紅茶色の舌

「ケイ」

 静かな声がぼくを呼ぶ。顔を上げると、ソファに座るぼくを見下ろすように吸血鬼が立っていた。

「お茶」
「あ、ああ」

 本を読みふけるあまり、入れていた紅茶のことを忘れていた。慌てて立ち上がり、キッチンに置いていたポットからカップへ茶を注ぐ。忘れていたぼくが悪いのだが、出てきた水の色は濃く、渋そうだった。
 バスクから帰ってきたぼくを出迎えてくれたのは、穏やかなオーバン教授の微笑みと、研究室のムードメーカーである学生、ミネくんのはつらつとした笑顔と、ぼくの代わりに授業を受け持ってくれた教授からの多大な引き継ぎ資料だった。
 授業に関する引き継ぎはさほどないのだが、その間研究も休んでいた訳で、その引き継ぎやら宿題めいた問題やらがそれなりの量積まれていたのである。そんな訳で、本来ならば仕事を持ち帰るのはあまり好きではないのだが、研究室から少しばかりの本と資料を持ち帰って休日のリビングに広げていたのだが、夢中になりすぎていたらしい。

「……すまない、シリル。つまらないだろう?」

 ぼくが資料に没頭している間、シリルはそんなぼくを眺めたり、リビングをあてもなくうろうろしていたりしていた。普段ぼくのいない間にも同じようなことをしているのかもしれないが、見ているととても退屈そうに見える。

「別に」

 しかし、否、予想通りと言うべきか、いつものように興味のなさそうな相槌を返すと、シリルはキッチンに顔を出して、自分のカップを取るとすたすたとリビングに戻っていってしまった。
 行儀は悪いが、ずっと本にかかりきりだったせいで喉が渇いている。キッチンの脇に立ち、リビングのソファに座って紅茶を飲むシリルを見ながら、ぼくはソーサーからカップを持ち上げて口に運んだ。

「きみはよくても、ぼくがよくない。今日は難しいが、明日にでも埋め合わせを……、あ、っつ」

 どこかに出かけるか、ゆっくりするにしてももう少しきちんと彼と時間をすごせるようにしなくては、としゃべっていた時である。
 がちん、といい音が鳴って、ぼくは思わず空いた片手で口元を押さえた。
 熱い、と叫ぶ時に誤って舌先を噛んだのだ。

「痛、……」
「どうしたの」

 異変に気づいてくれたらしい、ソファに座ったままではあるものの、シリルが首を伸ばしてぼくの方を見ている。それに手を掲げることで返事としながら、ぼくはのろのろと彼の隣へ腰を下ろした。

「し、舌を噛んだ」

 言っている間にも、舌先が痺れるように痛む。説明しながら、広げていた資料を脇に寄せ、カップを置くと、ぼくはようやく口元を覆っていた手を外した。

「ああ、痛い……」

 不慮の痛みに耐えられる人間などいるはずもない。手足にするような怪我に比すれば舌先を噛んだことくらい大したことではないだろうが、それでも痛むものは痛む。
 痛い痛いと繰り返すぼくを見ていたシリルが、少し考え込むように視線を中空に彷徨わせた後、ケイ、とぼくの名を呼んだ。

「なん……」

 なんだい、と返すつもりだったのだが、声を出そうとした喉はぎくりと硬直してしまっていた。
 横から伸びるシリルの少し冷たい手が、ぼくの両頬をくるんでいた。
 そのままくい、と顔を持ち上げられる。

「……舌を」

 ここまでされればなにをするつもりか分かる。しかし、思わず目をつむってしまったぼくに、シリルは冷ややかに単語を重ねた。

(舌?)

「……ん」

 まさか、キスではなくて、傷の程度が見たいだけだったのか。
 途端に手を払いのけたいくらいに恥ずかしくなってきたが、彼の要求を無視する訳にもいかない。やむなく頬を包まれたままおずおずと舌先を突き出すと、伏せられた青の瞳が、珍しいものでも見るような目つきでもってぼくのそこをじっと見つめた。

(は、恥ずかしい……)

 ただの、なんの変哲もない舌である。それのなにが面白いのか、シリルはそこをじっと見つめていたかと思うと――おもむろに、顔を近づけてきた。

「っ?!」

 一度口を閉じ、なにをするつもりだ、と言おうと思ったのだが、遅かったらしい。出した舌先を啄むように吸ったかと思うと、シリルはそのまま深く口づけてきた。

「ん、んんっ……」

 思わず、鼻からくぐもった吐息が漏れる。しかしそんなことにはお構いなしの様子で、シリルはいやに執拗に舌を絡ませ、吸っていた。
 ぼくが噛んだ舌のなにがそんなに彼の気を引いたのだろうか。――噛む?

「っは、シリル、きみ……」
「……美味しい」

 長いキスの後、解放された口で大きく息を継ぎながら彼を呼ぶと、唾液に濡れた自らの唇をひと撫でして、シリルは夢見心地でそうつぶやいた。
 やはり、ぼくの考えは当たっていたらしい。
 ぼくが噛んだ舌から、血が滲んでいたのだろう。それを確かめてからキスをしてきたのだから、なんと言うか彼も現金である。

「でも、そんなに血、出てないね」

 ぼくの怪我を残念そうに言って、シリルは興味を失したように再びカップに手を伸ばしていた。

「……舌からそんなに血が出たらぼくは死ぬぞ」

 思わず言い返すと、シリルがちらり、とぼくを一瞥した。

「それは困る」

 ――それは、言葉の通りに受け取っていいのか、それともただ単純に、自分の糧がなくなるから困ると言うことなのか。
 淡々と返したシリルは、もう先ほどのキスなんてなかったように振る舞っている。しかし血を舐めるためだったとは言え、急に濃厚なキスを仕掛けられたぼくはいやに悶々としてしまって、目の前の資料の山がいやにうらめしく見えるのであった。