愛の涯てにて

 自分の人生は、超常現象、オカルト、そういったものとは無縁だと思ってきた。
 否、彼――シリルと出会ったいまでも、そう思っている。
 人間のぼくと吸血鬼の彼との出会いは、ある種超常的で、オカルトであると言えるだろう。
 しかし。
 しかし、ぼくと彼にとって、ぼくたちの日々は、ホラーでもオカルトでもなんでもなくて、ただのちっぽけな、ありふれたロマンスであった。

「               」

 シリルがそう言った時のことを、ぼくは一生忘れないだろう。
 美しい景色の中で、美しい吸血鬼が、ぼくに死刑宣告にも似た言葉を吐いてみせたあの時、ぼくは確かに感じたのだ。
 自らの中に芽生えていた――愛、というものを。

 ◆

Monsieur Debreyムッシュ・ドゥブレ

 静かにぼくを呼び止めた声に振り向くと、背後にはよく見知った老紳士が立っていた。
 ぼくより少し背の低く、恰幅のいい、上品な紳士。白髪が交じってグレーになった髪と綺麗に整えられた口ひげが特徴的だ。
 我がパリ大学の権威、地質学の教授でありぼくの上司でもある、層序学教室の主、エドゥアール・オーバン氏だ。
 短い夏休みがすぎて、秋学期に入ったばかりの窓には、明るい陽射しが差している。その明るさに目を細めていると、オーバン教授がゆっくりとぼくの方へと歩み寄ってきた。

「どうしました」
「きみに話があってね。立ち話もなんだ、研究室に向いながら話しても?」
「ええ、もちろん」

 ちょうど受け持っている午後の授業が終わり、地質・層序学教室へと戻ろうとしていたところである。頷き、教授が歩き始めるのを確認してから歩を進めると、彼は灰色になった口ひげを撫でながら、秋だね、とつぶやいた。

「……ええ、そうですね」

 まだ秋の入りであったが、そうこうしているうちに木々は紅葉し、冬へと向かっていくだろう。再び顎を上下させると、そんなぼくを横目で見ていたオーバン教授が、うん、となにかを確信するように相槌を打った。

「ドゥブレくん。前々から思っていたのだがね」
「はい」

 研究室へと向かう道すがら、差し込む陽射しを受けて、ぼくと先生の影がくっきりと床に投射されていた。ぼくが歩く度に、影の肩口で束ねた毛先が揺れる。
 ぼく、ケイ・リー・ドゥブレは、中国人の母とフランス人の父を持つハーフである。
 人見知りで研究以外に取り柄のないぼくであったが、そんな気弱なぼくの第一印象が「取っつきにくい」だの「なにを考えているか分からない」だのと評されるのは、ひとえにこの外見ゆえだ。どうやら、母譲りの吊り目がちの目と、フランス人には馴染みのないアジア系の顔立ちが、人にそういった感情を抱かせるらしい。
 しかし、思えばオーバン先生は、学生の時からずっと、そんなぼくにも分け隔てなく接して下さっていた。だからだろうか、オーバン先生には父のような親しみと尊敬を感じてしまう。疎遠であった父よりもよほど強く、だ。
 廊下を歩きながら、オーバン先生は窓の外へ視線をやって眩しそうに目を細める。そしてその視線をそのままぼくの方へ移すと、先生は再び口ひげを撫でながら、ドゥブレくん、とぼくを呼んだ。

「はい」
「きみはね、いささか働きすぎなのでは、と思うのだが」
「……は?」

 さてなんの話だろうか、ぼくか彼の受け持ちの授業の話か、はたまた研究室にいる学生の話か、と思っていたぼくの頭に、彼の口から出た言葉はあまりにも予想外に突き刺さる。
 目を剥いてオーバン先生を見ると、穏やかな顔に少しばかりの苦さを籠めて、ちょっと困った風にぼくを見ていた。彼がお説教をする際によくする表情である。

「夏学期の間も大学に出ずっぱりだっただろう、ドゥブレくん」
「……はぁ、まぁ、そうですが」

 確かに教授の言う通り、学生が休暇を取っている間もぼくはちょくちょく大学に顔を出していたが、さして働きすぎである自覚はなかった。そもそも、ぼくは勉強が好きで仕方ないので大学に残っているのだ。学生に教える授業も、その合間の研究もまったく苦ではない。
 しかし、表情を見る限り、彼はそうは思っていないようだった。眉根を寄せ、珍しく厳しい顔をしながら、オーバン先生が言う。

「きみは学生時代から勉強好きであったがね。少しくらいは休みなさい」
「……そう言われましても、もう秋学期が始まっていますから」
「なぁに、それくらい」

 なんてことのないように先生が続けた言葉に、ぼくは思わず絶句した。

「しばらくの間、きみの授業は私が受け持つから」
「……そんな」

 そうは言っても、元々教授が受け持っている授業だってある。それにぼくのを足したら、そうそう研究室には帰ってこれないだろう。
 しかし、オーバン先生の意志は固いらしい。

「たまには休暇も必要だよ、ドゥブレくん。ん?」

 口調こそ穏やかなものであったが、オーバン先生の口ぶりには有無を言わせぬものがあった。

「……はぁ」

 こんな風に言われては、ぼくとしては頷くほかに選択肢がない。
 曖昧に相槌を打つと、それでもオーバン先生は満足そうに微笑んだ。

「よろしい」
「しかしですね先生、急に休めと言われましても」

 いくら上司かつ恩師と言えども、言われっぱなしのまま好意を受け取る訳にはいかない。食い下がるぼくに、先生は片眉を上げながら、なにか反論があるなら仰ってみなさい、とまるでディベートの時のようなことを言った。

「……お恥ずかしい話ですが、ぼくには休暇のすごし方がよく分からなくてですね」

 白状すると、なんだそんなこと、とでも言いたげな顔でオーバン先生が笑った。

「旅行にでも行きなさい」
「旅行……ですか」

 言われてみれば確かに、せっかく休暇を頂くのならば、普段は出来ないようなことをするべきだろう。しかし、急に旅行と言われても、ぼくには皆目見当もつかなかった。
 口元に手をやり、考える。
 旅行に行くのならば、無論、同居人であるシリルと行くことになるだろう。なにせ、彼は文字通り、ぼくなしでは生きられないのだから。
 シリル。ぼくの同居人。麗しきぼくの幽霊。
 シリルのことを思った時、ふわりと頭に浮かんでくるものがあった。
 ――春先に、彼とした約束があった。

『いつかきみとバスクへ行きたいな』

 レストランで食事をした際、バスク料理を食べながらそんなことを言った記憶があった。
 いつの間にか考え込んでしまっていたらしい、隣で静かに笑う気配に驚いて顔を横へ向けると、穏やかな面持ちでオーバン先生が頷いた。

「行き先は決まったようだね」
「……ええ」

 頷くと、オーバン先生はにっこりと微笑んだ。
 もう研究室はすぐそこだ。流石に先生に先行させる訳にはいかず、早足でドアを掴んで開くと、先生は小脇に抱えた教材を抱え直しながらありがとう、と言った。

「それで、なんと言ったか。シリルくんと行くのかね」

 シリルの名がオーバン先生から出て、思わずぼくはぎょっとした。
 研究室の学生――ミネ・コティヤール嬢がたまたまシリルと面識があって、それからミネくん、そしてミネくんの話を聞いた教授の中では、ぼくはシリルと同居していることになっている。
 否、その認識は誤りではない。彼は紛うことなくぼくの同居人だ。――ただ、その生活ぶりが他人のそれと異なるのだが。

「ええ、彼を一人にする訳にもいかないので」

 言うと、オーバン先生が自らの席に腰かけながら、ちらり、と研究室のドアを一瞥した。授業が終わったばかりだからか、まだどの学生もその扉を開ける気配はない。

「……ドゥブレくん」

 斜め隣の机に座ったぼくに、オーバン先生はささやくように話しかけてきた。

「はい?」
「妻と食事に行った帰りだったかな。一度、きみが美しい青年とマレの辺りを歩いているのを見たことがあってね」

 予想だにしていなかった言葉に、ぼくは思わず二の句が継げずにいた。
 まさか見られていたとは。いや、見られて困るようなことは外ではしでかしていなかったと思うが、それでもシリルと並んでいたところを見られるのは気まずいものがある。

「金髪の、背の高い……彼が、シリルくんかな?」
「……そう、です」

 オーバン先生の小さな声は優しく、糾弾するような響きは一切なかった。それにつられて、ぼくは首を上下させる。

「なるほど。美しい恋人だね」
「こっ……」

 飲み物を用意しようかと思っていたのだが、していなくて正解だ。紅茶を飲んでいたらぼくは咽せるか噴き出すかしていただろう。

「恋人だなんてご冗談を。彼は男ですよ」

 思わず早口になってしまって、ぼくは頭を抱えたくなった。こんな風に返しては、はいそうですと言っているようなものじゃないか。
 しかし、ぼくの言葉にも、オーバン先生は全く意に介すような素振りはなかった。と言うより、ぼくがそんな風に言うのはお見通しだったのだろう。

「……酔っていたのだろうね、きみは異国の響きで……中国語だったのかな、彼になにか言っていて……」
「待って下さい、覚えていません」

 オーバン先生のおっとりとした回想に、ぼくはつい口を挟んでしまっていた。本当に覚えていないのだ。
 それに、中国語? 確かに母は中国人だが、ぼくはかの地には行ったことがない。それに、母も簡単な言葉以外は、ほとんどフランス語を話していて――。
 そこまで考えて、ぼくは今度こそ頭を抱えて俯いた。上司の前ですべき行動ではなかったが、なんとなく言った言葉に見当がついたからだ。
 幼い頃、母が使った中国語なんて限られている。いい子だの、可愛いだの、愛してるだの、ぼくたち子供を肯定し愛でるような単語ばかりだ。

(……それをシリルに言っていた? ……ぼくが?)

「酔っていたようだからねぇ。でも、彼、意味は分からなくとも、私から見た限り、彼は笑ったように見えたよ」

(あのシリルが? 笑う?)

 シリルは普段ほとんど笑わないのだ。それに、ぼくがやっている地質学にまつわるフランス語を教えてやったことは何度かあったが、中国語を教えたことは一度もない。
 なにを言ったかはすっかり忘れていたが、意味の分からない言葉を聞いて、シリルが笑うなんて、それこそ考えられないことだった。

「……と、言うか」

 ようやく頭から手を離し、顔を上げながら、ぼくは地を這うような口調で続けた。

「――軽蔑なさらないのですか、教授」
「軽蔑? きみの人生を?」

 するものか、と言って、オーバン先生は目を細めてぼくを見た。

「きみのことは学生時代からようく知っているが、少なくとも私が軽蔑するような人物ではないことくらい、私が一番分かっているとも」
「……先生」

 先生の言葉は、湧き出る泉水のごとくぼくの胸に染み渡る。
 だが、嬉しく思う反面、後ろめたさがあった。
 ――先生は恋人だと言ったが、果たしてシリルは恋人と言えるのだろうか。
 恋人とは、片時も忘れず、離れず、その存在全てを許したくなるような、そんな存在なのではないだろうか。
 だが、ぼくはどうだろう。彼のことをそんな風に思えているだろうか。
 黙り込んだぼくをどう受け取ったのか、先生は口ひげを撫でるだけで、それ以上なにも言うことはなかった。
 大きな窓から差し込む秋の夕日がいやに目に痛い。俯き、考えながら、ぼくは胸に重いものを感じていた。

 ◆

「バスクに行かないか」

 職場である大学から帰ってきたぼくは、簡単な食事を済ませ紅茶を淹れると、ソファに座りながら、隣のシリルにそう切り出した。

「バスクに?」

 ぼくの言葉を受けたシリルが、ほんのわずか語尾を上げて、ぼくが口にしたその地名をつぶやく。

「ああ。思えば、最近休暇らしい休暇も取っていなかったからね。たまにはいいかなと思ってさ」

 結局、教授の提案に折れる形で、来週から休暇を頂くことになったのである。

「別に、いいけど」

 なににおいても興味がなさそうに、だが諾々とぼくに従う吸血鬼は、やはりぼくの予想通りの返事をして、いつもの無表情で淹れたばかりの紅茶を飲んだ。
 吸血鬼――そう、ぼくの同居人は吸血鬼だ。
 シリルと言う名のこの青年は、ぼくが「プライベート・ブラッド」という会員制クラブから引き取ってきた吸血鬼である。
 おとぎ話に出てくるそれとは異なり銀も十字架も水も恐れぬ、見た目はただの人間のこの生き物は、しかし語り継がれてきた化け物と同じく血を嗜む。ぼくの、血を。
 「プライベート・ブラッド」は、そんな吸血鬼と出会うことが出来るクラブである。
 それなりの会費を払ってクラブの入店資格を得ていたぼくだが、今年の春先に、とあることがきっかけでシリルを引き取ることとなったのだ。
 クラブにいる吸血鬼たちは、相性のいい人間からしか生き血を啜ることが出来ないらしい。
 吸血鬼たちからは自分と相性のいい人間はひと目で分かるらしく、そうして見つけた人間と吸血鬼は契約を交わし、クラブから引き取ってともに生活をするのだ。
 シリルとぼくも、そんな間柄である。
 陽射しに透かすと白っぽく見えるふわふわとしたアッシュブロンドの髪はうなじまで伸び、海のように深い青をした瞳は常に眠たそうに伏せられているが、長い睫毛の間からはきらきらと輝石を砕いたような光を覗き見ることが出来る。
 つまり、一言で言えば、シリルは美しい生き物だ。――ぼくにはもったいないくらいに。

「……よかった」

 シリルの快諾を受けて、ぼくは安堵した。きっと「いいよ」と言うだろうと思っていたものの、それでも少しは不安だったのだ。
 彼は返事をしたきり、話題に興味を失ったように紅茶の入ったカップを口に運んでいた。
 シリルはなぜバスクなのか、とも言わなかった。もしかしたら――ぼくの自惚れかもしれないが、春、彼と出会ってすぐの頃にした約束を覚えていたのかもしれない。

『いつかきみとバスクに行きたいな。間近で見るピレネーは、壮大で美しいよ。きっときみも気に入る』

 レストランでそう言った時に、シリルは穏やかに微笑んでくれた。ほとんど無表情に近い、どこか夢見ているようなうつろな表情ばかりしている彼がそうやって笑うのは珍しいことで、しばらく見とれてしまったのを覚えている。
 笑う。笑う――か。
 ふと、夕刻のオーバン教授との会話を思い出した。本当に彼は、ぼくの益体のない言葉に笑ったりしたのだろうか。

「早速だが、週明けから発とうと思う。バスクまでは列車と馬車を乗り継ぐから、結構かかるかもしれないが……」
「別に、気にしない」

 カップから唇を離して、シリルがふと、ぼくの方を見た。
 常になにを考えているか分からない彼だが、伏し目がちの青の瞳で思わしげにぼくを見ている時だけは、その考えを汲むことが出来た。
 こうやってぼくを見ている時は、彼が「食べたい」時だ。

「……少し、待ってくれ」

 言い置いてから、カップをあおって中身を空にする。喉を潤してから、ぼくはこくりと唾を飲み込み、自らの首元を覆うタイに手を伸ばした。
 滑らかな触り心地のそれを、一息に引き抜く。次いで首元のボタンをいくつか外していると、細い腕が伸びてきて、しゅるりとぼくの首の後ろに巻きついた。

「ケイ」

 しなだれかかるように顔を寄せながら、シリルがぼくの名を呼んだ。
 淡々としたその声を聞きながら、ぼくはそっと目を閉じる。もう何度目か分からない、決めごとのような行為であったが、未だにその瞬間には慣れることが出来なかった。

「――食べるね」

 シリルが話す吐息が首筋にかかる。
 まずひんやりと感じた少し硬い皮膚の感触は、彼の鼻先だろう。ぼくを「食べる」時、決まって彼はにおいを嗅ぐようにぼくの体に鼻先を埋めるくせがある。
 次いで感じたのは、皮膚よりももっと硬いものの感触であった。
 先が細くなった、つるりとした硬いもの――普段口を開けて笑うことがないせいで目立たないが、人の犬歯よりも鋭く発達した、彼の牙である。
 先が触れたかと思うと、牙は一切の仮借なくぼくの首筋にめり込んだ。
 ぶちぶちと肉を裂かれる痛みと、すぐさま湧いてくる血の熱さに、ぼくは閉じた瞼にきつく力を込める。
 膝に置いていた手を、掬い上げられる感覚がした。
 いつの間にか堅く握りしめていたらしい手をこじ開けるように、シリルの手が滑り込む。ぎゅっと指を組むように握られると、ひんやりとしたシリルの肌の心地に、少しだが痛みが和らぐような気がした。

「う、く……」
「ん……」

 口から漏れ出る苦悶の声も気にかける素振りもなく、鼻から吐息を零しながら、シリルはぼくの首に唇を押し当て続ける。
 いつも思うが、そんなに美味いのだろうか。
 こうしている時だけは、いつも幽霊ルヴナンのような彼の生気が色濃くなって、形こそ普通の人間と違えど、彼も食事をしないと生きていけない生き物なのだと実感する。
 牙によって穿たれた傷口から湧き出る血はもちろんのこと、そしてそこから首筋に伝っていく血すら惜しむように彼の唇と舌は動き、ぼくの血を舐め取り、啜る。
 その感覚に、背筋がぞわぞわとした。
 吸血鬼の彼だって真っ当ではないが、そんな彼を拾い上げ、ともに生活をし、血をくれてやっているぼくだって、きっと真っ当ではないのだ。
 その証に、ぼくはこの吸血行為に興奮していた。
 幽鬼のような彼が、学問以外取り柄のないようなこのぼくの血を貪っていると言う事実に、そして耐えがたいほどの痛みに興奮してしまうのだ。

「ケイ……」

 一応は満足したのか、首筋から唇を離したシリルが、再びぼくの名を呼んだ。
 唇こそ離れたものの、顔はまだぼくの肩口に埋まっている。そのせいで、彼が音を発する度に吐息が熱い傷口に触れて、じくじくと痛んだ。

「……腹は満ちたか?」

 ぼくの問いかけに、うん、と頷きを返しながらも、シリルは名残惜しそうに、伝う血を掬おうと首に舌先を触れさせる。

「……美味しい」

 平坦な声だったが、そう言われるだけで嬉しかった。この美しい、落ち着き払った吸血鬼が、流れる一滴とて惜しく思うほど、ぼくの血を美味いと思っているのだ。

「シリル……」

 痛みに負けて、ずるずると背が倒れる。固い肘置きに後頭部を押しつけると、向かい合っていたシリルの体もぼくの動きに倣うようにもたれかかってきた。
 そのうなじを掴んで、引き寄せる。
 重ねた唇はどこか塩辛く濡れていた。ぼくの血が唇についたままなのだ。

「……ケイ」

 彼の胸元を飾っていたリボンタイを引き、シャツの裾を引っ張り出し、ぼくよりも体温の低い、すべらかな皮膚をまさぐる。

「止血、しないと」

 言葉の意こそ諫めるものであったが、やはり口調は一本調子で、どこか空虚に響く。それがまた、ぼくを増長させた。

「シリル、……シリル……」

 胸に横たわり続ける重いものを覆い隠すように、ぼくはシリルの名を呼ぶ。
 彼を愛している。それは嘘ではない。だが、それと同じくらい、ぼくは彼のことを憎らしく感じていた。
 彼が――彼さえいなければ、ぼくの生活はもっと平坦で、つまらなく、だが波風のない穏やかな日々であっただろう。
 彼と出会ってから、ぼくの生活は一変した。たとえそれが表面に出ていなかったとしても、彼の存在はぼくの心を千々に乱し、ぼくの中の常識やモラルをばらばらに砕いた。

(ぼくは――ぼくはどうしたらいい、シリル)

 シャツの肩口が流れた血で濡れるのも構わず、ぼくは正道から外れた欲を追いかけ、没頭する。
 ぼくのシャツに手をかけ、胸を開いたシリルが、濡れる肩口に舌を伸ばし、こそぐように血を舐めていく。
 ぼくたちの吐息が熱く、湿り気を帯びるのに、そう時間はかからなかった。

 ◆

「旅行に行こうと思って」

 休暇が――そして旅行の出発が明日と迫ったある日、ぼくはアパルトマンから少し歩いた、サン・マルタン運河沿いのカフェにいた。
 ぼくの言葉に、向かいに座っていた少年がひくりと眉をうごめかす。

「旅行? ふぅん、いいんじゃない」

 止めないくせに、少年らしい高く愛らしい声には明らかな棘があった。
 指通りのよさそうな濃い金色の髪。前髪は眉の辺りで重くない程度に梳かれ、その下の瞳は大きなペリドットのようだった。
 鼻は小さく上を向いていて、唇は化粧もしていないのに赤く色づいている。仕立てられたジャケットを着た姿は、ともすれば名家の子息のようにも見えた。
 少年性愛の気があるぼくからすれば、理想通りの、素晴らしい美少年である。
 ただ、少年はその身にぎょっとするほどの威圧感を備えていた。そうと知らない人間にはただの愛くるしい少年として振る舞うが、ぼくのように「事情」を知っている人間には、ひどく容赦がない。
 少年は、この見た目で会員制クラブ「プライベート・ブラッド」の吸血鬼たちを束ね、クラブを取り仕切っている人物なのである。

「それで、旅に出るにあたって、なにか注意するべきことでもあるかと思ったんだが」

 ポットから紅茶を注ぎ足しながら、少年――ロジェはひどくつまらなさそうに言う。

「別に。先生がちゃんとシリルに血をくれてやる以外に、なにも言うことはないよ。なにも、ね」

 やはり言葉に棘があるのは、夏の前、血をやるのを失念してシリルを倒れさせてしまったからだろう。
 ぼくに非のあることなので、なにも言い返すことが出来ない。
 気まずげに紅茶を啜るっていると、ポットを置いたロジェが、じっとぼくの方を見た。

「相変わらず、人付き合いが苦手なんだね、先生は」
「……返す言葉もないよ」

 シリルと契約したその日に、そんなことを言われたのを覚えている。
 確かに、ぼくは人付き合いが苦手だ。円満に人間関係を築き、維持出来ていたら、離婚などしていなかっただろう。

「そうやってシリルから目を背けるのは楽しいかね」

 溜め息を吐いて、ロジェは紅茶を一口飲んだ。

「……別に、目を背けているつもりはないさ」
「ああ、先生がそう仰るならそうなんだろうね。……本当に踏ん切りが悪いと言うか、諦めが悪いと言うべきか……」
「諦め?」
「そう。諦めなよ、先生。シリルがどういう生き物かなんて、どうでもいいんだ」
「どうでもよくはないだろう」

 シリルが吸血鬼であることは変えようのない事実だ。ぼくが言い返すと、ロジェは今度は長い溜め息を吐いて肩を竦めた。

「だめだめ。堂々巡りだ」
「……ぼくにだって、分かっているさ」

 ロジェが言いたいことは、なんとなく想像がつく。
 確かにぼくは、彼からすれば踏ん切りも諦めもつかない情けない男なのだろう。
 クラブを纏めているからか、ロジェは吸血鬼の幸せを第一に考えているようであった。人間と吸血鬼の契約も、相性のいい人間が見つかった吸血鬼のために勧めているのであって、決して人間側のためにしている訳ではないようであった。
 そんなロジェから見れば、ぼくは吸血鬼だのなんだのと建前を振りかざして、シリルのことをおろそかにしているように感じられるのだろう。
 ぼくとしてはそんなつもりはなかったが、しかし、ロジェの理想通りの「吸血鬼の契約者」として振る舞えている自信もまた、なかった。
 シリルのことをないがしろにしているつもりはない。――だが確かに、ぼくは彼の本心を知らないまま、彼に接していた。
 本心。意志。そう言ったものが、あの幽霊のようなシリルの中にあるのだろうか。

「で、そのシリルは?」
「起こして外に出ることは伝えたが、まだ寝ていると思うよ」
「ふぅん」

 単に聞いてみただけなのだろう、ロジェの反応は薄かった。

「……じゃ、帰る」

 カップを勢いよく傾け、こくりと喉を鳴らしたかと思うと、ロジェはおもむろにぼくに言い放った。

「え?」
「え、じゃないよ。話はそれだけなんでしょう? そろそろクラブの準備もあるし、帰らせて頂く」
「……そうか」

 シリルもいないのだし、ぼくと話していても面白くないのだろう。
 ぼくとしても引き留める理由はない。相槌を打って、彼が立ち上がるさまをぼんやり眺めていると、ロジェは眉根をひそめて先生、とぼくを呼んだ。

「なんだい」
「……シリルのこと、愛してる?」

 しかめ面で聞くようなことだろうか。いや、彼にしてみればきっと、そんな顔をしたくなるような問いなのだろう。

『ちゃんと吸血鬼のことを……シリルのことを考えてやってよ、先生。頼むからさ』

 過日、シリルが栄養――血が足りずに倒れてしまった時にロジェが言った言葉が、頭をよぎる。

「……ああ。愛しているとも」

 オーバン教授と言い、なんだか近頃はそんな話ばかりだ。

「そう。その言葉、信じてるよ」

 そう言い残して、ロジェは名残惜しさなんて欠片もない様子で去っていった。
 大人も連れずに一人で颯爽と歩いていく小さな背中を見送りながら、ぼくは考えていた。
 恋人。愛。確かにそう思っているとも。
 だが、シリルの方はどうなんだろうか。ぼくのことをどう思っているのだろうか。

「愛……か」

 独りごちながら、残った紅茶を飲む。カフェのオリジナルブレンドは、茶葉に長い間浸かっていたせいで、舌が痺れるような渋さがあった。

 ◆

 広がる草原。奥に雄大にそびえるピレネー山脈。草原の合間にミニチュアみたいに並ぶ民家。
 視界一杯に広がるそれらを眺めながら、ぼくはようやく、休暇の始まりを実感していた。
 パリからバスク地方の玄関口であるバイヨンヌという都市まで列車に揺られ、そこから山間部の村まで馬車を乗り継いで数時間、やっと目当ての村の近くまで来ることが出来た。
 到着したのはゆうべのことだったが、昨日は着いてから夕食を食べて眠るだけだったので、きちんとした観光は日が変わった今日からだ。観光、と言っても見て回るところはそう多くないだろうが、見たことのない景色はそれだけで楽しい。
 遅く起きて、朝食を兼ねた早い昼食を摂ったぼくたちは、宿を出て外出していた。見上げれば、すぐそこにピレネー山脈がある。建物に囲まれたパリでの生活が霞んでしまいそうに、近い。

「……楽しい?」

 ぼくが珍しく浮かれているのに気づいたのか、隣のシリルが小首を傾げた。

「ああ」
「ゆうべの馬車の時から、楽しそうだった」
「……そうか?」

 そんなに浮かれていただろうか。子供のようで、少し恥ずかしい。

「山の方、行く?」
「いや、いい。充分に近いよ」

 ゆっくり休むつもりだったから、地質調査に関わるようなものはなに一つ持ってきていないのだ。近くに山を見てしまうと自分の判断を少し後悔したくなったが、しかし一人で出来る調査なんてたかが知れている。
 それに、言葉に嘘はなかった。雄大なピレネーをそばに感じられるだけで、心が景色に向かって静かに広がっていくような、そんな感覚がある。
 観光客が多いのか、村にはいくつかの観光向けの商店があった。店頭を見ると、食器や雑貨、更にバスク地方の菓子であるガトー・バスクなどが並んでいる。

「ガトー・バスクかぁ。日持ちはしないから、買って帰るとしても帰る日だな……」
「なにか買って帰るの」
「仕事を休んでいるからね。研究室と、それから……一応、ロジェに買っていこうと思ってね」

 下手なものを選ぶと逆に機嫌を損ねてしまいそうだが、ロジェには色々な意味で世話になっている。ぼくの土産話など聞いても楽しくないだろうし、なにかしら買っていった方がまだましだろう。

「……それにしても、遠くまで来たなぁ」

 白や赤の多い特徴的な色彩の建物を眺めていると、ここはパリではないのだと実感出来る。スペインとの国境もすぐそこだ。
 春先、シリルとした約束を、まさかこんなに早く実現出来るとは思っていなかった。
 シリル――。
 春先に出会ってから半年がすぎたが、彼がいる日常は、慣れたようでいて、やはり実感が湧かない時があった。
 古い町並みに溶け込むように、シリルはぼくの隣にいる。
 彼は相変わらずなにを考えているかよく分からない、夢を見ているような眼差しで風景へ視線をくれていた。髪が山からの風を受けて、時たまふわふわと揺れる。
 バスクの地においても、シリルの見た目は人の目を惹きつけた。
 すれ違う女性が、時たまシリルの方を振り向いているのが分かる。けれどもシリルの方は他人の視線など気づかぬ風で、景色を見るばかりで、後はぼくの話に短い相槌を打つだけだった。
 一度宿に戻ってティータイムを楽しんだものの、それ以外は村をぶらぶらと散策して午後がすぎていった。
 途中で買った土産物の入った紙袋を抱え直しながら、ぼくはのどかな田園に沈んでいく夕日を、目を細めて見つめていた。
 なんと穏やかな景色だろう。流れる雲の合間から差し込むオレンジ色の光は山々と民家に投げかけられ、美しい陰影を作り出していた。

「シリル、ほら……」

 綺麗な景色だね、と言葉をかけようと彼の方を振り向くと、シリルは少し離れたところで立ち止まり、ぼんやりとした眼差しである建物を見ていた。
 山とはちょうど反対側に建つそれは、古い教会のようであった。三角屋根の上に据えられた十字が、夕暮れの薄闇に染まっている。

「……シリル?」

 なんともなしに教会を見ているシリルは、なぜだろうか、少し声をかけづらい印象をぼくに与えた。
 彼が珍しくなにかを注視しているからだろう、と結論づけながら、恐る恐る声をかける。すると彼はなんでもないような顔をして、すぐさまぼくの方を向いた。

「ん」
「……どうした?」

 教会なんてパリにもある。それとも、古びてろくに人の手も入っていないようなそれが、目に新しかったのだろうか。

「別に」

 短く返して、シリルがぼくの方へ早足で寄ってきた。

「そろそろ戻って夕食にしよう」
「うん」

 手でも引こうかと思ったが、やめた。パリでならまだしも、こんな小さな村で目立ちたくはない。
 宿に帰り、併設のレストランへ向かう。妙齢の女性に席を案内されると、ぼくはあらかじめ頼んでいたコース料理に加えて、この地方の名産でもある林檎の発泡酒、シードルを頼んだ。

「乾杯」

 かちん、と軽い音を立ててグラスを合わせながら、ふと思う。
 ぼくたちはどんな風に見えているのだろうか。
 男の二人旅なんて珍しいものでもないだろうが、しかしぼくたちはあまりにも不釣り合いと言うか、ちぐはぐで、我ながら旅をするような取り合わせではない気がする。

(まぁ、いいか)

 怪しまれようが構うことか。要は決定的な証拠になるような行動を控えればいい話である。
 乾杯をすると、待ち構えていたように前菜の盛り合わせが運ばれた。
 前菜を片づけた後は、豆料理と、メインディッシュの子羊の煮込み料理。子羊はフォークを入れただけでほろっと崩れるほどよく煮込まれていて、口に入れた瞬間に繊維がほどけて溶けるようであった。

「……ん」

 フォークを口から引き抜いたシリルが、小さく声を漏らした。

「美味しい?」
「よく、分からない」

 前にパリでバスク料理を食べた時も、そんな返答をしていた気がする。確かに表情はいつもと変わらぬ様子であったが、日頃は食事に対し「別に食べたくない」なんて言い放つ彼にしては、黙々とよく食べているように見えた。

「けどきみ、バスク料理食べてる時はなんて言うか……美味しそうに食べてるよ」
「そう?」
「そうだとも」

 彼にだって好物くらいあるのだと、そう思い込むことくらいはぼくの自由だ。
 デザートまで綺麗に平らげたのち、あてがわれた客室に戻り入浴を済ませると、一日出歩いた心地よい疲れを思い出した。パリでだってこんなには歩かないだろう。
 今眠ればきっと気持ちよく眠れるだろう。だが、その前にぼくにはすべきことがある。

「……シリル、おいで」

 ベッドに膝を乗せて手招きすると、ソファで備えつけの新聞をめくっていたシリルが立ち上がった。
 体を寝そべらせると、そのすぐ横に手が突かれた。

「……いいの?」

 襟の開いたナイトガウンから覗いているぼくの鎖骨の辺りを見ながら、同じものに身を包んだシリルがぽつりとつぶやいた。

「ああ、もちろん」

 いくら美味そうに食べていたとは言え、彼が食事で満足出来る体でないことは承知しているつもりだ。ほら、と首を仰のかせると、シリルはやわらかなベッドに体を乗り上げさせた。至近距離で吐かれた息が、首筋にかかる。

「あ」

 歯が肌に触れたその瞬間に、慌てて彼のうなじの辺りを掴む。顔を引き上げさせると、シリルはいかにも不思議そうにぼくを見た。

「首はやめてくれないか。この間の傷が、まだ」

 ほら、と言って首を曲げて、痣になっているであろうそこを見せる。
 正直、首を曲げ伸ばしするのにもまだ少し痛みを伴うのだ。更にそこに傷を作られてしまったら、今度こそ首が動かせなくなる。

「分かった、じゃあ」

 頷いたシリルが、するりとぼくの手を取った。
 ガウンの袖をまくって、上腕部が露出される。ろくに筋肉のついていないぼくの筋張ったそこへ指先をつ、と伝わせて、検分するように見つめていたかと思うと、ふっとその眼差しをぼくに向けた。

「腕でもいい?」
「……ああ、左なら」
「分かった」

 言葉とともに、唇が寄る。
 ぼくの目の前に膝を突いて、シリルが腕に舌を伸ばした。
 手首の辺りで支えられているせいで、腕が落ち着かない。だが、そわそわとする気持ちを上書きするように、舌の濡れた感触と、続いて耐えがたい痛みが腕を襲った。

「っ、つ、あ……!」
「ん……」

 上半身を起き上がらせていたが、痛む上に腕を不安定な体勢にさせているのが地味に辛い。思わず枕に頭を沈めると、横たわったぼくの体を追いかけるようにシリルが四つん這いになった。
 急に姿勢を変えたにも係わらず、シリルは上腕から口を離すことはしなかった。
 こんな風にたとえるのは自分でもどうかと思うが、まるでミルクを求める子猫のようだ。

「シ、シリ……」

 名を呼びたいのに、あまりの痛みに声は途切れ途切れになる。それでも音を拾ってくれたらしい、シリルが腕に唇をつけたまま、なに、と短く言った。

「い、痛……」

 言っても仕方のないことを言っている自覚はあった。だが、それでも口から勝手に漏れ出てしまうのだ。

「我慢、して」

 痛い、と主張するぼくの手をやんわりと撫でさすりながら、シリルは一言そう言った。
 突き放すようにも聞こえるが、彼がこんなことを言うのは珍しい。もしかして、痛みを与えていると言うことに――ぼくの血を吸っていることに、多少なりとも罪悪感を感じているのだろうか。

(まさかな)

 枕にぐっと頭を押しつけると、圧迫感でいくらか気持ちがましになった気がした。腕の痛みからなんとかして気を逸らさないと、ぼくが保たない。

「ん……」

 しばらくして腕から唇を離したシリルが、噛んだところのすぐ上の辺りを押さえながらぼくを見つめた。

「美味しかった」
「……それは、よかった」

 料理の美味さは判別がつかないくせに、ぼくの血は美味いと断言出来るのか、きみは。

「包帯とガーゼは、鞄の、中に……」
「分かった」

 悪いが、起き上がって鞄に取りに行く気力もない。肩で息しながら止血に必要な材料のありかを伝えると、シリルは身を起こして、すたすたと鞄の方へと歩いていった。
 手に包帯、ガーゼ、それから止血用にクラブからもらっている軟膏を取ってきたシリルは、それらをシーツの上にばらまくと、ぼくの腕を取った。
 放置されていた間にじくじくと血が滲んでいたそこに、再び唇を落とす。中から湧き出すものをきつく吸ったかと思うと、ぼくの血がついた唇もそのままに、慣れた手つきでそこへ軟膏を塗り、ガーゼを張り、くるくると包帯を巻いていった。
 手当てをされながら、ぼくは足先から上ってきた眠気と戦っていた。
 一日歩き回った疲労に加え、血を吸われた倦怠感が、ぼくを泥濘のような眠りへと突き落とそうとしていた。
 だが、ここで眠る訳にはいかない。まだシリルが、手当てを、してくれているのに――。

「眠そう」

 目が虚ろなのに気がついたのだろう、包帯の端を結んだシリルが、ぼくの顔を覗き込んだ。

「ああ、うん……、すまない……」

 すごく眠くて、と言う余裕もなく、口から出るのは曖昧な相槌ばかりだ。
 思わず謝罪の言葉を口にしたたぼくの頭に、さり、と冷えた細い指が絡んだ。
 風呂に入った際にほどいてそのままにしていた髪を辿るように指は動く。その指の間からぼくの黒い髪が零れていくのをどこか他人事のように眺めていると、ぽん、と手が額の辺りに置かれた。

「おやすみ、ケイ」
「ああ、おやすみ、シリル……」

 普段も言えば返してくれるのだが、彼の方から先に就寝の挨拶をくれるなんて珍しい。
 だが、その珍しさへの驚きよりも強く、疲労感がぼくの手を引いて、眠りへといざなおうとしていた。
 ――なんだか今日は、珍しいことがいくつも起きていたように思う。
 おやすみの挨拶もそうだが、あの彼がなにかをじっと見つめているなんて、珍しい。

(あの教会になにか、思うところでもあったのか――?)

 いや、彼のことだ、特段意味もなく視線をくれていたのかもしれない。しかし、それにしては少し、違和感があった。

「シリル……」

 ほとんど眠りに足を突っ込んだ状態で彼の名を紡ぐと、重くなった瞼の隙間に彼の美しい顔が見えた。

「うん」

 ただの頷きは、しかし、彼がここに――ぼくのそばにいるという安心感を与えてくれる。
 そのことに安堵しながら、ぼくは意識を手放していた。

 ◆

 カーテンの隙間から差し込む光が、ぼくに朝の到来を告げてくる。
 もぞもぞと寝返りを打ってから、シーツの中から這い出る。布団をかけて眠った記憶はなかったのだが、シリルがかけてくれたのだろう。

 「客に時間を気にせずゆっくりすごして欲しい」という宿の意向により部屋に時計は置かれていなかったが、窓から差す陽光を見る限り、ぼくにしては遅い目覚めだったようだ。

(とりあえず朝食を……いや、この時間に食べてもどうせすぐ昼に……)

「シリル、そろそろ起きなさ……」

 ぼんやりと考えながら、起き上がる。隣で寝ているであろうシリルに声をかけようとしたところで、異変に気がついた。
 いないのだ。普段ならばこの時間はまだ惰眠を貪っているであろうシリルが、いない。
 綺麗に整えられたシーツには、寝ていた時の名残もほとんど残っていなかった。どうやら、近い時間に起きたという訳でもなさそうだった。

「シ、シリル……?」

 思わず口を突いて出た名に、なに、と返ってくる声はなかった。
 寝起きの背に、つっと冷や汗が伝う。慌てて身支度を済ませ、部屋の外に出てみても、宿のレストランにそれらしい人影はなかった。

「すみません、連れを見ませんでしたか」

 フロントにいる男性に声をかける。

「お連れの方ですか? 金髪の?」
「ええ」

 壮年の男性はうろ、と中空に視線を彷徨わせた後、ああ、と言ってぼくの方へ視線を戻した。

「外に出られたようでした。どこへ行かれるのかは伺っていませんでしたが……」
「いえ、結構。ありがとうございます」

 さして広い村でもない。きっとどこかをうろついていることだろう。――そう楽観的に考えながら、手に持っていたフロックコートを羽織る。
 山間部であるからか、村はパリよりも肌寒かった。シリルのフロックコートは部屋に置かれたままだったから、きっと寒いだろう。
 風邪を引く前に見つけなければ。――吸血鬼が風邪を引くのかは、分からないけれども。
 そんなことを考えつつ民家の間の細い路地を通りながら、ぼくは似たようなことを過去にも考えていたのを思い出していた。

『……吸血鬼は体感温度も違うのか? それとも体温が違うとか?』

 そう言いながらフロックコートを脱ぎ、貸してやったあの日――シリルとぼくが出会った日のことである。

『楽しかったから、気にならなかった』

 風邪を引くぞと言ったぼくに根負けする形でコートへ袖を通したシリルは、全く楽しそうでもない顔でそう言っていた。
 楽しい――思えば、あの吸血鬼がぼくとの外出を楽しいと思っていたのか。

「シリル……」

 一つ掘り起こしてしまうと、思い出は湧水のごとく蘇ってきた。
 運河に飛び込んだ彼を引き上げた時の、ただでさえひんやりとしているのに水をかぶったせいで更に冷えた手の、しかししっかりと握り返してきた手の力だとか、濡れた服を躊躇いなく脱いでいた背中だとか、そんなものが一つ一つ浮かんでは、ぼくの心をひたひたと満たしていく。

(――そうだ)

 細い路地から抜け出たところは、昨日の夕刻、シリルがぼんやりと見ていた教会の前だった。
 意味なんてなかったのかもしれない。けれども、ぼくはそこに賭けたかった。
 古い引き戸の取っ手を掴んで開く。ぎい、と重く軋んだ音を立てて開いた木戸の中に滑り込み、後ろ手で戸を閉める。やはり中はさほど手入れがされていないのか、埃とカビのにおいがした。
 向かって左手には小さなオルガンが、そして中央には古い祭壇があった。並ぶ椅子などには薄く埃が載っていたが、祭壇だけはきちんと掃除しているのか、汚れが溜まっている様子はなかった。
 その祭壇の前に、幽霊がいた。
 やわらかなシフォン地のシャツと共布のリボンを揺らして、シリルがぼくの方へと振り返る。ゆるくウェーブのかかった髪が一瞬舞い広がって、思慮深げに見える青の瞳がぱちりと重たげに瞬いた。

「ケイ」

 ぼくを呼ぶシリルの声が、ぼくたち以外人気ひとけのない教会内に響く。天井が高いからか、少し細い、だが落ち着いた声が反響して、いつものささやくようなそれよりもわずかだが力が籠もっているように感じられた。

「……探したんだぞ、きみ……」
「そう。ごめん」

 悪いなんて欠片も思っていなさそうな顔でそう言って、シリルは再び祭壇の方へと向き直った。
 そこには、木彫りの祭壇を背景に、銀色に塗られた十字架が飾られている。
 ただの、なんの変哲もない教会の祭壇だ。もし彼が教会に来たことがなかったとしても、それくらいは分かるはずだ。

「ケイは、神様を信じる?」

 シリルが振り向く。薄紅色をした薄い唇が動き形作ったものに、ぼくは少なからず驚いていた。彼がそんなことを質問するとは――彼の中に信仰心や、それに対する興味などがあるとは思っていなかったのだ。

「……ああ、もちろん」

 反射的に頷くと、そう、とシリルが相槌を打った。

「神様は、『女と寝るように男と寝てはならない』って」
「……ああ、そうだね。神を信じると言う同じ口できみにキスをしていることくらい、分かっているさ」

 嫌味が言いたいだけなのだろうか。それとも他に、ぼくに伝えたいことでもあるのか。
 入り口のすぐそばにいるぼくと祭壇の前にいるシリルの間には距離があった。流石に声を張って会話をしているのに焦れて、距離を詰める。かつ、と革靴の底が床を踏みしめる音を聞きながら、ぼくは口を開いた。

「きみはどうなんだ」
「どうだろう。吸血鬼に神はいるのかな」

 近づくぼくに、シリルは明日の天気でも聞くような口調でそう言う。

「……でも、あの日ケイと会えたのが神様の巡り合わせなんだとしたら、神様に感謝しないとね」

 あの日と言うのは、クラブでぼくたちが出会った日のことだろう。
 普段相槌と短い単語ばかりを話す彼にしては、今日は恐ろしく饒舌だった。
 すぐそばまで歩み寄る。ずっと体を斜めにさせて、肩越しにぼくを見ていたシリルが、踵でターンしてぼくの方へ体を水平にさせた。

「ねぇ、幸せってなに」
「それは……」

 それは、恐ろしく漠然とした質問だった。
 しかし、ぼくが言い淀んだのは、それゆえではない。
 先ほどの神に対する問いかけ同様、この彼が聞いてくるとは思わなかった質問だからだ。
 いや――シリルだからこそ、聞きたいのだろうか。現世にふらりと現れてしまった、帰り道の分からぬ幽霊だからこそ、幸せなんて不定形なものを問いたくなるのか。

「……ケイは、俺といて幸せ?」
「……それは……」

 ぎくり、と胸が軋んだ。
 もちろん、と言うべき舌は縺れて、二の句が継げなくなった。
 次から次へと驚くべきことが頭を殴っていて動揺が治まらないのに、それだけではなく、シリルはぼくのことを、ぼくの脆弱な意思を揺さぶるように言葉を重ねてくる。
 そう言えば――彼が一人称を使うのを、ぼくは初めて聞いていた。俺、と言うのか。

「……それとも、いなければいいのに、って思う? 『どうしようもなく憎くてたまらない』?」
「え、あ」

 その言葉は、夏に入る前、シリルが倒れた時にささやいたぼくの言葉だった。
 倒れた直後で、疲労困憊して眠りに落ちたものだとばかり考えていたが、起きていたのだ。そう気づいて、背筋が寒くなった。

『ぼくはたまに、きみがどうしようもなく憎くてたまらない時があるよ』

 そう呟いた時、ぼくは彼になにをしようとしていただろうか?

『美しくもおぞましい、ぼくの幽霊ルヴナン

 震える手を輪のようにして、彼の首へ、その手を――。

「……すまなかった。あれは、その……」

 思わず口を突いて出るのは、どうしようもなく情けない言い訳だった。
 言い訳なんて、すればするほど惨めだろう。ぼくはあの時、紛うことなく、彼を手にかけようとしていたのだから。

「いいんだよ。ケイがしたいなら。……今だって」

 そう言って、シリルが首を仰のかせる。ぞっとするほど美しい、白く細い首であった。

「……出来ない。きみのような美しい子を手にかけるなんて、そんなこと……」

 そう、出来ないのだ。出来ることならば、あの時ひと思いにやっている。
 それが出来ないのは、ひとえにぼくが優柔不断なのと、この彼があまりに浮世離れして美しいからだ。
 こんなに美しいものに、ぼくは抗えない。こんなに美しいものを手折るほどの勇気は、ぼくにはないのだ。

「……どうしてきみはそうなんだ。なぜぼくのやることなすこと、全てを許す?」

 こんなことを言うのは責任転嫁だ。ぼくの弱さを彼になすりつけようとしているにすぎない。それでも、言わずにはいられなかった。
 だが、普通、たとえ一瞬でも自分を殺そうとしていたやつと生活するなんて、それこそおぞましくて出来やしないだろう。
 問いかけると、シリルの表情が動いた。
 小さな口の端が動いて、ゆるく上を向く。眦が細められて、睫毛の重そうな伏し目がちの瞳が弧を描いた。
 あまりにも美しい微笑であった。こんなにぼくに向けるのはもったいのないくらいの、優美で、そして彼にしては珍しく、どこか力を感じる笑み。

「あの夜、俺の存在を許してくれたケイだから。だから、俺はケイのすることはなんでも許す」

 そう言って、シリルはゆるく両手を広げた。
 足がよろめいて、彼のすぐそばへ向かう。両腕に触れるように軽くぼくを抱き留めた彼が、ねぇ、と優しく声を発した。

「どうして泣いてるの」
「なにを……」

 なにを冗談を言っているんだきみは。そう言いたいのに、俯いていた顔を上げた拍子に、ぱたりと石造りの床を叩くものがあった。
 いつからだったのだろう。気づけばぼくは、情けなく両目から涙を零していた。
 ぼくの頬に伝うものを、シリルの細い指先が掬って、拭っていく。

「ねぇ、もう一度聞くね。幸せってなに。……愛って、なに」

 恐ろしくなる質問を、シリルは飽きずにぼくにする。それにはきっと、理由があるのだろう。それならば、ぼくも恐怖を押しのけて答えるしかない。

「幸せは、正直なところぼくにもよく分からない。……でも、きみの、きみの今の言葉こそが、愛だ」

 どうしてそれに、今日この時まで気づかなかったのだろう。
 彼はずっとぼくを、ぼくの全てを許してくれていたのだ。ぼくの曖昧な姿勢も、自らを守ろうとするあまり線を引いていた態度も言葉も全て、許して――きっとそれらを含めて、愛してくれていたのだ。
 ぼくはようやく、彼にしていた無礼を悟っていた。
 ロジェがあんなにもぼくに腹を立てていた理由も、今ならば分かる。
 幽霊のようだと、人ではない美しさだと彼を崇めていたが、彼はぼくの血を吸うという一点のみが違うだけで、ただの人なのだ。
 理性では分かっていたはずなのに、それでも頭のどこかで違う生き物だと思っていた。
 だが、今の彼が口にした言葉は、なんの飾り気もないだけに、そのままの形でぼくの心に突き刺さった。
 どんな見た目をしていようとも、真実、彼は人であるのだ。ぼくと同じ生き物でなければ――人でなければ、こんなにも真摯に愛を語るものか。

「そう」

 いつものように短い相槌を打ったシリルが、ぼくからそっと手を離した。

「……ケイは、俺のこと愛してる?」

 声はもう反響しない。ただぼくの耳に、ぼくだけにささやかれている。

「……ぼくはもう、きみなしの人生なんて考えられないんだ」

 言いながら、恐る恐る、彼の背へ両腕を回す。

 抱きしめた体は、やはり生きているのか不安になるくらいに薄っぺらかった。
 けれども、触れ合った体から、確かに鼓動を感じる。
 彼にだって動く心臓がある、そう思うだけでなんだか不思議な気分だった。
 幽霊のようであるのに、その実しっかりと生きているこの生き物は、恐ろしいことにぼくを愛してくれているらしい。
 本当に恐ろしいことだった。果てしないことであった。
 けれども――その涯てに、ぼくたちはいる。生きて、二人で立っているのだ。

「還るあてのないルヴナンだと言うのならぼくのそばにいろ、……この世に飽いた時はぼくも道連れにしてくれ」
「いいよ。……ケイも、俺のこと、道連れにしてくれる?」
「もちろんだ」

 抱きついた肩口に額を擦りつける。顔を上げると、やはり薄く笑みを刷いた彼がいた。

「だってきみは、他の誰でもない、このぼくが引き取ったのだから」

 言葉にすると、すとんと実感出来た。

「……きみは、ぼくのものだ」

 一度浮かんだ言葉は、するすると口から滑り出てくる。それがいいことかは分からなかったが、どうしても今、伝えたかった。

「これを他の人がどう呼ぶのかは、分からない。けれども、……愛しているんだ、シリル」

 あれほどの愛を向けられて返せるものなんて、もうぼく自身しかない。

「その言葉が、聞きたかった」

 そう言って、シリルが静かに微笑んだ。今までで見た彼の数少ない笑みの中でも、一番に美しい笑みであった。
 本当のところ、ぼくの言う「愛」が正しいかなんて、分からない。幸せがぼくたちにとってどういうものであるかなんて、もっと分からなかった。
 けれども、まだぼくたちは出会って一年も経っていない。よほどのことが起きない限り、ぼくたちにはまだ、時間がある。
 それならば、幸せは二人で探していけばいいだろう。ふわふわとして崩れそうな愛は、これから固めていけばいい。
 普段の後ろ向きなぼくからは考えられないようなことを思えるのは、きっと、そんなぼくでも愛してくれる人がいるからだ。

「……戻ろう、シリル」

 ぼくたちの家、パリへ。……でもその前にまだ、美味しい昼食を食べて、この村を歩きたい。
 手を引くと、当然のように指が絡められた。ひんやりとした手が、泣いて火照ってしまった体に心地いい。

「うん」

 いつものように返ってきたシリルの声は、どこか機嫌がよさそうに聞こえる。
 ぼくの思いすごしでもいい、思い込みでもいい。そうして機嫌がいいのは、ぼくが愛を誓ったからなのだと、そう思わせてくれ、シリル。
 教会を出ると、暖かな陽射しがぼくたちを出迎えた。それはまるでぼくたちの新たな――いや、ようやくと言うべきか――出立を祝うようで、つられてぼくも下手くそに笑うのであった。

 ◆

「……なんできみがここにいるんだ」

 あれから二日が経ち、列車でパリへと戻ってきたぼくたちを駅で待ち受けていたのは、小さな体躯をした少年であった。

「旅程は聞いてたし、二人で心中でもされてたら気分が悪いからね」

 そう言って、少年――ロジェはぼくたちの足先から頭までを一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。

「なんだか知らないけど、少しはまともな面構えになったんじゃない、先生」
「……どういうことだ」
「契約者としての自覚が出たんじゃないの」

 吸血鬼の契約者として自覚が芽生えたかはさておき、愛ならば遅まきながら自覚したとも、と言おうとして、やめた。それはぼくたち二人が知っていればいいことで、ロジェにそこまで言う義理はない。

「心中なんて、しないよ」

 そう返しながら、シリルが手に持っていた土産物の入った袋をロジェに押しつける。

「一緒に死ぬ約束なら、したけど」
「はぁっ!?」

 シリルが付け加えると、ロジェが盛大に顔をしかめさせた。平素尊大な表情ばかり浮かべているからか、表情を崩すだけで一気に年相応に見える。

「まったく、どうしてまたそういう馬鹿なことを……」

 はぁ、と溜め息を吐いて、ロジェがこめかみを押さえて呻く。

「……まぁいい。そこに馬車を待たせてる」

 言って、ロジェは紙袋を片手にすたすたと歩き出してしまった。短時間のうちに気持ちを切り替えられるところは、見事と言うほかない。

「……きみにしては恐ろしいくらい優しいな」

 思わず漏らすと、小さな背広姿が振り返って、じとりとぼくを睨みつけてきた。

「先生のためじゃない、シリルのためだ! ついでに行き先はクラブだからね」
「え?」
「たまには店にも顔を出して頂こう」

 のんびりとすごしていたとは言え、ぼくたちにだって多少なりとも旅の疲れはあるのだが、そんな意見を聞いてくれる感じではない。
 言うことは言ったとばかりに、再び前を向いてすたすたと歩を進めるロジェの後をついていると、くい、とコートの上腕の辺りをシリルが引っ張った。
 ちらりと横へ目を向けると、シリルは並んでぼくを見ながら、ねぇ、と雑踏の中で口を開いた。

「前から思ってたんだけど、なんでルヴナンなの」

 それを今聞くか、と思ったが、ふと疑問が浮かんでしまったのだろう。手に持った鞄を抱え直しながら、ぼくは肩を竦めて白状する。

「初めてきみを見た時、美しい幽鬼のようだと思った。そして――きっとぼくは無意識のうちに、そんなきみを、なんとかこの世に……現実に縛りつけたいと、そう思っていたんだろうな」
「変なの。よく、分からない」

 そう言って、シリルはついと前を向く。
 盗み見る横顔はやはりどうしたって美しかった。

「つまり、一目惚れさ」

 やけくそ気味に言うと、シリルが再びぼくの方を向いた。
 伏せられていた目が少しだが見開かれて、いつもよりもうんと幼く見えた。

「……変なの」

 開いた目を伏せて、ふふ、とシリルが笑う。
 それはまるで、木漏れ日のような、星のない夜に瞬き方角を示す月明かりのような、そんな美しい微笑みであった。