月色の毛先

 行為の後、ぼくの荒い息に揺らされて、目の前でふわふわと髪が踊っている。その毛先をひと摘みして、ぼくは胸にくったりと背を預けてくるシリルへと声をかけた。

「シリルきみ、髪が伸びたんじゃないか」
「ん……?」

 ぼくの胸から肩にかけて体をもたれかからせていたシリルが、そうかしらと言いたげに首を仰のかせた。
 彼の方が背丈があるので、そうされると毛先に鼻先が埋まる。もふ、と鼻先と口を邪魔する石鹸の香りのする髪を指先でどかしながら、ぼくは彼自身から距離を空けるために背を押した。

「伸びたよ。自分で気づかないのか?」
「あまり」

 背筋をまっすぐにさせたシリルが、ゆっくりとぼくに振り返る。つい先ほどまで汗を混じらせながら交わっていたので当たり前だが、素肌の胸がまぶしかった。

「気にしてなかった」

 呆れてしまったが、なんともシリルらしい返しであった。目を見張るほどの自らの容姿にすら、この吸血鬼はさして興味がないらしい。

「あまり伸びっぱなしも格好がつかないだろう。……少し、そのまま待っていなさい」

 言い置いて、脱ぎ散らかした服を適当に拾い着直して素足のまま洗面台に向かう。洗面台に備えつけられている棚からハサミとブラシを取って戻ると、ベッドにうつ伏せに寝転がって足をぶらぶらとさせていたシリルの背中に向かって言葉をかけた。

「髪を濡らしておいで」
「え?」

 どうして、とでも言いたげにシリルが後ろを振り向く。と、ぼくが道具を持っているのに気づいたらしく、ああ、と納得したように声を上げた。

「切れるの?」
「これでも、自分の髪は自分でやってるんだ。ほら、濡らしてきなさい」
「うん」

 短く返事をして、シリルが起き上がる。裸足をじゅうたんの上に降ろしたかと思うと、彼はそのまま――裸のまま、すたすたと洗面台の方へと消えていった。

「……」

 家には彼とぼくしかいないからって、それにしたって無防備と言うか、無頓着すぎやしないだろうか。

(まあ、いいんだけど)

 しばらくすると、シリルが戻ってきた。どうやら頭から水をかぶったらしい、髪からぽたぽたと落ちる滴を、洗面台に置いていた布に吸わせながら歩いてきた彼に手招きをして、ベッドのふちに座らせる。

「ここでいいの?」
「別に、どこでもいいさ。シーツは元々洗うつもりだったし」

 言いながら、ベッドの真ん中にあぐらをかくと、ぼくはシリルの濡れて首に張りついた髪をひと房手に取った。
 櫛を当てて、少しずつ、梳くように髪を切っていく。
 休日の夜更けに吸血鬼の髪を切るなんて、なんだか不思議な気持ちだった。
 吸血鬼の髪を切る、という言葉のおかしさそのものよりも、ぼくとしてはこの彼も髪が伸びたりするものなのだなあ。という気持ちの方が強い。
 当たり前の話なのだが、彼も生きているのだ。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになるのだ。
 人形みたいな吸血鬼と生活をしているが、彼は決して人形ではないのだ。
 シリルも人間だよ、と言ったロジェの言葉を思い出しながら、うなじの辺りでうねって跳ねる髪を取り、ハサミを当てた、その時であった。

「……あ」

 小さく肩を竦ませて、シリルがか細い声を上げた。
 ただ母音が吐息に乗っただけのその声は、しかし行為のさなかに彼が上げるかすかな声にも似ていて、あてがっていたハサミを離しながら、ぼくは思わず肩越しに彼の顔を覗き込んでしまっていた。

「ど、どうした、シリル」
「ん……刃が……」
「えっ」

 まさか、気づかないうちに薄皮を削いでしまっていたのだろうか。
 慌ててハサミと彼の顔を見比べていると、シリルはふ、と吐息を吐いて静かに首を横に振った。

「少し、びっくりした」
「そ、そうか」

 確かに、冷たいものが首筋に当たるとぞくぞくする。それにシリルも驚いたのだろう。
 ごめんね、と小さく謝罪の言葉を口にして、シリルがまた前を向き直る。それを合図に、ぼくも再びハサミを構え直した。
 狭い寝室で、二人分の呼吸の合間に、ハサミを動かすしゃりしゃりとした音が響く。
 ぼくがハサミを動かす度に、小さくカールした髪が、ぱさぱさとシーツに散っていく。それを見ながら、ぼくは気づけばぽつりと小さくつぶやいていた。

「月みたいだ」
「え?」

 今度は、シリルの方が肩越しにぼくを振り返る。散っていた髪をひと束拾い上げ、ランプの明かりに透かしながら、ぼくはいやね、と口を開いた。

「きみの髪、金色に近いアッシュブロンドだろう? こうやって切ってて思ったんだが、濡れていると色が濃くなって、月みたいな色をしているなって」

 切られた短い毛束は、ふわふわとした髪質のせいかくるんと曲がっていて、それがまたちょうど三日月みたいに見えるのだ。

「……詩人だね、ケイ」
「そうかな」

 シリルの美貌を初めて目にした時にぼくがどれだけ驚きおののいたか、彼自身は知らないからそんなことが言えるのだ。

「きみを見れば、誰だって詩人になるさ」
「変なの」
「変なものか」

 言い返しながら、ハサミを動かす。

「……ふ」

 しゃきん、と刃を動かした直後に、またシリルの短い声を聞いた気がした。
 しかし、今度は先ほどのような、色も情も抜け落ちたものではない。ただの吐息にしては感情の乗ったようなそれは、ぼくにとってはよく知られた、しかし彼にとっては有り得ないようなものだった。
 ふ、と、小さく笑ったような、気がする。

「シリル、きみいま、笑わなかったか」
「ん?」

 シリルの首が動いて、ぼくを見る。なにを考えているか掴みづらい、いつもの無表情だった。

「……いや、なんでもない」

 聞き間違いだろうか。ぼくにとって都合がよすぎるし、そうかもしれない。

(シリルが笑うなんて、ね)

 声を伴わぬ美しい微笑なら見たことがあったが、彼が声を立てて笑うのは、見たことがなかった。
 気のせいかもしれない。だが、もし気づかぬうちに、自覚のないうちに笑っていたのだとしたら――それはなんとも彼らしくなくて、可愛らしいではないか。

「ケイ、どうして笑ってるの」

 ふふ、と笑い声を上げたぼくに、シリルがぽつりと言う。普段からそうなのでもう慣れたけれども、言葉こそ不思議そうだが口調は平坦で、あまり疑問に思っていなさそうな声だった。

「なんでもないさ」

 きみが笑ったかもしれないと思ったら楽しくなった、と言ったら、この吸血鬼はどんな顔をするだろうか。
 そう考えたら面白くなってしまって、また笑い声が零れる。
 しばらくへらへらと笑いながらハサミを動かすぼくと、そんなぼくになにも言わずに髪を切られているシリルを、出窓に上る細い三日月が静かに見下ろしていた。