嘘と真実

 エドゥアール・オーバンはパリ大学に籍を置く地質学教授である。
 専門は層序学と言って、地層の成り立ちを追求している分野であるのだが、それを説明しても興味深げに耳を傾けてくれる人はそう多くない。
 地質学と言うのは、どうにも人の理解や共感を得がたい学問であるらしい。
 それは隣で歩く妻も同じらしい。話を聞いてくれはするが、深く尋ねてくるようなことは一度とてなかった。
 ――いや、地質学の話は今はいい。
 その愛する妻と久しぶりに外でディナーをした、帰りであった。
 三区と四区をまたがる、いわゆるマレ地区を歩いていた時である。道の角から見知った人影がひょこりと現れて、ついオーバンは眉を持ち上げていた。

「ドゥブレくんだ」
「あら、……まぁ、本当だわ」

 人物の名をつぶやくと、隣にいた妻が身を乗り出すようにして、楽しげに声を上げた。
 どうにも、妻はドゥブレ――オーバンの部下である教員、ケイ・リー・ドゥブレをお気に召しているらしい。アジア系らしい謎めいた一重の切れ長の瞳と、それに似合わず物腰が丁寧なところが素敵だと、ことあるごとにオーバンに語っている。
 確かに、ドゥブレは顔が整っている方であろう。オーバンに同性の美醜はよく分からなかったが、受け持ちの学生であるミネ・コティヤールも時たま本人がいないところで「ムッシュ・ドゥブレってちょっと怖い顔してますけど綺麗ですよね」などと言っている。彼女たちの言う通り、一重でやや吊り上がった瞳は取っつきにくい印象こそあったが、その容姿は端正であった。学生の時分から伸ばしている黒い髪を後ろで一つにまとめているのも、女性たちからしてみればミステリアスで物珍しく見えるらしい。
 休日の夜だからか、彼の隣には人がいた。どうやら、彼らも外食をしてきたらしい、よくよく見れば、ガス灯の明かりを受けたドゥブレの頬はわずかに紅潮しているように見えた。普段の顔色の悪さが嘘みたいであったが、酒を飲んだのだろう。

「あなた、声をかけられたら?」
「……いや」

 躊躇ったのは、彼が自分の知らない人と歩いていたからだ。
 その人物は、ドゥブレよりも背が十センチほど高く、すらりとした体つきをした、ひどく美しい青年であった。
 年の頃二十の半ば頃だろうか。ドゥブレよりも十歳ほど若いことになる。ふわふわと夜風に揺れる髪はアッシュブロンドなのだろう、街灯の下で白っぽく光っていて、伏せられた瞳は離れていて色こそ窺えなかったが、全体的に物憂げで儚い印象があった。
 同性の外見に疎いオーバンでも分かる、文句のつけようのない美青年だ。
 そう言えば、コティヤール嬢が言っていた気がする。ムッシュ・ドゥブレは近頃親類の青年を引き取った、と――。
 だが、オーバンの記憶が間違いでなければ、彼の父、アジアで財を成した商人であるヴィクトル・ドゥブレ氏も、そして彼の兄であるテオドール氏も、黒々とした髪をしていた気がする。
 彼の父は、在学中に病気で亡くなった。葬儀にも顔を出したが、はて、彼の親類にブロンドの人物なんていただろうか?
 長年生きてきた勘が、ドゥブレはコティヤール嬢に嘘を言ったのだろう、と告げていた。
 確かに、彼らは仲がいい様子であった。肩がぶつかってしまいそうな距離で並んで歩いて、ドゥブレはなにか青年に話しかけている。
 その様子がまた、楽しげであった。普段研究以外のことには決して目を輝かせないムッシュ・ドゥブレが、酔っているとは言え、ひどく楽しそうに、しきりに青年に語りかけていた。

「……ふふ、いいかいきみ、今のはぼくの母の国の言葉で……」

 聞こえてきた言葉にはっとして、隣を見る。どうやら妻はオーバンほど耳がよくないらしい、二人の会話には気づかぬ様子で、どうしましたと不思議そうにオーバンを見上げていた。
 ドゥブレの言葉は、甘やかであった。普段の彼を知っているからこそ違和感が強いそれは、オーバンの気のせいでなければ、睦言めいた冗談の類であった。
 それを聞いた青年が、伏せていた瞳を少し見開いてドゥブレを見た。どうにも、予想だにしていなかったことを言われたようである。
 その直後に見たものを、オーバンはしばらく忘れることが出来ないだろう。
 ドゥブレに比べればやわらかな印象の、しかしいやに現実味のない美しさを持った青年が、ふんわりとドゥブレに微笑んだのだ。
 見ているだけで分かる、ただ眺めているだけのオーバンの視線すら奪う、美しく、そして嬉しそうな微笑であった。
 ドゥブレがコティヤール嬢に嘘を言った理由なんて、分かりきっている。この美しい秘密の恋人の身分を明かしたくなかったのだろう。
 立ち止まるオーバンたち夫妻には一向に気づかぬ様子で、ドゥブレたちは交差点を通りすぎ、歩いていく。向かう先は十区の方であったから、恐らく家に帰るのであろう。

「……帰ろう」

 こちらも酒を飲んでいる状態でよかった。機嫌がいい妻は、立ち止まって呆けていたオーバンのことを問い詰めることもせず、はいと頷いて歩みを再開したオーバンのすぐ後ろをついてくる。
 彼女の手を引きながら、オーバンは考えていた。
 ムッシュ・ドゥブレは、過去に結婚していたことがある。
 院生だった頃に、知人の紹介で知り合ったのですが、と言って自分に紹介してきたことがあったが、見事な赤毛が印象的な、快活な女性であった。
 その女性とドゥブレは二年ほどしか続かなかったのだが、彼女を紹介してきた時の、いささか緊張した面持ちを思い出して、オーバンは今更ながらに理解していた。
 彼は我慢していたのだろう。自分の中に存在し続ける色々なものを堪え、目を背け、そうして女性と結婚したに違いない。
 そうだったのだろうと理解する――否、理解せざるを得ないくらいに、青年と歩くドゥブレは、オーバンの目に決定的に映った。
 彼の性的嗜好を見せつけられても、不思議と嫌悪感は湧かなかった。

『オーバン教授、書かれた論文を読ませて頂きました』

 そう言って、本を両手に抱えたまま息せき切ってオーバンの研究室まで訪問してきた若いドゥブレの姿を、つい昨日のことのように思い出せる。
 少年から抜け出したばかりの彼は、肩まで伸びた黒髪が印象的な、少しばかり陰気な青年であった。

『きみは?』
『二年のドゥブレと申します。ケイ・リー・ドゥブレです』

 本を片手で抱え直して、おずおずと手を出してくる。握手がしたいのだと気がついて手を握ってやると、若き日のドゥブレはぱっと目を輝かせた。
 ――そんな時から彼のことを知っていたのだ。彼が男を愛していたところで、態度を変えたりなどするものか。

「あなた、楽しそうね?」
「……今日はなんだか、素敵な夜ではないかね?」

 思わず笑みが浮かんでいたらしい、妻がやわらかな口調で問うてくるのに返しながら、オーバンは自覚した笑みをますます深くさせた。
 ああ、いい夜だ。きっとムッシュ・ドゥブレも、隣にいた青年も、そう思っているに違いない。