花を食む

 大学で仕事を終え、帰宅する。たまたま通りがかっていた乗合馬車を捕まえ、家の近くで降りて運河沿いをゆっくりと歩いていると、白茶けた焦げ茶色の煉瓦の壁に、少し退色したピーコックブルーの屋根のアパルトマンが見えた。ぼくの部屋が入っているアパルトマンである。
 アパルトマンの入り口を入ると、すぐに集合ポストがある。習慣でそこを開けてみたものの、中にはなにも入っていなかった。朝取り忘れた新聞は、同居人のシリルが取ってくれたのだろうか。

「先生」

 夕食をどうしようかと考えながら、いつものようにポスト脇の階段を何段か上がった時である。聞き慣れた声が呼ぶ声に、ぼくは肩越しに階下を振り返った。

「マダム・ソフィー」

 階段の下には、妙齢の女性が立ってぼくに手招きをしていた。
 白くなった長いブランドの髪をまとめて編み込んだ、着ているワンピースこそシンプルなものだったが、品のある、落ち着いた女性である。
 彼女――ソフィー・バローは、このアパルトマンの大家だ。
 四十代の頃に旦那さんを亡くしたマダムは、それ以来夫の遺産であったこのアパルトマンに手を加え、一人で管理をしている。
 大変なのでは、とも思ったのだが、そう尋ねてみても「皆さんいい方ばかりなのでなぁんにも苦労なんてありませんよ」と仰っていつもにこにこしているので、なんとも深追いがしづらいのだが――。彼女がぼくを呼ぶなんて、なにかあったのだろうか?

「どうしました」

 そのまま慌てて階段を駆け下り、マダムの前に立つと、彼女はいつも通りの口元に笑いじわの出来る花のような笑顔で、これを、と言ってあるものを背後から差し出してきた。
 ばさり、と軽い音を立ててぼくの前に広がったのは、芳しい香気を伴ったバラの花束であった。
 数は十本もないが、どれも綺麗に花びらが開いていて、本数のわりにボリュームがある。

「お庭のバラがね、綺麗に咲いたの」

 アパルトマンの裏には、小さい庭がある。マダムはそこの花々の手入れを趣味にしており、バラを植えていることも知っていたのだが、こんなに見事に盛りを迎えているとは知らなかった。

「……これはこれは」

 マダムが切ったのであろう、バラは棘こそ取られていたものの、ラッピングなどはされておらず、剥き出しの状態で紐で束ねられていた。

「これをね、シリルくんに」

 そう言って、マダムは少女みたいに微笑んだ。

「……はぁ」

 なるほど、花なら他の夫婦などの住民に渡した方がいいのでは、と思ったが、ぼくではなくシリルあてならば納得がいく。
 同居することになりましたので、と紹介してから、マダム・ソフィーはシリルのことを子供のように気にかけてくれている。
 確かに、赤のバラは彼にさぞ映えるだろう。考えると、仲介を頼まれただけのぼくもなんだかそわそわとしてきた。

「ですがマダム、うちには飾れるような花瓶が……」

 部屋で飾るとなると、ワインの空き瓶くらいしか思いつかない。壁に飾ろうかとも思ったが、借家をむだに傷つけることは避けたい。
 思い浮かんだ疑問を口にすると、なんだそんなことと言って、マダムは一度階段脇にある彼女の部屋に引っ込んだ後に、小ぶりの花瓶を持って顔を出した。

「これでいいかしら?」
「……お借りします」

 にこにこと笑って渡されてしまえば、荷物が増えるだとか、空き瓶でいいですとは言えなかった。
 鞄を小脇に抱え直して、花束と花瓶を両手に持って階段を上がる。鞄を挟んでいるせいで腕を上げられず、上がりにくいことこの上なかったが、よたよたと二階層分階段を上がり、左側にあるドアの前まで行くと、ぼくは脇に挟んでいた鞄を地面に落とし、荷物を持ち震える指の関節でなんとかドアベルを押した。

「……ケイ」

 普段ならば自分で鍵を開けて部屋に入るのに、ドアベルを鳴らしたからだろう、シリルはいつもの無表情に近い顔つきを更に硬くさせてドアを開けたが、目の前にいるのがぼくだと知れると、ひょいとわずかに眉を上げさせた。

「すまない、両手が塞がっていて。そこの鞄、頼むよ」

 言いながら部屋に入る。花を一度テーブルに置き、キッチンで花瓶に水を汲んでいると、どさりと音を立ててリビングのじゅうたんの上に鞄を置いたシリルが、興味を引かれたのか、バラの花束に手を伸ばしていた。

「……気に入った?」

 バラの花束を持ったシリルは、ぼくの――否、マダムの見立て通りと言うべきか、美しかった。
 白っぽい金の髪と少しばかり血色の悪い白い肌が、真っ赤なバラと見事なコントラストを作り出している。
 シリルは赤が似合う。恐らく普段の彼の食事が――吸血行為が赤と言う色と密接に結びついているからこそそう思うのだろうが、瞳の深い青以外は薄い色合いの多いシリルの容姿に、濃い赤は素晴らしい彩りを与えていた。
 花に鼻先をつけたシリルは、すん、と間近で香りを嗅ぐと、花びらの間に鼻をうずめたまま、不明瞭に言葉を紡いだ。

「いいにおい」

 花びらのすぐ上で、花のように色づいた唇がもごもごと動いている。美しいが、だからこそ少し、奇妙な光景であった。まるで花を食べているようだ。

「……シリル」

 花瓶を持ってキッチンを出る。花束を受け取るためにぐい、と彼の手を引くと、それだけでシリルの懐からふわりとバラの香りが浮かび上がった。
 まだシリルの手のうちにある花束の先に、彼のように鼻先をうずめる。触れた花びらはかさかさとしていてくすぐったかったけれども、濃厚な香りが鼻腔を満たすので気にならなかった。

「花って、手折ってしまうと後は枯れていくだけだろう?」

 なんの話だ、とでも言いたげにシリルが首を傾げる。構わずにその手から花束を奪い、花瓶に一本ずつ花を挿しながら、ぼくはぼそぼそと言葉を続けた。

「……それが少し、苦手で」

 ぼくがなにを言いたいのかそれで察したらしい、ふぅん、と息を漏らすような相槌をして、シリルが花瓶からぼくへと視線を移した。
 唇をほのかに吊り上げて、薄く笑っている。美しいが、寒気がするような微笑であった。

「いいよ? 切っても、折っても、なにしても」
「……遠慮しておく」

 バスクの旅から帰ってきてから、シリルは少し意地が悪い。ぼくがぐらぐらと揺らぐさまがそんなに愉快だろうか。

「盛りをすぎて枯れていくのはいいが、ぼくが手折るにはもったいないよ」

 言いながら、最後の一本を花瓶に入れ、適当に形を整えると、納まる場所を見つけて、切られっぱなしだった花束がどこか嬉しそうに見えた。
 いずれこの花たちも枯れて、しおれていくのだろう。その姿にぼくはシリルを重ね、後ろ暗い喜びを感じてしまうに違いない。
 だが――それでもぼくは、この麗しい吸血鬼をその生の途中で枯らすことなんて出来ない。

「年を取ったきみも美しいだろうさ」

 吸血鬼も人間と同じように年を取るのならば、少しずつ老いていく彼を――死に向かっていく彼を隣で見ていたい。

(それもきっと、歪んだ望みなのだろうなぁ、シリル)

 隣にいる彼の手を引く。そうして下を向いた薄紅色の唇にそっと己のそれを重ねながら、ひっそりとぼくは彼の、そしてぼくの行く先に思いを馳せるのであった。