Club Private Blood

「ケイ」
 美しい声が聞こえる。山脈の奥深くで流れる沢のような、そんな静かで落ち着いた声。
 眠りから掬い上げられるように瞼を上げると、ベッドサイドには美しい生き物が立っていた。ふわふわと癖の強い、金色に近いアッシュブロンド。少し眠たそうに伏せられた、しかし大きなラピスラズリ色の瞳。
 ぼくよりも上背のある、若い男だ。

「ケイ」

 再び、名を呼ばれた。
 聞きようによっては突き放すような、ないしは万物に興味がなさそうに聞こえる、この声が好きだった。
 現世のものが見えていないのではないかと思う、なにか哲学的なことを考えていると言われても納得してしまう、物憂げな瞳が好きだった。
 だが、ぼくが彼と生活をともにしようと思った理由は、それだけではない。

「食べるね」

 言葉は、問いかけではなく、確認だった。
 しゅるりと巻きついた腕が、ぼくを再びベッドへ押し倒す。猫のように頬をすり寄せたかと思うと、首筋にひやりと冷たい感触がした。
 首に歯が立てられている。それも、皮膚越しにその下の己の血管を感じるほどの、尖った歯が。
 言葉からさして間も置かず、謝罪も気遣いもないまま、歯が食い込んだ。擦過傷を負った時とは違う、ぶちぶちと血管の切れる音が聞こえてきそうなほど、ゆっくりと時間をかけて、ぼくの体に異物がめり込んでいく。
 血を吸われながら、ぼくは彼と出会ったある晩のことを思い出していた。

 ◆

Monsieur Debreyムッシュ・ドゥブレ

 呼びかけられた声に驚くあまり、びくりと肩が揺れてしまった。
 呼ばれる名前はいつものぼくのそれであり、呼んだ人物もお決まりであるのに妙に驚いてしまったのは、それだけ今のぼくの気が緩んでいたということだろう。

「ムッシュ、お先に失礼します。また明日」

 そう言って手を振った女学生はミネ・コティヤールである。肩につくかつかないかの赤茶色の髪を揺らして、チャーミングな笑みを向けてくる。
 ミネくんはこの研究室のムードメーカーである。明るい性格と人なつっこい笑顔は、接しているだけでこちらの気分も上向きになるものだ。

「ミネくん、明日は土曜日だよ」

 笑いながら言うと、あー、とミネくんはオーバー気味に声を上げ、肩を落とした。

「そうでした。あたしったら……。それじゃあ先生、いい週末を」

 そう言って再度手を振ると、ミネくんは鞄を片手に、教室を去っていった。
 時刻は既に夜の七時をすぎている。教室の主であるオーバン教授は夕方早々に帰宅していったので(なんでも、奥さんとディナーらしい)、教室はぼく一人きりだった。

(……ぼくも、そろそろ出るか)

 広げていた地図をまとめ、定規を適当に掴んで机の引き出しに入れる。ペンをペン立てに戻しインク瓶の蓋を閉めると、ぼくの帰り支度はあっけなく済んでしまった。
 ぼく――ケイ・リー・ドゥブレは、このパリ大学・地質層序学そうじょがく教室の研究員である。
 地質学というのはその名の通り、ぼくたちが歩いているこの下の地層やそこに含まれる物質について探求していく学問なのだが、その中でも層序学は地層の成り立ちに重点を置いた学問である。
 学生の頃から地質学が好きで、その時はまだ助教授だったオーバン先生に頼み込み、学部生の早いうちからこの教室に入り浸っている間に、気づけばこうして教員になってしまっていた。
 オーバン教室には、ぼくと教授の間に誰もいない。学生の時分から思いついた端から論文を書いていたせいか、ぼくにはいつしか、ありがたくも「層序学次期教授」なんて大仰な肩書きが付くようになっていた。それを決めるのはオーバン教授を始めとする地質学教授一同と大学なのでぼくは別段どうという訳ではなかったが、教授や大学が、地味で地質学をやる以外なんの取り柄もないぼくに目をかけてくれているというのは、光栄なことだし嬉しかった。
 地質学は数ある学問の中でもマイナーで、外で層序学なんて単語を言おうものなら「それ、なに?」と聞き返されてしまうのだが、それでも内輪――同じ学問を志す者の中で名を名乗ると、一部の人間は片眉を上げて「論文を読んだことがあるよ」と言ってくれる、そんな知名度だ。ちなみに、オーバン教授は層序学をやっている者なら知らない者はいない有名人である。

「……帰ろう」

 呟くと、気持ちに拍車がかかったような気がした。週末だからといって独身者になんの用事がある訳でもないが、それでも一応、今日は店に寄ってから帰ろうと思っていたのだ。
 店。最近通っている、会員制クラブである。
 鞄に荷物を詰め、デスクを立つ。壁にかけていたフロックコートを羽織ると、ぼくは教室の明かりを吹き消した。
 教室の鍵をかけ、研究棟を出る。明かりが点いているところもあったが、層序学教室がある一階はほとんど真っ暗だった。やはり、休日前だから皆帰るのが早いのだろう。ぼくの帰りがいつも遅め、というのもあるのだが。
 春先のパリは、日中こそ穏やかな気温であるが、朝晩は時たまぐっと冷える時がある。冬とは段違いではあるが、それでも冷たい風がコートの隙間から入り込んでくる。慌ててボタンを留めると、ぼくは足早に路地へと向かった。
 店はセーヌ川の向こう側、三区と四区をまたがるマレ地区の辺りから、十一区の方へ少し入ったところにある。馬車を捕まえられたら楽なのだが、路地が入り組んでいる上、今の時間帯は道が混んでいる。ここからだと歩いて向かった方がむしろ早い。
 夜のセーヌ川は、黒々とした水の中に、ちらちらと川沿いの街頭の光を浮かべている。川に挟まれたシテ島の真ん中でそびえ立つ、ノートルダム大聖堂の影絵のようなシルエットを尻目に橋を渡り、早いディナーを終えカフェへ向かう人や、夜遊びに出る若者たちの間を縫いながら歩いていると、バスティーユ広場に辿り着く。
 昔は牢獄が建っていたこの場所も、今ではすっかり七月革命の舞台として有名になっている。というより――その革命の記念碑である柱が有名、の方が正しいか。青銅色をした柱は広場の中央に建てられ、目当てに観光客が訪れるだけでなく、パリっ子の待ち合わせの目印にもなっている。
 今も、柱の周りを取り囲むように人がおり、近辺のカフェも繁盛している様子であったが、店はまだ先だ。
 広場を抜け、もう少し歩いたところで通りを折れると、辺りは喧噪から離れ、静かなエリアになっていた。
 更に細い路地に入り、並び立つアパルトマンの間にある細い建物の、数段しかない小さな階段を下りる。そこに現れた、裏口みたいな鉄枠の木戸が、クラブの入り口だ。
 階段を下りたところにはごくごく小さなスペースがあって、そこには黒いスーツの女が静かに立っていた。
 スペースは建物の下に入り込むように作られており、更に女性は外から見て死角になるような場所に立っているせいで、外からひと目建物を見ても、階段の下に人が立っていることはおろか、スペースがあることも分からないようになっていた。

Bonsoirこんばんは、ムッシュ」

 まるでホテルのドアマンのようにドアの前に立ちはだかりながら、女性は無表情のままぼくに挨拶をした。

「えっと……『宵闇にこそ真実が宿る』」

 このクラブでは、入店の際に合い言葉と会員証の提示が必要になる。未だに言い慣れないそれを唱えると、女性はにこり、とかすかに微笑を作った。それだけで、真っ黒い姿――こちらに差し出してくる手まで黒いシルクの手袋に包まれている――の彼女が、少しだけだが取っつきやすい印象になる。

「それではムッシュ、会員証のご提示をお願いします」
「はい」

 財布からこれまた黒塗りの会員証を出すと、女性はまるで金か宝石でも受け取るようにしずしずとカードを受け取り、木戸の取っ手にぶら下げていた小さなランプを胸の高さに掲げた。
 ぼくにはよく分からないが、カードには細工が施されていて、ある条件を満たすと入会日や会員の名前が浮かび上がるようになっているらしい。

「ムッシュ」

 しばらくランプの明かりをかざしていた彼女が、ぼくを呼んだ。

「ムッシュ・ドゥブレ、資格を確認させて頂きました。ご協力に感謝いたします」
「ど、どうも」

 受け取った時とまったく同じ仕草でカードを返される。それをコートの内ポケットにしまいながら、ぼくはどこかふわふわとした心持ちで、いつもの決まり文句を待っていた。

「ムッシュ・ケイ・リー・ドゥブレ。それでは、今宵も素晴らしい夜を」
「ありがとう」

 いつになっても、この恭しいことこの上ない言葉と、丁寧な物腰には慣れなかった。こういう接し方に慣れている人間ばかり相手にしているということなのだろうが、ぼくとしてはいささか居心地が悪い。

「誰かつけましょうか?」
「いえ、結構。一人で見ますので……」

 しどろもどろになってこれまたお決まりになっているせりふを言い返すと、ドアの前に立った彼女(毎日ここに立っているのに、一度も名を聞いていない)はにこりと微笑んだ。今日見た中では、一番の微笑だった。
 黒い手袋に包まれた手が、ぎっと古くさい木戸を開ける。
 扉の内側には、外かと見紛う薄闇。それから、その奥から漏れ出るわずかな明かりとひそひそ声。アルコールと葉巻のにおい。
 クラブ――クラブ「プライベート・ブラッド」。この国風に言えば「サン・プリーヴィ」か。
 ぼくみたいな朴念仁がこのような会員制クラブに通うことになったのには、少しばかり理由がある。
 このクラブは、いわゆるクラブ――風俗業の伴う飲食店という文字通りの面以外に、もう一つ、特異な面を持ち合わせていた。
 従業員が人ではないのだ。
 人。ヒト。いわゆる、ホモ・サピエンス。
 そうではない、なんて奇異なもんだろう。これをぼくの職場の人間が聞いたら、頭がいかれているか、そういう趣向でもって客をもてなす店だと思うに違いない。
 しかし、違うのだ。
 ヒトではない人は、確かに存在する。ぼくが確かにこの目で見たのだから、間違いない。
 ひっそりと生き、深い知識を湛え、夜を愛し、そして血を嗜むもの――
 吸血鬼。「プライベート・ブラッド」は彼らに会うことが出来る店である。

  ◆

 この会員制クラブの存在を知ったのは、ぼくが仕事の会合に出向いた時だ。 ロレーヌでの会合で出会ったドイツ人の男が、美しい少女を連れていた。
 大学の教授と名乗った彼の助手かと思い、いやに美しい娘だなぁとまじまじと見てしまっていたら、そんなぼくの不躾な眼差しに気づいた彼が、ワインくさい息とともにこう言ったのだ。

「美しいだろう」

 なんともストレートな物言いだった。しかし、金の髪を背中の中ほどまでヴェールみたいに垂らし、エメラルド色の瞳をきらきらと輝かせる少女の顔を見てしまっては、その言葉を否定することなど出来やしない。本当に、作りものみたいにきれいな子だったのだ。
 ぼくは頷いた。すると、男――ドイツの某大学の教授は、にやりと満足げに口の端を吊り上げた後、少しだけ辺りを気遣うように視線を彷徨わせた。

「?」

 いったいどうしたのだろう――ぼんやりと考えていると、不意に男の顔が近づいたのでびっくりした。
 もごもごと、男の口ひげを蓄えた上唇が動く。

「これはね、きみ、人間ではないのだ」
「は――」

 思わず、持っていたワイングラスを取り落とすところだった。それに気づいたのだろう、娘がぼくに手を差し出してくる。促されるがままグラスを差し出すと、その空いた手でぼくは思わず頭を押さえていた。
 酒が入っているからとはいえ突飛なことを言い出すものだと思ったのが一つ。もう一つは、その男の言葉に、ほんの少し――本当に少しだが、思い当たる節があったのだ。
 昔読んだ文献に、とある学者に人ならざる恋人がいたらしい、なんて書いてあったのを思いだしたのだ。それが動物であったらまだよかった。しかしその生き物は人間のように長い四肢を持ち、二本の足で立ち、言葉を操り、そしてなにより、美しい造作であったらしい。
 それから、こんな噂を聞いたこともあった。上層階級――政治家や上流貴族では、「妙なもの」を飼う遊びが流行っている、と――。

「聞いたことがあるような顔だな」
「昔読んだ……とある学者の妻が知人にあてた手紙で、こういった一節がありました……。『その者は夜にしか来ないのです。なんと嫌なやつでしょう……わたしよりもうんと美しく、可憐なその女は、犬のような歯を持ち……』」
「少しテラスに出ないかね」

 舐める程度しかワインを飲んでいなかったのに、男の声はいやに馥郁ふくいくと響いた。同じ言葉が淑女から出ればもっと魅力的であっただろうに、しかし、その時のぼくには、どの美女の誘いよりもうんと断りがたいものに聞こえた。
 外に出るという言葉に、娘は近くのギャルソンを呼び止めると、無言のままグラスを盆に置いた。
 テラスに出ると、夜風が火照った体に気持ちよかった。近くにあるヴォージュ山脈から吹き下ろしてくる風だ。

「ドロテア」

 そう言って、男は追従してきた娘に声をかけた。ドロテア――それが、彼女の名であるらしい。

「証拠をお見せしてやれ」

 ドイツ人独特の早口の英語でそう言うと、男はまた小さくにやりと笑った。楽しげな笑みであった。
 男の言葉に、娘は先ほど空になったばかりの両手をするすると持ち上げた。ふんだんにフリルの寄ったグレーのナイトドレスの袖が、ゆうらりと夜風に揺れる。
 顔の高さまで手を持ち上げると、ドロテア嬢はそのシルクの手袋が口紅で汚れるのも厭わぬ様子で、口の端にちょんとそれぞれ両の人差し指の指先を押しつけた。
 にんまりと無理矢理に笑い顔を作るように、細い指先で口の両端を吊り上げる。
 花色の可憐な唇が開いて、真珠のような歯と、その奥に濡れた赤い舌が見えた。
 どことなくエロティックな光景に、ぼくが思わず顔を背けかけた、その時であった。
 彼女の唇の端――犬歯の辺りに、きらりと室内からの明かりを反射させるものが見えた。
 犬歯にしてはいやに尖っている。それこそまるで、犬のように、ある種下品なほどにつり下がった、その両の歯――

「牙……?」

 震える声で、ぼくは思わずそう口にしていた。
 言葉に応じるように、ドロテア嬢が手を離した。そのさらさらとした髪を、よくやったと言わんばかりに男の大きな手が撫でる。

「その文献に出てくる『吸血鬼』がこれだ。ドロテアだ」

 娘の美しさも、この男のどことなく人の悪そうな声も態度も、あの時からずっと、悪い夢であればよかったと思い続けている。けれどもそれは確かに現実で、ぼくはいつの間にかからからに乾いていた喉を必死に動かして、いったいどうやって引き取ったんです、なんて言っていた。

「こういう生き物を『吸血鬼』と言うらしいんだが、とにかくまぁ、こういう連中と引き合わせてくれる店が存在するのだ。きみのいるパリにも」
「そんな、まさか……」

 酩酊したように、頭がくわんくわんと揺れる。観音開きの大窓を隔てた向こう側では、今もオーバン先生がなにやら楽しげに話をしているって言うのに、ぼくはどうしてここでこんなたちの悪いおとぎ話を聞いているのだろう。

「信じられないというのなら、一度確かめてみたらいい。見た感じ、興味がない訳ではなさそうだ」

 そう、それが一番の問題だった。
 酔っていらっしゃるのですね、お嬢さんフロイラインが困っていらっしゃる――そう返してやれたら、どんなにかよかっただろう。だのにぼくときたら、なにか悪いものに取り憑かれた人のように、飢えたけだもののように、その話の先を欲しているのだ。

「クラブには入会資格が必要だが――あなたなら問題あるまい。聞いたところ、ご実家は余裕があると言うし」
「……商人の家ですよ。貴族じゃない」
「大陸でずいぶん儲けたという噂じゃないか、ドゥブレ商会は」

 父のことを話題に出されるとは思っていなかったが、その店――つまり「プライベート・ブラッド」に入るためには家柄や当人の社会的地位、持っている資産などの審査が必要で、無事に承認を得た者にしか入店はおろか、店の場所すら教えられないのだと知ったのは、彼の説明を受けてからであった。
 砂漠で水を見つけた旅人のように夢中になって話を聞くぼくの顔を、ドロテア嬢の透いた深緑色の瞳がじいっと見つめている。蔑むような、憐れむような――しかしどこか興味のなさそうな、そんな冷めた眼差しであった。

  ◆

 結局、男から仲介人と呼ばれる人物の連絡先を教えてもらったのは、会合が終わってから三週間後も経った後であった。男ですら、パリの店の場所は知らないのだと言う。
 「プライベート・ブラッド」――正確にはクラブには名がついていないらしいので、これはあくまで客側が勝手に呼び始めた通称であるのだが――は、いつの頃からか現れた、人ならざる者、「吸血鬼」と呼ばれる生き物たちを保護、管理してきた団体であるらしい。
 吸血鬼と言ったって、昔からの伝承にあるような「太陽の光を浴びると灰になる」だとか「コウモリに化けることが出来る」だとか「銀に弱い」という訳では決してなく、ただ人間の生き血を好むという性質上、夜行性である者がほとんどというだけで、「血を吸う」こと以外は普通の人間とまったく変わりがないものだそうだ。
 ぼくも吸血鬼たちと会うまではにわかに信じがたいことであったが、実際に会ってみると、彼らはただの人間にしか見えなかった。
 血を吸うと言ったって、その吸う血にも相性があるらしく、相性がいい相手以外からは決して生き血を吸わない。
 否、吸えない、と言った方が正しいのか。ぼくにはよく分からないが、どうやら本能的にそういったものが備えつけられているらしく、相手が見つかるまでの彼らは、裏ルートから仕入れられた血液を飲んで生活をしているそうだ。
 クラブは、そんな彼らと相性のいい人間を見つけるという名目の元、日々ぼくたち会員を招き入れる。つまり、ぼくたち人間の好奇心と、彼ら吸血鬼側の生活のためという利害の一致だ。
 どうやら相性というのは、血の味を見ずとも、相手をひと目見ただけで分かるものらしい。クラブでは日替わりで吸血鬼たちがぼくたちを接客してくれるのだが、そのうちにぴんと来る相手というものが見つかる時があるのだそうだ。そうなると、仲介人が出てきて、彼ないしは彼女を引き取りませんか、と人間側に持ちかけるのだと言う。
 客を取っている者が人間でないという最大の特徴こそあれ、店自体はあくまで会員制のクラブである。なので、店に入る度に誰か――吸血鬼の「誰か」を供にするかどうか聞かれる。店の中には既に何人も吸血鬼を侍らせている紳士や、美しい少年の手を取る貴婦人などの姿もあったが、ぼくはどうにも慣れなくて、最初の一度以外は誰の酌も受けていなかった。
 他の誰かを見送ったらしい、気怠げな雰囲気を纏ったブロンドの美女が、入り口の脇の柱にもたれていた。
 胸の大きく開いたドレスから、薄暗い店内からは不釣り合いなほどに白く光る桃色の肌が覗いている。なんとも言えぬ色香に情事の残り香を感じて、ぼくは垂れ目がちの視線から逃れるように顔を俯かせた。
 ――多額の「援助」をすれば引き取らずとも吸血鬼と夜をともにすることが出来るという噂は、本当のようだ。
 ぼくの反応を面白がっているらしい、彼女は耳の横で巻き毛を揺らしながら、ひらひらと手招きする。その手首で、この店で吸血鬼を示すくすんだ金のタグつきブレスレットが揺れていた。
 必死に首を振って、くすくすと笑う声を背に早足で逃げ出す。途中でギャルソンを捕まえてブランデーをもらうと、ぼくはそのまま螺旋階段の上にあるテラスへと向かった。
 ここ一ヶ月くらいは、ずっとこうだ。
 吸血鬼とも、人間ともまともに会話していない。確かにぼくは吸血鬼を求めてここに来ているはずなのに、彼らとうまく話が出来なかった。
 男のコネを使って、己の贅沢を削って会員権を手に入れたのに、まったく活用出来ていない。
 テラスには、学校を出た時よりも少し冷たくなった風が吹き込んでいた。入り組んだ路地の建物の隙間から、細くセーヌ川が見える。
 表からはそんな風には見えないのに、こうして外の景色を楽しむことが出来るテラスが備えられているのが不思議だった。地下にも部屋がある様子だし、いったいどんな構造をしているのだろうか。週に少なくとも一度は通っているのに、一向にこの店の全容が掴めないままだ。
 今夜こそ、大ホールのソファで暇をしている吸血鬼でも掴まえてみようか。少しくらい彼らに慣れないと、一生このまま一人で酒を飲んで終わってしまう気がする。
 このグラスを空にして景気をつけよう。半ば自分に言い聞かせるようにしながら、グラスを口元まで持ち上げた、そんな時だった。
 ふらふらと、奥の廊下から一人の男が歩いてきた。
 ひどく美しい、若い男だった。少し金が強い、うなじの辺りまでの癖のあるアッシュブロンドをふわふわと揺らしながら、テラスの窓際沿いを幽鬼のような雰囲気で歩いている。
 シルクのシャツのリボンタイが、彼が歩くのにあわせて髪と同じリズムで跳ねて踊る。青い瞳は涼やかで、少しだけ眠そうだった。
 見た感じ、二十を幾つかすぎた頃か。
 ひどく美しかった。美しいだけに、いけない、と思った。
 ぼくは、だめなのだ。
 有り体に言ってしまえば、ぼくには少年性愛の嗜好がある。いにしえのギリシャで流行ったあれだ。
 美しい、若い苗のような伸びやかな体。まだ世間の汚れを知らぬ、傲慢な愛らしさ。それらは愛でるに値するものだと思っている。
 しかし、ぼくの少年性愛は、少なくとも現実では性的なそれを含まぬものであった。ただ、彼らを近くから見守り、眺めるだけで、ぼくの心は温かいもので満たされる。
 しかし、若く美しい男はいけない。その年の頃と容姿の好みにもよるが、美しさは罪だ。ただの青年には食指は動かないが、美は全てを惑わす。この国の者ならば抗うことなど出来ない、性だ。
 その上、若いとなると厄介だ。何をしてもいいのではないのかと、そんな錯覚を抱いてしまう。
 その若い男が、憂いを含んだ瞳を、ふとこちらへ向けた。
 それまで、正面やら、テラスの向こうやら、視線を遊ばせていたのに、ぼくを見つけるなり、そのぼうっとした眼差しをこちらに固定させてしまった。
 そんなに中国系が珍しいだろうか。

「……きみ?」

 じっと見つめられるのに困って声をかけると、彼はぼくの手の中のグラスと顔を見比べてから、つと視線を外へ向けた。
 その意味ありげな仕草に、ぼくは頭の中を疑問符でいっぱいにさせた。窓の外に何かあるのだろうか。
 テラスの桟に置いた白い手とドレープのたっぷり寄った袖口の間で、きらりとタグが光った。
 彼は吸血鬼なのだ!
 ぼくの驚きなど知らぬ彼は、テラスの向こうにある橋の群れをぼうっと眺めていた。まるで興味がなさそうな顔をしているけれども、景色から視線を外すことはない。セーヌ川が見たいのだろう、とぼくはなんとなく直感で思った。

「きみ、外が見たいの?」

 緊張で声を震わせながらたずねると、彼は胡乱な瞳をこちらへやって、こくりと一つ頷いた。

「そうか……でも、入り口から出るのは……」

 彼らはほとんど店の外に出ることはないと聞いた。特例があって外出する際は、必ず店の人間が付き添うことになっているらしい。
 ぼくが来た道を引き返せば、当然あの女性が立つ入り口から出ることになる。タグを隠したって、彼らにはここにいる吸血鬼くらいひと目でばれてしまうだろう。ぱっと見た感じ一.八メートル近くありそうな背丈だから、なおさらだ。
 ぼくがうんうん唸っていると、彼の白い手が動いて、ぼくの手をそっと握った。びっくりするくらいに体温が低かった。

「……裏口でもあるのか?」

 静かな瞳からなんとなく意図を察して問いかけると、細い顎先が上下した。店の者にしか分からない、通用口のようなものがあるのだろう。

「ええと」
「Cyrille」

 小さな、しかし決して籠もってはいない、落ち着いた声だった。 くん、と糸で引くような所作で、彼は腕を引いた。彼の方が背丈があるから、どうしたってぼくはつんのめって引きずられるような形になる。

「シリル?」

 聞き返すと、再び顎が上下した。

「ぼくはケイだ。ケイ・リー・ドゥブレ」

 ◆

 どこをどう通ったのか分からないまま通用口を出て(なんと通用口はどこかの商店に繋がっていて、ぼくたちは明かりの消えた店の入り口から街に出た)、川の方角へ向かう道すがら、ぼくはずっとしゃべっていた。
 彼――シリルは無口なたちのようだし、ぼくはぼくで緊張しっぱなしだった。美しい吸血鬼と二人きりというだけで、ぼくのノミの心臓は押し潰されそうだった。
 一方的に、色々なことを話した。国立大学で地質学を教えていること。アジア系だから学生と間違われてしまうが、三十を越していること。クラブの話は学術会で他の大学の教授から聞き、紹介してもらったこと。まだ教授でもないぼくが入会出来たのは、恐らく中国との貿易でそれなりの地位を築いた亡父の名と遺産のお陰だろうということ。ぼくのアパルトマンは十区で、大学へは乗り合い馬車で通っていること。
 そこまで話すと、いよいよもって会話の種が尽きてしまった。そもそも、先述の通りぼくには勉学以外なんの取り柄もないのだ。
 気まずいなぁ、と思ったが、彼の方はなんとも思っていないような顔でぼくの後をついてきている。
 本当に表情の読めない子だった。今まで一度も見かけたことはなかったが、もしかしたら、この愛想では接客はあまりしてこなかったのかもしれない。

「どっちに行こうか」

 十一区からは、北――つまり十区の方へ向かえばセーヌ川の支流である運河に行き当たるし、南へ歩けば先ほど通ったセーヌ川に辿り着く。
 どちらがいい、と尋ねても、シリルの反応は鈍いものだった。そもそも、どちらになにがあるか分かっていないような顔をしている。

「……きみ、パリの地図を見たことは?」
「あまり」
「そうか……。店から出たことは」
「あまり」
「……」

 思わず天を仰いでしまった。店からろくに出たこともない癖に、よくもまあ外に出たいなんてわがままを言ったものだ。

「ケイ」

 名前を呼ばれて、どきりとした。落ち着きはらった、受け取りようによっては朴訥とした口調であるのに、どうしてだかこの声を聞くと、ぼくの胸がどきどきするのだ。緊張しているせいだろうか。

「……の、家は」
「十区だ。……ええと、ここから北。セーヌ川ではないけど、運河があるよ。この時間に見て楽しいものか分からないけども」
「じゃあ、そっち」

 言って、再びシリルがぼくの腕を引いた。しかし、そちらはセーヌ川の方である。

「……どっち?」
「そっちでは、ないな……。おいで」

 腕を引いてくる手を一度ほどいて、ぼくは手を差し出した。当たり前のように握られる。
 もしこれを生徒か教員仲間に見られたらなんて思われるだろうか、と思ったが、気にするのはやめだ。万一目撃されたら、酔っていたのだと言い訳すればいい。
 ここから十区のサン・マルタン運河まではそこそこある。しかし、細い道を選んで歩いているからか、すれ違う人はまばらで、酔っぱらいか、帰る家のあてのないような連中だけだった。

「ケイ」
「うん?」

 隣を見ると、少し上にある彼の頭が、少しだけこちらに傾いていた。

「髪。きれいな黒」

 名前で気づかなかったのか、それとも、そういうことも知らないのか。クラブにいる吸血鬼たちはそれなりの教養があると聞いていたけど、シリルには躊躇し踏み留まる、ということはないらしい。教養の有無に関わらず、そういう性格なんだろうか。

「……さっき、アジア系だと言っただろ? 母が中国人でね。父があちらへ行った時に見初めたらしい。ぼくが物心つく頃には病気で亡くなってしまったけど、いい母だったよ」
「ふぅん」

 聞いておいて、非常にどうでもよさそうな相槌だった。今のは単に、思いついた疑問を聞いただけなのかもしれない。
 無遠慮であったが、嫌いな感じではなかった。不快感を思わせるような品のなさは、シリルにはない。

「それにしても、寒いだろ、きみ」

 シリルはこの冷える春の夜に、シルクのシャツ一枚だった。慌ててフロックコートを脱いで押しつける。シリルはやはり、なぜ渡されるのか分からないというような顔をしていたが、ぼくが風邪を引くぞ、と言うと、やっと袖に腕を通した。

「……吸血鬼は体感温度も違うのか? それとも体温が違うとか?」
「楽しかったから、気にならなかった」
「……」

 ぼやきに殺し文句を返すなんて、卑怯な子だ。やはり一応の手練手管は店から教わっているのだろうか。それとも、本心なのか。

「さぁ、そろそろ着くよ。夜の運河なんて、人もいなくてあまり楽しくないと思うけど……」

 ぼくばかりしゃべっていたけれども、それでも一キロ弱は歩いていたらしい。段々と、サン・マルタン運河にかかるアーチ型の橋のシルエットが大きくなってきた。
 飲用水のために造られた人工貯水池ラ・ヴィレット貯水池とセーヌ川を繋ぐこの運河は、出来てからまだ数十年ほどである。昼間は荷物を載せた船が頻繁に通っているが、こんな夜更けとあっては、船の姿はおろか、当然だが散歩をしている人すらいなかった。
 町並みのすぐ横に通っている運河とそこを通る船の姿はぼくお気に入りの景色の一つではあったが、夜の運河は明かりもなく、少し不気味な雰囲気すらたたえて、静かにそこで佇んでいた。

「橋から見てみるかい? それとも水面の近くを見てみる?」
「両方、見てみたい」
「分かった」

 この運河の象徴と言ってもいい、鉄製のアーチ橋に向かう。深緑色に塗装されている橋も夜闇の中ではほとんど黒く、試しに上がってみたものの、覗き込んだ水面は距離が近いだけに、店に入る前に見たセーヌ川以上に黒々としていた。まるでシロップ状の闇である。
 シリルが橋の手摺りを掴んで、ぐんと伸び上がった。そのままかくん、と体を真ん中から折り曲げて、身を乗り上げて下を見下ろしている。

「シ、シリル」

 人気がないとはいえ、いやだからこそ、危ない。そんな風に下を見ていたら、首元で結んでいるタイが落ちてしまいそうだった。

「そんなに水が見たいなら、もっと近くに行こう」

 ほら、と腕を引いて、橋を降りる。運河は道から少し低いところに作られているのだが、少し歩いたところに、水面の近くを歩ける遊歩道のような部分がある。
 二の腕の辺りを引っ張り、歩いていると、後ろから少しだけむずがるような気配がして腕が振りほどかれた。

「すまない、力が強かった?」

 急ごうとするあまり、強く引っ張ってしまったのだろうか。一度振り返り謝ると、シリルはぶん、と一度首を横に振ったかと思うと、先ほどのように手を絡めてきた。

「こっちがいい」
「……そう」

 もしかしたら彼は、ぼくが誰の酌も受けないのを焦れったく思ったドアマンの彼女か誰かの采配で、こんな風に接しているんじゃないだろうか。きっとそうだ。そう思った方が、変に意識せずに済む。
 そこまで考えて、はっとした。ぼくは彼を意識しているのか。例えば異性に抱くように、恋愛や情愛の対象として。

(有り得ない)

 こんな、別世界からふらりと現れて、帰り道が分からなくなったからここにいるだけのような美しい生き物が、ぼくの腕の中にいてくれようものか。
 数段の短い階段を下り、細長い広場のようなところに出る。日中は若い子がこの運河沿いのところに座って話をしているものだと説明すると、シリルは迷うことなく運河ぎりぎりのところで膝を折った。

「……冷たい」

 それはそうだろう。まだ春先だ。
 細い指が、黒い水の表面を撫ぜるように動く。まるで黒いベルベッドをナイフが切り裂くように、暗い景色の中に白い手が光るように突き立っている。

「うつくしい」

 思わず、呟いてしまっていた。
 数歩の距離が永遠のように思えた。それほどに、彼とその周囲はこの夜から浮いていた。
 別世界のようだった。違う場所の景色が、蜃気楼のように浮かび上がっているのではないだろうか。余人の入る必要もない、完成された、絵画のような美しさであった。

「運河が?」

 蜃気楼が揺らめいて、その中の人間がしゃべった。
 ぼくの頭の中で薄氷にひびが入るような音が鳴って、世界が崩れた。なにかに押されたように、ぼくはつんのめりながらシリルに近づく。

「まさか」

 近づくと、彼が未だに水をかき混ぜている音が耳に入った。どうやら、ぼくはそんな音も聞こえないほど夢中になって、彼のことを見つめていたらしい。

「きみがだ」

 眠たそうな青い瞳が、少し驚いたように見開かれる。ぼくとシリルの距離は、もう二歩くらいになっていた。
 水に紋を作っていた指が離れて、ふわりと宙を舞った、ように見えた。
 否、見えた訳ではなく、実際に宙を舞っていた。しかしそれは指だけではなく、彼の体全体であった。
 飛び込んだのだ。この春先の、冷たい運河の中へ。

「わ、わ、わっ!」

 持っていた鞄が、どさりと間の抜けた音を立てて地面に落ちる。しかしそれに構うことなく、ぼくは慌てて道の縁ぎりぎりまで進んで身を乗り出した。
 シリルは、泳ぐでもなく、ただ漂っていた。もしかしたら、あまり泳げないのかもしれない。
 首元を飾っていたリボンが、闇と見紛うような水の中で花弁のように浮いている。ふわふわと遊んでいた髪は、水しぶきを浴びたせいでしっとりと濡れ、頬や額にくねりながら張りついていた。

「バ……」

 馬鹿じゃないのか、と言いたかった。それなのに言えなかったのは、ただ、なにを思うでもなく、くらげのように水に浮かんでいる彼が、やはりどうしたって美しかったからだ。
 差し出した手を、シリルが掴む。両手を使って強く引き上げると、ずるりとシリルが浮かび上がった。センスのない釣りみたいだ。

「……ありがとう」

 濡れた靴が、黒い足跡をつけながら地に降り立つ。飛び込み方が上手かったのか、顔はあまり濡れていなかったが、その分全身水浸しだった。――もちろん、貸していたぼくの黒いフロックコートごと。

「きみって……やつは……」

 水で重くなった長身を引き上げるのは、それなりに力が要る。お陰でぼくはくたくただった。
 それでも、腕が伸びた。ぺたりと水際に座り込んだ背に両手を回し、抱きしめる。

「ケイ」
「運河に飛び込むやつがあるか、まったく……」
「入ってみたらどうなるのか、気になって」
「……」
「これからは、気をつける」

 これからって、なんだろう。
 ぼくと彼は、きっとこの夜だけだ。それなのに、その「後」の話を、まるで当然のことのようにシリルは口にしている。
 濡れた髪が頬に触れる。すっと通った鼻筋が近づいて、まるでじゃれる動物のように鼻筋同士を擦られた。
 もしこれが女性相手であったならば、ぼくは迷わずその頬を手でくるみ、口づけていただろう。
 しかし、出来なかった。
 相手が男だからという訳ではない。絵画から抜け出したようなこの青年が自分にここまで近づき、触れてきているのが信じられず、動けずにいただけだ。
 キスをされるかと思ったが、しかし、至近距離にあった顔はあっさりと離れていく。
 安堵するような、惜しいような、複雑な気持ちだった。それはきっと、キスのチャンスを逃したからだけではない。今宵限りの彼自体を、ぼくは惜しんでいる。

「……濡れた体で、店まで戻れないだろう」

 ぎしぎしと軋む手の動きとは相対するように、口からは滑らかに言葉が転がり出た。
 戻れない、ではない。戻ったらぼくが怒られるだろうし、それに、ただ、ぼくは。

「ぼくの家は、ここから歩いてすぐだ」

 ぼくは、シリルという男をあの場所へ帰すのが惜しいのだ。

 ◆

 幸い、濡れ鼠になったシリルと、そんな彼を抱き留めたせいでジレとシャツが湿っているぼくを目撃した人物は誰一人とていなかった。
 運河から五分ほども歩くと、白茶けた焦げ茶の煉瓦に、くすんだピーコックブルーの屋根のアパルトマンが視界に入った。ぼくの愛する我が家である。
 これがまだ日のあるうちで、かつぼくに精神的な余裕があったならば、この物件を気に入って空き部屋が出るまで待ったことや、大家の妙齢の女性のしとやかな上品さなど話してやれるのだが、それよりもしっとりと濡れたシリルをどうにかする方が先決だ。それに、彼がそういった世間話に興味があるようにも思えない。
 入り口をくぐり、集合ポストから無造作に朝取り忘れた新聞を掴む。去り際に慌てて拾った鞄から鍵を出し、なるべく音を立てないようにしながら石造りの階段を二階層分上がると、左側の部屋がぼくの家だ。

「……どうぞ」

 鍵を開け、先にランプだけ点けてやってから入るように促す。彼の後を追うように部屋へ入ると、思い出したように疲労感が押し寄せた。
 座って紅茶でも飲みたい気分だったが、そうする訳にもいかない。早足でベッドルームに向かうと、クローゼットを開け、タオルを出す。振り返ると、後をついてきたシリルが、所在なさげに開け放ったドアの前に立っていた。

「コートを脱いで。それから、靴も」

 彼が歩いてきた後に、ぽたぽたと水滴が落ちている。このまま立たせていては、今度はぼくの家が水浸しだ。
 タオルを差し出し、まずは髪を拭くように言いつける。脱いだコートは乱暴にバスルームへ投げ、靴は少し悩んだ後、中に布を詰めてベランダに出した。細くて小さなベランダだが、あってよかったと思ったのは今日が初めてかもしれない。
 ベッドルームへ戻り、再びクローゼットを開け、寝間着に使っているシャツとズボンを出す。上背こそ違うが、肩幅は同じくらいだ。袖は足りないかもしれないが、ないよりましだろう。

「……服を」

 これを言うのには、少しばかり勇気が要った。
 シリルの方はなんとも思っていないらしい。うん、と頷いて、リボンタイをほどき、ぼくの前で難なくボタンを外していく。
 なんとなく、直視しているのが憚られた。彼の裸を見るのが怖かったのだ。
 ぼくの服も、段々と重くなっているような心地がする。慌ててジレを脱ぎ、先にハンガーに掛けたところで、衣擦れの音がして、シリルのシャツが床に落ちるのが分かった。
 拾ってやって、ハンガーに掛けて干さなければならない。つまり、逸らしていた顔を彼の方へ向けなければならない。

「ケイ」

 ままよ、と首を戻す前に、声がした。
 ひたり、と頬に手が触れる。濡れたからか、ひどく冷たい手だった。
 流麗な動作でもって、頬をくるまれ、顔を戻される。垣間見た裸体に息を呑む前に、ぼくの唇にやわらかいものが触れていた。
 口づけられている。今度こそ、彼はぼくにキスをしていた。
 触れるだけの、しかし唇を押しつけ、鼻先を擦り合わせる濃厚なキスに、頭がくらくらした。思わずこちらから舌を差し入れると、ん、と彼が鼻先から息を漏らす
 この人形のような、美しい青年が、あの落ち着いた声をくぐもらせている。それだけのことに、ぼくははしたなくも興奮していた。

「……我慢、したかったんだけど」

 唇を離して、彼がぽつりと言葉を漏らす。長いキスの後だと言うのに、息は荒れることなく、落ち着いたものだった。

「え?」

 我慢したかった、なんて、こちらのせりふだ。
 キスをされて、それもこちらから仕掛けたことにも応えられてしまっては、その先を期待してしまう。彼はぼくのものでもなんでもなく、店に返さなければいけないのに、だ。
 シリルが、どん、と突き放すようにぼくの体を押した。不意のことで反応出来ず、体が背後――ベッドへ倒れ込む。
 ぎし、とベッドの安いスプリングが音を立てる。シリルが素足の膝を立てた音だった。
 気づけば、ズボンも脱ぎ落として、彼は下着一枚の姿になっていた。その裸体の、むだな肉など一つもついていない、しかし痩せぎすという訳でもない、見事に均整の取れた体つきに一瞬目を奪われている隙に、今度は軋む音とともにぼくの顔の横に彼の腕が突かれる。

「……我慢、出来そうにない。ごめんね」
「な、なにが――」

 もしかして、自分がはしたないとでも思っているのだろうか。それならお互い様というか、キスだけで興奮し、今もその裸の胸をちらちらと見てしまっているぼくの方がよほどはしたない。
 シリルは、少しだけ眉根を寄せた。今までずっと乏しかった表情の中で一際目立つ、苦悩と苦痛の表情であった。

「においが、ずっとして」
「におい? ぼくの?」
「そう。……だから」

 ぱかり、と彼は歯科検査でも受けるように口を大きく開けた。
 赤く先の尖った舌が、唾液で艶めかしく濡れている。しかし、それよりもぼくの目を引いたのは、その上にある、太った三日月型をした一対の歯であった。
 牙だ。今も手首で揺れているタグなど必要ないくらいに、ぼくに彼を吸血鬼だと知らしめてくる、それ。
 それが、唇とともに微かに動いた。その動きを追いかけるように、舌先から声が零れる。

「食べるね」

 それは、問いかけでもなければ、許しを求めるものでもなかった。これから行うことに対する宣言であった。
 言葉の通りに動いた口が、再び大きく開く。そのまま、甘えるように顔がぼくの肩口へ沈む。

「きみ――」

 彼が「なにか」する前に、慌ててぼくは言葉を紡ぐ。

「『そう』なのか?……ぼくが?」

 言うと、肩口で顔が動いて、少しだけ顎先を上げてシリルがぼくを見上げた。少しだけ面倒そうな、だるい動きなのは、食事を邪魔されたからだろう。

「うん。多分」
「……そう、か……」

 吸血鬼は、血の相性のいい人間はひと目見れば分かると言う。
 だから彼は、ぼくを見た時に驚いたのだろう。
 途端に、彼のこれまでの振る舞いに説明がつくように思えた。アプローチの方法こそいささか突飛なものの、要は彼は、不意に視界に飛び込んできた極上の餌を、なんとしても手放したくなかったのだろう。

「はは……」

 思わず、乾いた笑いが漏れた。
 なんとも単純な話じゃないか。色々と考えたのが馬鹿らしくなるほどだ。

「いいよ」

 言いながら、スカーフを緩め、ボタンを幾つか外す。仕上げとばかりに首筋を見せつけるように顎を仰のかせ、ぼくは言ってやる。

「ぼくの血でよかったら、食らってくれ」

 視界の端で、薄桃色の唇の両端が僅か、上向いた。とてもささやかなものではあったが、初めて見た彼の微笑であった。
 顔が肩口に埋まる。湿り気の残る髪がさわさわと首をくすぐった。
 まるで獲物のにおいを堪能するように、しばらくシリルは首筋の辺りに鼻を押しつけていた。先ほども「においがする」と言っていたが、そんなに血のにおいがいいのだろうか。
 ぺた、と舌先が首筋に触れた。まるでこれから食む場所を慣らすように、ぺちゃぺちゃと音を立てて首の一部分を念入りに濡らされる。
 ひやり、と感触がした。歯だ、と思ったその瞬間には、冷えたような感覚は、一転して燃えるような痛みに取って代わっていた。

「あ、あ、――!」

 思わず、爪が手のひらに食い込むのも構わず、拳を強く握っていた。そうするほかに、痛みを散らす方法が思いつかなかったのだ。
 あまりの痛みに、つま先がぴんと立っているのが自分でも分かる。
 めりめりと、先の鈍った小さな刃物が体にゆっくりと押し込まれているような心地だった。鋭い牙で愛撫するように甘噛みするとこうなるのだろうか、わざとゆっくりやっているのではないかと思うくらいに、痛みは長く強く続く。

「ん……」

 鼻から漏れた吐息が、噛みつかれた場所の上を温かく湿らせる。そのくすぐったさが、すぐ下でずきずきと響く痛みと、あまりにもアンバランスだった。
 こく、と近くで喉が鳴る。本当に血を啜っているのだ、と思うと、さっと血の気が引いた。
 再び、強く拳を握る。力を籠めすぎるあまり感覚がなかったが、思わず遠ざかりかける意識を繋ぎ止めるには、それ以外に思いつかないのだ。

「ぐ、うっ……」

 噛み締めた唇が、ぷつりと小さな音を立てた。次いでじわりと温かくなったのは、噛み切ったそこから血が滲んでいるからだろう。
 ふと、首の痛みがほんの僅か、軽くなった。
 恐る恐る横を見遣れば、首元から顔を離したシリルが、じっとぼくの方を見ていた。
 ふわりと、羽が触れるようにやわらかく口づけられる。去り際にぺろりと下唇を舐められたのは、唇を噛んだのを見たからだろう。

「……美味しい」

 夢見るような、恍惚とした口調だった。
 あの彼が、こんなにもなにかしらの感情を含めて言葉を発することが出来るなんて、それもその原因がぼくの血だなんて、妙な感動すら覚えそうだ。
 歯の形に空いた穴の痛みが、じくじく、ずきずきと響く。伝う血が、シャツを濡らして気持ち悪い。だがぼくは、痛みにも、止血されないままの傷口にも構うことなく、上半身を起き上がらせていた。
 シリルの肩に手を置き、のしかかってくる彼にキスをしてやってから、ぼくは言う。

「……させてくれ。その、セックスを」

 シリルはなぜ、とは言わなかった。だが、ズボン越しにぼくのそれにやんわりと手をやると、そこに血が集まりつつあるのに気づいたのだろう、不思議そうに少しだけ首を傾げさせた。

「噛まれて興奮した。……と言うか、ぼくの血を吸うきみに欲情した」

 そんなことを言われると思っていなかったのか、ぱち、とシリルが一度だけ瞬きをした。美しい相好がほんの僅かだが崩れて、本当に少しだけども、可愛らしい雰囲気に変わる。

「……そう」
「そう。悪かったな、ぼくは変態なんだ」

 やけくそ気味に言っても、シリルは笑わなかった。
 彼の透き通った感情は、ぼくを道化にもしてもくれない。きっとなにをしても、そのままの通りに、彼は受け取るのだろう。――ならば。

「男を相手にするのは初めてなんだが、その、努力する」

 飾ることもおどけることもせず、ぼくは素直になることにした。一度火の着きかかった欲は抑えるのも億劫だし、なにより、なんとなくだが、シリルは拒まないだろうという予感があった。
 血を吸った代償に、という訳ではない。ただ、直感が――シリルとぼくの「今後」を予感させている。
 きっと、ぼくらは、今夜限りではない。

「それなら」

 言葉とともに、シリルの手がぼくの肩に触れる。
 ぺちゃ、と濡れた舌が、痺れるように痛む傷口をひと舐めした。

「まず、止血をしないとね」

 ◆

 シリルは、慣れていた。
 今まで書物の中のフィクションしか知らないぼくよりずっと、男同士の交わり方を知っているように思えた。
 ぼくだって女性を相手にしたことくらいあるが、使う場所が違う上、ぼくの家には慣らすための道具もなかった。それでもシリルは、言葉と手で巧みにぼくを導き、少なくとも言葉では、痛いとも苦しいとも言わなかった。
 一度慣らしてしまえば、その場所はまるで、こういう用途のための部位なのではないかと思うくらいに、ぼくにしっとりと吸いつき、離れなかった。
 ぼくは、夢中でシリルを抱いていた。
 シリルの態度は、セックスのさなかでもほとんど変わることなく淡々としていたが、それでも時おり、あ、とかすれた声を上げるのが、この人形じみた彼の人間らしさを垣間見るようでぞくぞくした。
 寝転がる彼の足を掴み、腰を進めながら「やはりこういったことの手順なども店で習うものなのだろうか」とぼんやり思った頃には、もう外は薄明るくなっていたような気がする。

「ケイ」

 冴えた声が、ぼくを呼ぶ。薄暗いまどろみの中から、一条の光のごとく差し込む、ある種残酷で、しかし甘美な声。
 ベッドをともにした相手に起こされるなんて、なんと幸せなことだろうか。だがしかし、ぼくは兎に角眠たかった。
 久し振りに人とセックスしたのはもちろん、これまでの怒濤の出来事と、血を吸われた疲労感が、ぼくを永遠のような眠りに縛りつけていた。

「ケイ」

 シリルの声だ。それくらいは、半分眠っている頭でも分かる。

「すまない……もう少し……」

 眠らせてくれ、と続けようとした時だった。シリルが、予想外の言葉を口にしたのだ。

「ドアベルが鳴ってる」
「……え」

 それはつまり、来客があるということだ。
 言葉を聞くや否や、ぼくは慌てて飛び起きた。
 見ると、シリルはゆうべ着ていたのと同じシルクのシャツ姿で、ベッドサイドにじっと立っていた。
 脱ぎ散らかして皺の寄ったシャツとズボンを拾い、急いで着る。ついでにハンガーから室内着のカーディガンを取り、袖を通すと、ぼくはスリッパのまま玄関へ向かった。
 通りがかったリビングには、レースのカーテン越しに暖かな日の光が差し込んできている。時刻は昼前と言ったところか。ぼくはずいぶんと眠っていたらしい。
 しわくちゃの服で出ては、きっと来客者にだらしのない男だと思われるだろう。しかし、ドアベルが鳴っているのに、待たせる訳にもいかない。現に玄関へ辿り着くと、ぼくを急かすように、コン、と硬いノックの音が響いていた。

「は、はい!」

 ノブを掴んで、一息にドアを開く。

「おやおや」

 シリルとはまた違う、少し高いが、落ち着いた声だった。

「ずいぶんな色男ぶりだね、ドゥブレ先生」

 美しい少年だった。濃い金の髪は眉の辺りまで前髪が垂れているが、重くならないように適度に梳かれ、明るいペリドット色をした瞳は目をすがめているせいでひしゃげていて、だからだろうか、少しばかり不気味な色合いをしていた。
 ジャケットとジレを着込んでいたけれど、少年に似つかわしい、明るい色合いのものである。全体的にこざっぱりとしていて、ぱっと見はどこかの資産家の子息のようだった。

「な……」

 てっきり大家さんか、荷物の配達かなにかだと思っていたぼくは、完全に固まってしまった。
 硬直した背に、つっと冷や汗が伝う。
 ぼくは、この少年を知っていた。
 ドイツ人教授から受け取った手紙の通りに、指定されたカフェへ行った際に座っていた人物――つまり、あのクラブの仲介人である。
 彼の顔を見て、ぼくはようやく思い出したのだ。
 なんの報せもないまま「商品」を外へ連れ出し、ばかりかそいつに手を出してしまったという、自分のしでかしたことの無礼さを――。

「取り敢えず、一度着替えて外に出ようか? ケイ・リー・ドゥブレ」

 「なに」があったのかはお見通しらしい、少年が、にたりと口の端を吊り上げて言い放つ。
 ぼくはなにも言い返すことも出来ずに、はい、と頷いて部屋に引っ込んだ。開いたドアを押さえて、少年が玄関先に入ってくる。

「シリル、いるんだろう?」

 少年が言うと、シリルがベッドルームから顔を出した。その横を通って部屋に入り、クローゼットから服を出す。

「ロジェ」

 少年の名前を、ぼくは初めて知った。

「先生からトランクを借りて」

 部屋の外から、ロジェの声が言う。シリルがぼくをちらりと一瞥して、うん、と返事を返した。

「トランク、ある?」
「それは、まぁ」

 出張に使っているトランクが、ちょうどクローゼットに入っている。これでいいのか、と渡してやると、シリルも言葉の意味をよく分かっていないらしい、多分、とつぶやいて首を傾げていた。
 なにも考えられないせいで、シャツにジレにフロックコートといういつも大学に行くような服装になってしまったが、そもそもぼくの服のレパートリーなんてこんなものだ。
 服を着、顔も洗っていなかったのを思い出して、バスルームへ向かう。途中に通りがかったリビングでは、まるで自分の家かのように、ロジェがソファで新聞に目を通していた。
 冷たい水で顔を洗うと、叩き起こされた余韻が少しずつ覚めていった。
 顔を上げる。鏡には、陰気な顔をした中国系の男が映っていた。ぼくだ。
 肩までの長い髪に、吊り目がちで細い目。これでもっと目が小さかったら、ただでさえ冷たく見えると表されてしまう造作が更に悪化していただろう。そこは、目の大きく愛らしい顔立ちをしていた母に感謝せねばならない。
 情交のさなかにほどいていた髪を、首の根元で適当に括る。洗面台から離れ、リビングに戻ると、ロジェはまだ新聞を読んでいた。その隣で、トランクを提げたシリルが微動だにせず突っ立っている。

「よし、それじゃあ行こうか」

 新聞を畳み、ローテーブルに置くと、ロジェは我が物顔で部屋を出て行った。
 慌てて後を追い、玄関から外廊下へ顔を出すと、ロジェの姿は既に階段の下に消えていくところであった。
 鍵をかけ、シリルとともに彼の背を追いかける。早足で階段を駆け下り、道へ出ると、なんとロジェは外に停めてあった馬車を顎でしゃくった。

「ほら、乗って」
「……」

 御者の男は乗合馬車のそれよりも身なりがよいように見えた。この馬車もクラブの所有物なのだろうか。
 先に乗り込んだロジェにならい、シリルとともに四人乗りの馬車に乗り込む。ガタガタと車輪を鳴らしながら向かう先は、やはり、十一区らしい。
 数分ほどで、馬車は十一区の大きい路地に停まった。店はこの先だが、馬車が入っていけない細い道になっているからだ。

「ありがとう」

 礼を言い降りている間に、ロジェはすたすたと店へ向かっていく。
 クラブに昼間訪れるのは、当然だが初めてのことだった。
 ドアマンの女性の立っていない入り口は、なんだか変な感じがした。そのドアを、ロジェが開く。

「入って」

 促されるまま、中に入る。店内は、夜間見るそれとは違い、薄明るい光に包まれていた。
 どこかにあるのだろう窓から明かりを採っているのだろうが、明るい店内なんて、ますます変な感じだ。
 ロジェは大ホールに向かうことなく、その手前を折れると、細い階段を上がっていった。ゆうべぼくが上がったのとは違う、見たことのない階段だった。プライベート用なのだろう。
 階段を上がると、ロジェがちらりとシリルの方を見た。

「部屋に行って、持って行きたい私物をそこに入れるといい」

 そこ、と言うのはトランクだろう。

「先生は、こちらへ」

 そう言って、ロジェは階段を下りた先にある部屋のドアを開けた。どうやら応接室のような場所らしい、小ぶりな部屋には、ローテーブルを挟んでソファが二組置いてあった。

「さ、座って」

 シリルの姿が消え――恐らく、クラブで宛がわれた私室へ向かったのだろうが――ぼくとロジェ二人きりになると、急に彼のプレッシャーが増した気がした。
 ロジェは外見だけ見れば少年だが、シリルを呼び捨てにし、軽く言葉を交わしていた。ぼくに対しても、子供が大人に相対するような態度ではない。
 最初に会い、クラブの説明をされた時からそうだった。物怖じせず、丁寧な言葉遣いをしていても、どこか威圧感がある。
 彼も吸血鬼なのだろうか。少なくとも、外見年齢とは違う、ぼくよりもうんと長くを生きているような、そんな雰囲気をしている。

「さて、起き抜けで腹が減っただろう?」

 言葉とともにドアが開いて、これまた見たことのない女性が、皿とカップを載せたトレイを持って現れた。
 キッシュと温野菜の入った皿と、紅茶がなみなみと注がれたカップをひと組置いて、無言のまま出て行ってしまう。むだのない動きで去っていった彼女の後ろ姿をぼんやりと見ていると、ほら、とロジェが焦れたように声を上げた。

「血が足りなくて調子が出ないだろう? さっさと食べる」
「……きみは、どこまで知ってるんだ」

 血が足りないことより、千里眼の言葉の方に頭痛がする心地だ。
 キッシュは、きのこと野菜のたっぷり入ったものだった。やわらかくなったたまねぎと一緒に入れられたきのこが異なる食感を奏で、美味しい。
 食事と紅茶に一口ずつ手を出すと、確かに空っぽだった胃が落ち着いた気がした。そんなに夢中になって食べていたのか、ソファの肘置きに頬杖を突いて紅茶を飲みながらぼくを眺めていたロジェが、くすりと笑う。

「さぁ、なにも。ただ、奥手の先生のことだ、外へ出たいと言ったのはシリルだろう」
「う」

 確かにそうだが、他人に指摘されるとつらい。

「と言うことは、だ。あのシリルのお眼鏡に適うのが見つかった、と言うことだろう?」
「……彼は、いつもあんなことをしてた訳ではないのか」
「まさか。どころか、あの性格だからね。人の目に触れるのをあまり好かなくて、ホールにも大して出なかった。出たとしても、本名は一度も名乗ったことがない。お客様に名を問われても、いつも適当な名乗りをしていたものだ」
「ぼくには、最初からシリルと名乗っていたのに」

 確かに他人に接客をするようなたちには見えないが、そこまでとは思っていなかった。思わずつぶやくと、だから、とロジェが頬杖を崩して手を振った。

「それだけあんたがよかったって訳。あんたの血が、って言うべきかな」
「……」

 そう言われると、妙に誇らしかった。それがたとえ相性のいい血のためとはいえ、今まで誰にも興味を示さなかったあの彼が、ぼくには興味を引かれたのだ。

「兎に角、だ。今後の話をしようか、先生」

 言って、ロジェはローテーブルの下から一枚の書類を取り出した。
 古めかしい羊皮紙に、美しいカリグラフィ体で「契約書」と頭書きがしてある。

「うちとしては、せっかく相性のいい相手が見つかったんだ、シリルを引き取って頂きたい」
「……それは、もちろん、願ってもないことだが……」

 言葉を切って、ぼくは手に持ったカップに視線を落とした。揺らめく薄紅色の中に、不安げな顔をした自分が覗いている。

「ぼくでいいんだろうか?」
「……先生あんた、手まで出しておいて今更怖じ気づいたなんて言う気じゃないだろうね」

 ソファがなければ、後ずさりしてしまっていただろう。後ろに夜の闇でも背負っているのではないかと思うくらいのプレッシャーがとぐろを巻いて、ぼくの頭上までのしかかっているようであった。

「……自信がないんだ。……吸血鬼と暮らしていく自信が」
「吸血鬼だからと言って、人と変わりはしないよ。それくらい、あいつと寝て分かってるだろう?」
「……それは」
「ああ、それとも、先生にはその『人』との付き合いが難しいのかな」

 先ほどからロジェの言葉はぼくをちくちくと刺してくる。
 だが、言い返せなかった。図星だ。ぼくには、他人と共同生活を送る自信がないのだ。
 言葉に詰まっていると、ロジェはあからさまな溜め息を吐いた。呆れられている。

「まぁ、いいけどね。ただ、あんたが引き取らなかった場合、シリルはずっとゆうべの血の味を思い出しながら生きていくことになる」
「……」
「相性のいい相手が一人しかいないなんて決まりはないけど、でも、だいたいは一生で一人しか見つからないものだ。あいつはきっと、ずっとあんたのことを忘れられないだろう」
「嫌味だな。きみも」

 思わずそう言うと、なにを言おうともこれまでずっと笑っていた瞳が、目尻をわずかに引くつかせた。

「思い上がるなよ、先生。クラブは確かに人間を相手に商売しているが、それはあくまで吸血鬼たちの幸福のためだ。あんたたちのためじゃない」

 つまり、クラブとして一人でも多くの客と契約を交わしたい、と言うより、一人でも多くの吸血鬼の相手を見つけてやりたい、と言うことらしい。

「……分かったよ。契約する」

 苛烈さを増したプレッシャーに根負けするように、ぼくはそう言っていた。
 自信なんてこれっぽっちもなかったが、だが、ぼくにはシリルを突き放すほどの度胸もない。ロジェに強く言われなかったところで、どの道、こう返事する以外に選択肢はないのだ。
 諦めたように契約の言葉を口にすると、ふっ、とロジェが笑った。勝利者の笑みであった。

「結構。それじゃあ、細かい話をしていこうか」

 そう言って、ロジェは羊皮紙の中ほどを指で示した。
 そこには、月額の会員費についてが書かれている。料金を改めるとの内容で、額はおよそ、これまでの半分ほどの値段が記されていた。

「吸血鬼と契約をした人間には、だいたいこれくらいまで値を下げるようにしている。まったくのタダって訳にはいかないんだが、それは口止め料やら諸費用ってことで理解してくれ。その代わりと言ってはなんだが」

 それにしたって、ぼくのようなしがない大学教員にとっては、ありがたいほどの値下げぶりだ。
 再び、ロジェが机の下へ手をやる。現れたのは書類ではなく、小さな紙袋であった。

「あんたになにかあって吸血鬼へ血の供給が難しくなった際の緊急用の血の用立てや、人間に渡している薬剤などはクラブから買ってもらう。まぁ、よそで用が済むものでもなし、お互い悪くない話だろう?」
「薬剤?」
「血を作るための栄養が詰まってるものでね」

 がさがさとロジェが紙袋を開ける。中から出てきた小ぶりの薬瓶には、いかにもな赤黒い色をした錠剤が詰まっていた。

「気が進まないだろうが、血が足りなくて倒れてはあんたも困るだろう? 最初のひと瓶は差し上げるから、定期的に飲むといい」

 思わず顔をしかめたのを見ていたのだろう、ロジェが眉尻を下げて微笑んだ。

「さて、こっちとしてはこれくらいだな。先生、質問は?」

 ざっと紙面に目を通してみたが、クラブに入会した際に見せられた規約――他言無用などを更に念押しするような内容ばかりで、目立って気になるような箇所はなかった。強いて言えば、契約者としてシリルとぼくの名前が入っているくらいだ。

「特に。……と言うか、思いつかないな」
「まぁ、なにかあったらいつでも店に来るといい。契約してもクラブに通うやつもいるしね」

 ぼくにはそこまで器用なことは出来ないが、いつでも相談出来るというのは気が楽だった。

「では、サインを」

 三度、今度はペン立てをテーブルの下から差し出される。
 ペンを握ると、手が微かに震えているのに気がついた。緊張しているのだ。
 もう今までの生活に戻れないような――そんな危惧すら伴う緊張をなんとか抑えながら、ぼくはペンを走らせる。
 Kay Lee Debreyケイ・リー・ドゥブレと書いてしまうと、ロジェはにっこりと笑った。少年らしい、可愛らしい満面の笑顔であった。

「よろしい」

 いったいきみは幾つなんだ、と聞いてみたい気がしたが、尋ねたところで彼はまともな答えを返してくれないだろう。
 どこかゆうべのような疲労を感じながら、ぼくはロジェの言葉に首肯を返す。
 結局、キッシュにはさほど手をつけられなかった。サインをしてしまったし、シリルを待っている間に食べても差し支えはなかったが、ここで食べるくらいなら、どこかのカフェに入ってゆっくりしたかった。
 ――ああ、そうだ。この店を出たら、シリルとカフェでも行こう。
 話は終わったとばかりに、ロジェはすっかり黙り込んでしまった。シリルと一緒にいる時とは種類の違う気まずさを感じながら、冷めてしまった紅茶を啜っていると、救いのノックの音がした。シリルだろう。
 立ち上がり、ドアを開くと、やはりそこにはシリルが立っていた。荷物をまとめるついでに着替えたらしい、シルクのシャツなのは相変わらずだったが、リボンタイではなくたっぷりとドレープの寄ったクラバットをして、形の古いグレーのジャケットを着ていた。
 ゆうべも思ったが、全体的に、シリルの服装は少し古い。似合っているからいいが、街中を歩いた際は少々目立つだろう。カフェだけではなく、仕立屋にも連れて行かねばならない。

「話はまとまったよ。先生と帰りなさい」

 そう言って、ロジェが立ち上がる。
 シリルはそう、と素っ気ない相槌を返して、それからじっとぼくを見つめた。
 紺碧の瞳が、ただ視界に収めているだけとでも言うような色をして、だがぼくをひたと見据えている。それがなんだか、嬉しくもあり、不思議な気分でもあった。
 ――本当に、このおとぎ話から出てきた幽霊のような彼と、暮らしてくことが出来るのだろうか?
 不安を押し隠すように、ぼくはシリルの手を取った。ぼくよりも少し冷たい、すべらかな手だった。

「行こう」

 半ば自分に言い聞かせるための言葉であるのを、きっとシリルは知らない。
 ロジェは店の入り口まで見送ってくれたが、ずっと笑いをかみ殺しているようなにたにたした顔だったのは、ぼくの複雑な心中を察しているからだろう。

「それじゃあね、シリル。いつでも遊びにおいで」
「うん」

 これまでお世話になりました、ともなんとも言わず、シリルは淡々と相槌を返すだけであった。本当に打っても響かない子だ。
 ぼくはシリルの手からトランクを奪うと、ひらひらと手を振るロジェに一礼して、細い路地を歩き始めた。

「あ」

 手に持っていたトランクがないのに気づいたシリルが、小さく声を上げる。
 トランクは、思っていたよりも軽かった。どうやら、想像通りと言うべきか、大して私物はないらしい。

「いいんだ、持たせてくれ」
「でも」
「これくらい、おあいこだろう」

 息を吸って、決意とともにぼくは言う。

「ぼくたちは、これから一緒に生活をする、パートナーなんだから」

 一大決心の宣誓をするぼくを、シリルは瞬きして見ていた。いかにも不思議そうな顔だった。

「……そういうもの?」
「そういうものなんだ」

 きっぱりと言い返して、大股で大通りに向かう。
 荷物を置いたら、運河沿いのカフェに行こう。ブランチを摂って、シリルとこれからのことを話そう。彼が今後に明確なビジョンを持っているようには見えなかったが――否、ぼくだってろくに持ってやしないのだが、だからこそ、ぼくたちには会話が必要だ。
 歩き出したぼくとシリルを、昼すぎの暖かな日差しが照らしている。
 吸血鬼を灰にすると言い伝えられている陽光は、しかし隣の彼を焼くことはせず、ただそのルヴナンのごとき美しさをいっそう引き立てるのであった。