微笑むわけは

「職場に置きっぱなしにしてるモバイルがあるんだが」

 仕事帰り、オート・タクシーに乗るなり、マスターであるクウヤ・アマサキはおもむろに口を開いた。

「……はい」

 話の先が見えないことには、なにも問いかけられない。相槌を打つと、着ている立て襟のシャツの留め具を外しながら、クウヤはつらつらと解説じみた話をしだした。

「一人一人の端末と連携されていて、社内で飲食物を買ったりする時に使うんだ。デスクにいるのに一定時間端末が動いていなかったり、はたまた残業申請をしていないのに定時をすぎて仕事をしていたりすると、モバイルのAIがアラートを出す。それから簡易的なメンタルチェックもあって、通常時より目の動きや仕事ぶりに変化が出た場合も、アラートが出る。……で、そのモバイルが今日、妙な表示をしたんだ」
「妙……ですか?」
「ああ」

 頷いて、クウヤは整った顔を隣にいるシグへ向け、一言こう言い放った。

「『最近いいことがありましたか?』」
「……は」
「そう出たんだ。おかしいと思ってAIのログを見たら、出退勤の際の顔認証の表情の記録が、最近はプラスの方向に傾いていると出た」

 ……なるほど、話が読めてきた。
 シグの予想通り、クウヤは憤慨しているようにすら思える口調で、おかしい、と再び漏らし、言葉を続ける。

「そんなことはないと思うんだ。特に仕事でいいことがあった訳でもない。いつもと同じなにも考えていない顔でエントランスを通って……シグ?」

 聞いているのか、とクウヤがじとりと目を据わらせてシグを見つめてくる。
 元々が冷ややかな美しい顔立ちをしているだけに、睨むと凄みがある。流石に笑うのは失礼だろうと口元をさり気なく覆いながら、シグはやんわりと問いかけた。

「会社の方にもその話は?」
「したさ。僕は設備のハード面のことしか分からないからAIの調整は出来ない。でも、ソフトウェア部門に言って、メンテを入れた方がいいんじゃないかって」
「それで、なんと?」
「気づいてないのか、って言うんだ。なにをだ、って聞くと、みんな気持ち悪い笑い顔ではぐらかす。もしかしたら部署ぐるみで僕はなにか……」
「マスター」

 難しい顔でまくし立てる、その細い頬に手を伸ばす。左側の輪郭を隠すように手でくるむと、クウヤはそうするのが当然のように、シグの手の方に頬をすり寄らせ、甘えてくる。
 耳にかけられた髪の一房を手に取って撫でながら、シグは穏やかに尋ねた。

「マスター・クウヤ。表情のログに変化が出たのは、いつからですか?」
「ひと月くらい前だった」
「……ひと月前、なにがありましたか?」
「なに? なにって、……そうだ、お前が怪我して、会社に連休を取らされて……そう、だいたいその休みが明けて少ししたくらいから、ログ……が……」

 答えているうちにやっと理解したのだろう、クウヤは話している途中からあからさまに目元を赤くし、眉尻を下げ、情けない表情になった。そうすると、途端に氷のように冴え冴えとした美しさが薄れ、子供っぽく見える。

「……待ってくれ」

 頬をくるんでいた手に、優しい手が重なる。

「……僕はそんなに分かりやすかったか……?」

 問う声は震えていて、今にも消え入りそうだった。

「……さぁ。その、私には仕事中のマスターのことは分かりませんし、それ以外は毎日一緒におりますから。変化、と言われてもあまり」
「でも、そんな……AIが分かるほど、その……」

 二人しかいないタクシーの中、うろうろと視線を彷徨わせたかと思うと、シグの直視に耐えきれなくなったのか、瞼をきゅ、と閉じて、ああ、と声を漏らした。

「……お前が好きだって、お前が僕を好きでいてくれて嬉しいって、AIにも分かるくらいじゃ、全然隠せてないじゃないか……!」

 ああ、どうしよう。不遜にも、とても可愛い。
 ついぎゅうとハグをすると、触れたところから彼の頬が熱くなっているのが分かった。

「明日からどんな顔で『シグが迎えに来てる』って言って退社したらいいんだ……」

 肩でもごもごと言う言葉がまたどうしようもなく可愛らしく思えて、シグはきつく抱きしめていて顔が見えぬのをいいことに、声を出さずに笑うのであった。