仮初めの生を受くる者

 エレーヌはクラブ・プライベート・ブラッドの住人である。
 一部の例外を除いて、吸血鬼たちの集うプライベート・ブラッドにおいて、その住人であるということは、吸血鬼であるということを意味する。
 エレーヌもその例に違わず、吸血鬼である。
 それも、エレーヌはその中でも一部に割り振られる、「夜」の仕事を請け負っている吸血鬼であった。
 クラブに多額の資金提供をして下さる上客に対して、性的なサービスを行う、いわば娼のような仕事をエレーヌはしている。
 むろん、それだけが仕事ではない。他の吸血鬼と同じく、大広間で人間たちの酌をしたりすることだってある。だが、夜の仕事はエレーヌの性に合っていて、それで仕事を請けることも多かった。
 「サービス」は、吸血鬼の中でも限られた者にしか話が振られることはなかった。それも、仕事を振ってくる人物――ロジェは吸血鬼たちの性質をよく理解していて、無垢で内気な子にそういうことを無理強いさせたりすることはなかった。つまり、エレーヌもその奔放な性格を買われて仕事を振られているのである。
 最初、サービスの話をされた時は、まあこの店も言ってしまえばクラブですものね、そういうこともあるわと思ったのだが、一度試してみてくれ、嫌なら次からは絶対に話を振らないから、というロジェの口車に乗ったら、それが存外しっくり来てしまったのだ。
 気持ちがよかったのだ。それにおじさまやお兄さん、それにうら若い淑女まで、みんなエレーヌのことを美しい、いい女だと褒めてくれた。時たま嫌なことをさせようとするお客だっていたけれども、そういう客は決して二度目がなかった。クラブの品位を貶める客を、ロジェは許さない。
 むろん、それだけが仕事ではない。他の吸血鬼と同じく、大広間で人間たちの酌をしたりすることだってある。今日はたまたま客の予約も入っておらず、久しぶりに広間に下りてみようかと思ったところである。

(まさか、この子がいるとは思わなかったけど)

 ソファの隣にかけるシリルの髪に手を伸ばす。相変わらずふわふわの髪をしていた。
 うなじまでの綿みたいなふわふわのくせっ毛に、いつも眠たそうな青の瞳。
 彼、シリルも吸血鬼である。物心ついた時から一緒にいた気がするが、それは別に彼に限った話ではない。吸血鬼のほとんどが、家族同然の付き合いである。
 そのシリルが突然店を離れたのが、今年の春のことであった。
 とある晩、シリルを見かけないなと思っていたら、その翌日に彼が契約を交わして店を出て行ったのだと知った。それを知った時には当然シリルはクラブにはおらず、夕方に目覚めて「シリルは出て行ったよ」と言われ、呆然とした記憶がある。
 どうしているかしら、元気にしているかしらとロジェにしつこく言っていたからか、今晩、彼の契約者であるアジア系の男性が、シリルを連れて店に来てくれたのである。

「それじゃあシリル、タグを貸して」

 言いながら、ロジェはシャツの袖口のボタンを外し、袖をまくった。普段は下男にやらせているようなことだが、夜だからか、彼がタグに石を打ち込むつもりらしい。

「はい」

 金具を外し、一本の鎖になったそれを、シリルがロジェに手渡す。
 ロジェの居城である事務室は、大人が使うにしても広いであろう机と椅子のほか、ソファと壁を埋め尽くす戸棚しか家具がなかったが、それらは常にもので溢れていた。書類に手紙、それから吸血鬼たちが勝手に置いていった私物――そういったものを右へ左へ置きながら、ロジェが戸棚の引き出しを一段丸ごと抜き出した。貴石が入った棚である。

「黒のオニキス、黒のオニキス……ああ、あった。やってる間、エレーヌの部屋ででも待っていたら?」
「うーん、私は別にここでいいわ。三人分のお紅茶、ギャルソンくんに頼んだばっかりだし」
「あ、そ」

 ぷいとそっぽを向くと、ロジェは再び戸棚をがさがさと漁りだした。石を打つのにいる工具を取っているのだろう。
 ロジェは不思議な少年である。
 普通の客には提供していないサービスがある、とエレーヌに説明してくれた時も、そしていまこの時も、彼は変わらず少年のままであった。
 姿形が変わらない生き物を、エレーヌはロジェ以外に知らない。エレーヌがかつて少女だったように、吸血鬼だって年を取る。
 シリルだって昔はもっと背が小さかった。髪は昔から変わらずふわふわで、瞳はいつも夢を見ているような伏し目がちであったけれども、こんなに首を反らせて見上げなければいけない背丈ではなかった。
 ロジェ曰く、Rogerじぶんはどこにもいて、どこにもいない、そういう存在なのだという。
 意味が分からなかった。確かにロンドンやベルリンのクラブには同じ綴りの少年――ロジャーやロギェールがいるらしいと言うのは彼に届く手紙からなんとなく知っていたけれども、どこにもいない、と言うのはちょっと分からない。
 確かに、ロジェが「ぼく」だとか「私」だとかいう個を指す一人称を使ったことはなかった。いつも「うち」とか「我々」だ。まるでロジェが幾人もいるようである。

『あなたって分からないわ。吸血鬼なの? 人間なの?』

 以前、いつかの時にそう漏らすと、ロジェはその可愛らしい相貌に似つかわしくない皮肉げな笑みを浮かべてこう言った。

お嬢さんマドモアゼル、世の中にはよく分からないままにしておいた方がいいこともあるのさ』

 確かにまだマダムと言われるのには抵抗があるけれど、誰がどう見たってロジェの方が若く幼いのに、お嬢さんである。
 しかし、老獪と言ってもいい性格をしている彼がそう言うと、言葉に得も言われぬ説得力がある。そのお陰で、エレーヌだけではない、このクラブに住まう吸血鬼の中では、ロジェの肩書きは「不思議な少年」のままだ。
 しばらくすると、先ほどちょっとした騒ぎに巻き込んでしまったギャルソンが、盆にカップとポットを載せてやってきた。礼の代わりに頬にキスをくれてやって、紅茶を受け取る。ロジェの大きな机の端を借り、美しい薄紅色の水を繊細なつくりのカップに注ぎ入れながら、エレーヌはソファに座ったままぼんやりとしているシリルへ声をかけた。

「ねぇ、シリル。あなたのムッシュ、なんてお名前なの?」
「ケイ。ケイ・リー・ドゥブレ」
「なにをしている人?」
「大学の、先生だって」

 自らの契約者、つまり主と言ってもいいような人物のことであるのに、シリルはまるで他人事のようだった。契約者が見つかったとはいえ、他人に無関心な風であるのは変わっていないらしい。
 だが、無関心であるように見えているだけで、実際のところはそうではないことをエレーヌはなんとなく察していた。そうでなければ、この広間にもほとんど姿を現さないもの言う美しい人形のような彼が、首尾よく相性のいい人間を見つけたりなど出来るものか。

「なんの先生なの?」

 カップを渡すついでに彼に向き直ると、シリルはカップを受け取りながら、胡乱げに視線を空中にさまよわせた。

「えっと……地質……ソージョガク?」
「なに、それ」

 地質学はなんとなく分かる。否、分からないが、字面からして自分たちが歩いているこの地面に関する学問なのだろう。だが、ソージョガクというものはさっぱり想像がつかなかった。綴りも分からない。

「入会資格を説明する時に聞いたんだが」

 コンコンと続いていたハンマーの音が止んで、作業のために小さな丸眼鏡をかけて机に突っ伏すようにしてタグに顔を近づけていたロジェが、眼鏡を下げながら顔を持ち上げた。

「地面ってのは年代によって積み重なった層があるだろう。あるらしいんだけど、それの重なってる順番だとか、その時代のことだとか、そういうのを追求している学問らしい」
「なによそれ、さっぱり分からないわ」
「あの先生以外分からないことだよ」

 けっと吐き捨てて、ロジェは再びタグに視線を落とした。
 まあ、仕事のことなんてどうでもいいのだ。問題は、シリルが日々をどうすごしているかである。

「シリル。ムッシュ・ケイは優しい?」
「……どうだろう」

 紅茶で口先を湿らせた後、シリルはいかにも不思議そうに首を傾げながら、たぶんね、と付け足した。
 たぶんとはなんだ。見た感じ、アジア系のミステリアスな顔立ちこそしていたものの、物腰は丁寧すぎるほどであったし、あれで優しくないのだとしたらたいそうな詐欺師である。

「優しいだろうさ。それが誰のためかは知ったことじゃないが」

 やはり、言葉を継いだのはロジェであった。ぎっと音を立てながら椅子から立ち上がると、こきこきと細い首と肩を回し始める。

「さっきからずいぶんとムッシュ・ケイに意地悪ね、ロジェ」
「何事においても踏ん切りのつかない人間が好かないだけさ。……ほら、シリル」

 出来上がったばかりのブレスレットを、ロジェが投げる。カップをソファの肘置きに置いたシリルが、それを器用に受け取った。
 慣れた手つきで手首にブレスレットを回し通すのを横目で見守る。「Cyrille」と刻印された横には、先ほどまでなかった黒の石が、机に置かれたランプの明かりを受けてきらりと鈍く輝いていた。
 タグを見つめているシリルは、心なしか軽く微笑んでいるように見えた。契約者がいる証はそんなに嬉しいのだろうか。そう思うと、つい愚痴っぽいぼやきが零れ出た。

「あぁ、いいわね、シリル。私にも素敵な人が現れないもんかしら」

 つぶやいた言葉に、シリルがタグを見つめていた瞳をエレーヌへ向けた。いつも眠たそうに伏せられているくせに、その瞳にはラピスラズリを砕いて入れたような輝きがある。

「エレーヌにも、きっと見つかるよ」
「ほんと?」
「そうでなければ困る」

 工具と石を戸棚に戻したロジェが、にやりと口の端を吊り上げた。

「お前たちは生きながら死に、死にながら生きているようなものだ。いつか、お前に息を吹き込んでくれるような『誰か』が現れるはずさ。我々クラブは、その日までお前たちを見知らぬ誰かから預かっているようなものだからね」
「それじゃあ、シリルは息を吹き込まれたってこと?」
「そうだとも。あの晩、あの男によって」

 そう言って、ロジェはかけていた眼鏡を机に置くと、机に置きっぱなしにしていたカップを一気に傾けた。冷め切って渋くなっているだろうに、よく出来るものだ。

「分かったらフロアに下りろ、エレーヌ。シリルは一緒に先生を迎えに行くぞ」
「うん」
「はーい」

 返事をしながら、エレーヌは考えていた。
 相性のいい人間は、いいにおいがするらしい。昔契約者が決まった子に、そう聞いたことがあった。
 でもそれって、どういう感じなのだろう? いいにおいって、近づかないと分からないもの? それとも同じ空間にいれば分かってしまうくらいに漂うもの?
 そんなことをつらつらと夢想しながら、エレーヌは飲み干された三人分のカップをまとめてしまうと、どこか浮ついた気持ちで階段を下りるのであった。