クロウタドリさん、ハグはいかが

 端的に言って、疲れていた。
 色々とあって、他教室の先生――環境学のスリマン先生に絞られたのだ。
 きっかけは覚えていないが、確かうちの教室の生徒がどうの、とかそういった重箱の隅をつつくようなところから始まって、そも青二才が指導するのが間違いでは、オーバン教授に任せておけばよいものを、などと言われた気がする。
 青二才。言うに事欠いて青二才である。
 確かにぼくはこの業界ではまだ若いが、よもやそんな表現を使われるとは思っていなかった。
 スリマン先生もそれなりに年配の先生だからぼくなんて子供のようなものなのだろうが、それにしたって直裁的な物言いであった。年のことはもちろんのこと、生徒に対する押しの弱さなど、言われていること自体はぼくにも少なからず自覚があることで、なにも言い返すことが出来ず、はい、はい、と頷くことしか出来ず、ぼくは疲労困憊の体で家路に就いた訳である。

「戻ったよ」

 言いながら、ドアを閉める。鞄を置いていこうかと思ったが、足は書斎を通り過ぎてずるずるとリビングルームへ向かっている。小さなダイニングテーブルにおざなりに鞄を置くと、ぼくはふらつく足取りでソファに腰かけるシリルの方へ向かっていった。

「遅かったね」

 そう言って、シリルが鉱石辞典を閉じた。そんなもの読んで楽しいだろうか、と思ったが、この間は聖書の詩篇を読んでいたし、時間が潰せればなんでもいいのかもしれない。ぼくとしても自分のろくでもない「蔵書」に手を出されたりするよりましだった。

「夕食は」
「とりあえず、いい……」

 溜め息を吐くと、シリルが僅かに首を傾けさせた。

「疲れてる?」
「まぁね」

 茶でも飲みたい気分だったが、湯を沸かすのも面倒くさい。まずは彼の隣に座りぼんやりしたい。
 そう思い、シリルの真正面に立たせていた体を横にずらしかけた時であった。首を傾けていたシリルが、やおら腕を広げ、こう言ったのだ。

Viensおいで
「……」

 なす術もなく、ぼくは倒れ込んだ。
 まさかそんなことをシリルが言うとは思わず、驚いて拒否が出来なかったのと、本当に疲れていたのが理由だ。床に膝を突いて、顔を腹の辺りにうずめるように抱きつくと、さり、と細い指がぼくの頭の上で動いた。

「……髪から、外のにおいがする」

 頭頂部に唇を押しつけられたかと思うと、シリルは髪に鼻先をつけたままそう囁いた。
 ぼくはと言うと、風呂もまだなんだから当たり前だろうとか、外のにおいを連れてきてすまないとか言いたいのもそこそこに、なめらかなシャツの腹に頬を押しつけながら、吸血鬼も温かいんだなぁと今更すぎる感慨を抱いていた。
 ぼくに比べ、手や肌は冷たいが、そのうちに流れているものは水ではなく、確かに血液なのだ。
 吸血鬼とは、いったいどういう生き物なのだろう。こうして一緒に暮らしてはいるものの、血を吸うこと以外は、本当にただの人間と同じに見える。だが、それが真実なのかも分からないまま、ぼくはこうして、黙ってシリルを抱きしめているのだ。――抱きしめていると言うより、抱きついているのだが。
 不意に、ぐい、と上方向に力を感じた。かと思うと、腹にうずめていたはずの顔が、気づけばシリルと同じ高さになっている。
 一瞬だが、肩を掴み引き上げられたのだと気づいて、ぼくは思わず口をあんぐりと開けてしまっていた。

「前から思ってたけど、ケイ、軽い」
「は……」

 前からってなんだ。どういうことだ。それだけ日頃の、その、そういった時にかけている体重が軽いと言うことなのか。
 シリルに引き上げられ、ソファの端に乗っていた膝が、ずり、と滑った。
 向かい合っていた姿勢が崩れて、シリルの手が腰に回る。そのあまりにも自然な仕草に、ぼくは二の句を告げられないでいた。
 なんだかさまにならない。普段の「役割」から考えて、抱きしめ、あやすのはぼくの方じゃないのか。

(でも、シリルの方が十センチ近く背が高いしなぁ)

 肩口に埋まったぼくの頭を、シリルの手がまたひと撫でする。

「どうして」
「ん?」
「帰ってきた時とか、鳥の鳴き真似するんだろう」
「うーん……」

 確かに、家に帰ってきた時や、家の中で所在を主張する時など、諸々の場面で我々国民はCou couクークーと鳥の鳴き真似をするのだが、なぜと言われるとよく分からなかった。親がそうしていたから、としか答えられない。
 母はなんと言っていただろうか。やはりクークー鳴いていた気がするが、中国語で相当する言葉を知らなかった。

「Mamanが……」
「え?」

 疲れているからか、なんだか唐突に眠気が襲ってきた。そのせいか、つらつらと考えていることが口に出る。突然出てきた「母」にシリルは淡々とした様子で語尾を上げたが、しかし、ぼくの目が半分閉じかかっている方が気にかかるらしい、頭に置いていた手を少し持ち上げて、コートが皺になるよとつぶやいた。

「分かってる……分かってるとも……」
「寝るの?」
「いや……寝な……いや……少しだけ……」

 少し冷たい手が、再びぼくの頭を、そして今度は背中までも撫でている。本当に親みたいだ。

「おやすみ、ケイ」

 そういうシリルの声が、本当に、微かだが笑っているように聞こえる。
 だがぼくは実際の表情を確認することも出来ないまま、ぬるま湯のような微睡みへ、ずるずると引きずられていくのであった。