたのだろう、お義母様が顔を出した。

「ドロテアに本を見せてくるよ」
「まぁ、あなた、お夕食ですよ」
「準備が済むまでには終わらせるさ、なぁドロテア」
「はい」

 ええ、終わります。私たちの「用件」にさほど時間はかからないわ、お義母様。
 心中でそう続けながら、私は彼女に向かって恭しく頭を下げた。
 お義父様が、すたすたと書斎へ向かっていく。その後を追うと、彼は先ほど受け取った鞄をさり気なくメイドから取り上げていた。鞄を置きに部屋まで入られると厄介だからだ。
 彼が開けたドアのノブを掴んで、手早く部屋に入る。後ろ手で素早く扉を閉じ、鍵をかけると、オットー教授はゆっくりと私に振り返った。

「本はまぁ、後で好きなものを持って行くがいい」
「はい」
「それよりも、だ、ドロテア」

 言いながら、お義父様は大きなオーク材のデスクに背を預けた。後ろ手で手紙を取りながら、なんてことないような口振りで続ける。

「腹が減っただろう」
「……はい」

 頷くと、余計にお腹が切なくなった気がした。
 赤くて、とろみがついていて、苦くて、しょっぱくて、けれどもどこかほの甘いもの――それを求めて、私の喉が小さく鳴る。
 ペーパーナイフで封蝋を剥がし、封筒を開けて中の便箋を取り出すと、お義父様は空いている手をひらりと私の前に差し出した。

「ほら」
「……」

 着たままのジャケットのボタンを外し、袖口を緩める。ジャケットの袖をめくり、白いシャツの布地が出てくると、再びこくりと喉が鳴った。
 シャツの袖口も上着と同じようにボタンを外すと、骨張った手首と腕が出てきた。
 我慢が出来なくて私は立ったまま、彼の腕に噛みついていた。
 赤く、とろみがついていて、苦く、しょっぱく、けれどもどこかほの甘い――血。私は――否、私だけではない、プライベート・ブラッドにいた者たちは、血を糧とする、いわゆる吸血鬼である。
 伝承では陽射しやキリスト教のシンボルを苦手としているけれども、実際のところはそんなことはない。晴れた昼間に庭でティータイムを過ごすことだって、日曜日に近くの教会でミサを受けに行くことだって出来る。
 だが、血だけはどうしてもだめなのだ。私たちは人間たちの食べ物では満足出来ず、その食べ物で作られた血で腹を満たすことしか出来ない。
 普段笑わないようにしているのも、異常に発達した犬歯が見えないようにするためだ。それでも最近は笑ってしまっているから、イザベラ辺りは私の歯がいやに尖っていることを疑問に思っているかもしれない。
 腕に噛みつくと、教授は一瞬顰め面を作ったものの、その後は平気な様子で手紙に目を通していた。
 デスクに置かれた封筒には、細い字でKay Lee Debrayと書いてある。
 ケイ・リー・ドゥブレ。どこかで聞いたことがあるような気がする、と思っていると、目の前の教授が笑いながら手紙をひらつかせた。

「ドロテア、覚えているか。フランスのロレーヌであった会合にいた、中国系の男を」

 お義父様の言葉で、私は薄ぼんやりとしていた記憶を思い返していた。
 そう言えば、そんな人もいた気がする。どこかおどおどした気の弱そうな男の人で、確かに中国系の顔立ちをしていた。
 お義父様が吸血鬼の話をした男性だ、と気づいて、納得がいった。その人からの手紙なのか。

「吸血鬼と契約したらしい。『ぼくにはもったいない、美しい青年です』だそうだ」

 実のところ、血を飲んでいる時に話しかけられるのはあまり好きではない。
 なにせ、口を離さないといけなくなる。口を離せば血が溢れて落ちてしまう。それは私にとって食糧をむだにすることと同義だ。

「……そう、ですか」

 だから私は、ほんの少しだけ腕から口を離し、短く返事をして、再び唇を腕に押しつけた。牙で傷つけられ、とろとろと流れ出るものを、舌の上で転がして、味わいながら飲み下す。

「驚かないな」

 仕方なく、腕の下方を強めに押さえながら、私は唇を離した。

「血の繋がりというのは、抗えないのです。それがたとえ、老いた相手であろうとも、幼い子であろうとも、同性だって」
「ふん」

 私の返答を、教授はあまりお気に召さなかったらしい。鼻を鳴らすと、再度手紙に目を落としていた。
 気に入ろうが気に入るまいが、真実だ。私があまり降りることのなかった大広間に出て、真っ先にあなたに気づいたのと同じことを、きっとその彼の吸血鬼も味わったのだ。
 皮肉な運命と言ってもいい。年齢も、性別も、相手の外見も性格も関係がない。ただ、空気に薄く漂う体臭のような血のにおいが、私たちを惹きつけて離さないのだ。
 本当はお夕食も紅茶もいらないの、お義母様。この血があれば、他にはなにも。
 クラブと契約を取り交わし引き取った吸血鬼を恋人にする人もいるけれど、お義父様は私のことをあくまで一人の娘として扱った。
 けれど、知っている。本当の、ただの娘は、こんな風に養い親の血を吸ったりはしない。
 私は本当は不出来な娘だ。だからこそ、表面だけでもいい娘であろうと取り繕っている。
 それは彼とて同じだ。普通の素敵なお父様は、娘に血を飲まれて、こんな風に不敵な笑みを浮かべたりはしないだろう。
 肉食の獣を思わせる、ぎらりと光った瞳。殺しきれぬ不吉な笑み。お世辞にも人のよさそうなものとは言えぬその表情を、しかし私は嫌いになれないでいる。

「ドロテア、そろそろメイドが呼びに来るぞ」
「分かってます。あと、少しだけ……」

 お義父様の手が、私の頭を撫でる。髪ごしに感じるその指の温かさも、いま啜っている血による温もりなのだ。
 そんなことを考えながら、穴のような傷口からじくじくと流れ出してくる血を味わうために、私は彼の腕に吸いつくのであった。