「ぼくのルヴナン」

 今朝――いや、今日は二限目からだったから、それくらいの、昼と言うには早い、けれども朝と言うにはもうすっかり日の昇った時間に、校門で不思議な人を見た。
 門柱によりかかるようにして立った、きれいな顔をした男の子だった。
 ふわふわのアッシュブロンドに、ちょっと古めかしい形のシャツとジレを着て、センスのいい細かいストライプの入ったパンツに、フロックコートを羽織った男の子だ。
 目は少し眠たそうに……もしくはこの世のことなんて興味ないです、なんて顔をしていて、そのくせ、そんなところに立っているんだから、きっとこの大学に用があるのだろう。
 美人だったし、声かけちゃおうかな、と思ったのだけれど、いけないいけない。今日は朝から受けなくてはいけない講義があるのだ。
 鞄を置きに、研究室に立ち寄る。大きなガラス窓がはめられているせいか、朝靄が部屋にまで入り込んできたような、変にあたたかくて白くかすんだ研究室には、既に我が研究室の駿才が、いかにも眠たそうな感じでコーヒーを啜っていた。

「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう、ミネくん」

 先生――ケイ・リー・ドゥブレ先生は、三十を過ぎたばかりの、この研究室どころか大学の――というより、フランスの地質学という分野においては、ちょっとした有名人だった。
 名の知らぬ人はいない、というほどではないけれど、要は年の割に出来る人なのだ。研究が大好きらしくて、学部生の頃からうちの教授に頼み込んで研究室に通わせてもらってたというのだから、相当だ。
 ムッシュ・ドゥブレは、中国系だ。だから、見た目はちょっと取っつきにくい……と言うか、少し怖い感じの顔つきをしている。これもまたある意味顔が整っているんだろうけど、吊り目がちの一重に、すっとした鼻筋、薄い唇は、フランスにはなかなかいない。その瞳の黒々とした輝きをミステリアスだと表する女の子もいれば、なにを考えているか分からなくて薄気味悪い、と敬遠する男の子もいた。
 私はというと、どちらかと言えばミステリアス派だ。それに、先生が取っつきにくいのはその外見だけで、中身は結構なんてことない人だったりする。

(割に小心者だし)

「なにか飲むかい? 紅茶がいいかな」
「……えっ、あ、いえ! あたし、これから授業なんです! 環境学!」
「ああ、スリマン先生か。それは行った方がいいね」

 そう、スリマン先生は厳しいおじいちゃんの先生で、ちょっとでも遅刻しようものなら出席点をくれないことで有名だった。

「はい、じゃ、行ってきます!」

 筆記用具とテキストと最小限の荷物を持って、研究室を出る。
 この時の私は、あの美人な男の子と、ドゥブレ先生に関連があるなんて、これっぽっちも知らなかった。

 ◆

 午前の授業を終え、カフェテリアで友人たちと食事を摂ると、私は予約していた本を取りに行くために一度キャンパスを出た後、研究室へと戻るために学生街を歩いていた。
 うちの研究室が入っている研究棟は、カフェテリアに近いのはいいけれど、正門からは距離があって、一度校外へ出てしまうと戻るのがいささか面倒くさい。
 それに加えて、今日は五月にしては寒い。皮膚の隙間から入り込んで、巡っている血を少しずつ冷やしていくような風が時たま吹いては、私の頬を撫でていた。
 寒い寒い、あったかいもの飲みたい、と一心に念じながら足を動かす。きっと、鼻を赤くして研究室に戻った私に、ムッシュはあたたかい紅茶を淹れてくれるだろう。コーヒーでもいいな。お砂糖をたっぷり入れて飲みたい。そんなことを考えて、ついにまり、と一人でにやけてしまっていた私の視界に、不意にとんでもないものが飛び込んできた。
 校門に、朝見た彼がいるのだ。
 流石に門柱に沿って立ってはいないものの、校門の前の背の高い植え込みのレンガに、ちょこんと腰かけている。

「な、な、きみ、きみっ!」

 本の入った紙袋ががさがさうるさく鳴るのも構わず、全速力で美人くんの元へ向かう。最初誰を呼んでいるのだろう、とでも言わんばかりにきょろり、とうろんげに視線を彷徨わせていた彼であったが、私が肩で息しながら目の前に立ったお陰で気付いてくれたらしい、ん、と小さな顎先を持ち上げて、ウィ? と小さく声を出した。
 その声がまた、外見にばっちり合致していた。
 同級生たちと「ムッシュ・ドゥブレのどこが素敵か」という話になった時に私が真っ先に挙げるのが声で、それくらいにムッシュの声が好みなのだけれど、この子の声も負けず劣らずのいい声だった。
 ドゥブレ先生は研究室ではぼそぼそと、自信なさげに小さめの声でしゃべることが多いが、こと講義に立つとなると、少し細い、けれども低くて穏やかな声が、大講義室に朗々と響くのだ。
 この子の声は、先生よりも更に細くてか細かったけれど、囁くようなしゃべり方が、世界で一番発音が美しいと国民たちの自負するフランス語にきれいに馴染んで、うっとりとしてしまうような感じだった。

「あっ……。えっと、きみ、朝からずっとここにいない? 風邪、引いちゃうよ。学部はどこ?」
「学、部……?」

 まるで、その言葉を知らないというような、あまりにも無垢な顔をして、彼が私が言った単語を復唱する。
 ぎくりとした。パリには浮浪児や、浮浪児上がりの労働者も少なくない。そういった、今までまともな教育を受けられる機会の与えられなかった人たちは、私たちの想像以上にいるらしい。
 彼もその一人ではないだろうか。いや――でも、それにしては身なりがきれいすぎる。

「あ、……えっと、誰か待ってるの? もしかしたらあたし、案内できるかも」

 流石に今のは理解出来たらしい、怜悧なものから全く表情の動く気配のない彼が、それでもほんの少し――本当にほんの少しだけれども、周りに張っている警戒心やら膜やらが、やわらかくなった。

「ケイ」

 彼の花色の唇から転がり落ちた言葉に、私はぎょっと目を丸くした。
 ケイというファースト・ネームの人を、私は一人だけ知っている。
 いや、いやいや。でも偶然の一致かもしれないし。
 なぜとかなんの関係がとか、頭にどわっと押し寄せる疑問をどうにか脇に押しやろうとする私の頑張りを嘲笑うように、彼はこう続けた。

「……ムッシュ、ケイ・リー・ドゥブレ」

 ……もういい、分かった。もう混乱して仕方がないので、これから彼はドゥブレ先生の父方の親戚の子で、田舎から出てきた、ということにする。

「ドゥブレ先生なら、あたしの教室の先生よ。……おいで。そこにいたら、凍っちゃうわ」

 これは紅茶を淹れてもらわなくっちゃ割に合わない。お菓子つきでもいいくらい!
 こんなにきれいな子の手を引くのも躊躇われて、立って、と促して、私は彼の前を歩くことで誘導することにした。
 顔見知りの子たちとすれ違う度に、後ろの彼と、私とを見比べるようにちらちらと突き刺さる視線を無視して、ひたすらに歩く。不躾に見てくるくせに、「その子誰、まさかあんたの恋人?」なんて聞いてくるような子は、誰一人としていなかった。きっと、彼に見惚れているのだろう。
 やっと研究棟が見えてきた辺りで、私は一度立ち止まり振り返ると、建物を手で指して、ここが研究棟という、研究室ばかりがぎゅうぎゅうに詰められた建物で、だいたいの場合ムッシュはここにいる、と説明した。

「……ふぅん」

 なんだか気のない返事だったが、朝から彫像みたいになっていた彼が相槌を返してくれただけで感動的だった。
 うちの教室は、一階の端にある。
 私たちが歩いてきた方は、教室が近い代わりに、入り口が反対側になってしまう。ついでだし、外から彼の仕事ぶりでも見せてみよう、と少し歩いて研究室の窓際に近づいていくと、先生は窓から少し離れたお決まりの席で、黙々と学会誌を読んでいた。
 あの学会誌、読んでいるのをもう何度も見たことがある。論文を暗記でもする気なんだろうか先生、と呆れ半分、感心半分な感想を描いていると、ふと、彼が外の天候を気にするように、ちらりと窓の外――私たちの方を見た。

「ほら、君。先生よ」

 そう言うと、隣を歩いていた彼が、小声でケイ、と囁いた。
 先生は――驚いていた。
 いやぁ、風が強くて冷えるけどいい天気だなぁ、なんて顔をしていたのは一瞬で、その後はまるで真昼に幽霊でも見たように顔を青ざめさせ、鋭い印象の目を一杯に見開いていた。
 幽霊。確かに、彼の美しさは幽霊みたいに現実味がない。
 すると先生の口が、ぱくぱくと早口に動いて――その唇の動きを読んだ私まで、ぞくっと背筋が寒くなるような驚きを覚えてしまった。
 正に、幽霊ルヴナン、と呟いたのだ。

『ぼくのルヴナン』

 そう言って、彼は学会誌を机に放ると、ソファに置いていた鞄とコートをひっ掴み、慌てた様子でどたどたと研究室の戸の方へ、こけつまろびつ、と言った様子で消えていった。
 ああ、紅茶はお預けらしい。
 じきに、彼にしては珍しく余裕のない足音とともに、層序学教室の雄、ケイ・リー・ドゥブレが駆けてきた。

「ミ、ミネくん、彼は」
「えっと、今朝からずっと……校門にいたんですけど……」
「け、今朝」

 ばさ、と音を立てて落ちた鞄を、淡々と美人の彼が拾う。

「ケイ」

 名を呼びながら鞄を差し出してきた彼の顔を、一瞬だけ惚けたように見つめた後に、ドゥブレ先生ははあ、と大きな溜め息を吐いて、小脇に抱えていたコートに袖を通してから鞄を受け取った。

「きみってやつはまったく……。ミネくん、助かったよ。ありがとう。この埋め合わせは、後で必ず」
「え、先生、帰るんですか!?」

 これから午後は院生と私たち研究期の学部生と一緒に、先生の大好きな研究の打ち合わせの予定だったではないか。
 しかし彼にとってはこの幽霊の訪問は相当の出来事らしく、聞く耳どころか、私を捌く余裕すら持ち合わせていないような様子だった。
 鞄を持ったまま、空いた手でぺちん、と軽く叩くようにして、先生が彼の頬に触れる。きかん気の子供に対するような、困ったような、怒るにもどうしたらいいのか悩んでいるような、そんな顔をしていた。

「ああ、こんなに冷えて……! ほら、帰るぞ!」

 私があれだけどぎまぎして触れなかった幽霊くんの手を、先生はいとも容易く手に取って、手袋がどうの、厚手のジャケットがどうのと言いながら、今まで見たことがないような足早さで去っていってしまった。

「……変なの」

 そうとしか、言いようがなかった。
 やたらに驚いたくせに、先生は少し、嬉しそうだった。