She doesn’t know

「初めまして、ドクター・ヴァレリオ」
 優しく落ち着いた声であった。口調は年下の者に古めかしい物語を読み聞かせるように穏やかで、いくらでも聞いていられる声であった。
 腰まで伸びたしっとりとした濃い金の髪が、風のない研究所の中で、彼女の身じろぎに沿って微かに揺れる。
 深い緑色の瞳がひたと自分――ヴァレリオを見つめている。
 ヴァレリオは彼女を知っていた。
 リィン。
 この研究所の実験体、テスト・ギフテッドの一人である。

 ◆

 リィンと出会ったのはヴァレリオが飛び級で大学を卒業し、研究所へ就職した十七の時であった。
 飛び級なんて今や珍しくともなんともない。それでも遺伝子デザイン――ギフテッドの部門で飛び級をする人物はそういないらしく、研究所は諸手を挙げてヴァレリオを歓迎した。
 数年前に業界で話題となった、天才と呼ばれる人物の招聘に失敗したとかで、若いヴァレリオはとかく重宝され、研修が終わるや否や、とあるプロジェクトに携わることとなった。
 そのプロジェクトの実験体が、リィンであった。
 二十そこそこに設計されて生み出された彼女は、優しい女性であった。
 彼女の仕事は、医薬品メーカーと組んだプロジェクトでひたすら治験薬を服用することであった。
 薬によって差があるが、決められた時間に目覚めた彼女の体調を調べ、薬を投与し、定期的に観察する。それ以外これと言った動きのないプロジェクトは平穏で、そして研究者にとってはいささか退屈なものであった。研究所には他のプロジェクトもあるとは言え、こんなにも単調なプロジェクトでは、招聘にも失敗するだろうとすら思えた。
 年が近いこともあってか、ヴァレリオは彼女のメンタル面のケアを任された。
 ケア、と言ったって、ほとんど話し相手をするだけだ。時たま不安がっていれば宥めてやり、眠れないと嘆くことがあれば、治験薬に影響のなさそうな不眠治療薬を調べて飲ませてやることだってあった。
 そうしているうちに日々はすぎ、就職をした時から季節は巡って、冬が訪れた。
 ジズレ本土の隅にある研究所にとて冬は来る。ある日、外気との気温差で曇った窓ガラスに、リィンは細い指でなにかを描いていた。

「なにをしてる、リィン?」
「ふふ。ドクター・ヴァレリオ、見て」

 そこは研究所の中でも外れの方にある窓で、空調の調節が行き届いておらず、結露が出来ていた。
 ちょいちょいと手招きされて近寄ると、そこには小さなスノーマンが描かれていた。赤い三角帽を被って、枝で出来た腕を伸ばしてにっこりと笑っている。

「……なんだ、雪だるまか」
「なんだって、ひどいわ。そろそろクリスマスでしょう? だからね、端末で見たサンタクロースみたいな帽子を被せてあげたの」

 クリスマスとは、西暦代の宗教にちなんだ行事である。マルグリット暦の現代ではやや廃れたが、今でも冬の風物詩の一つとして数えられる程度の知名度はある。

「お薬もアドベント・カレンダーに入れてみようかしら。そうしたら、飲むのが楽しくなると思わない?」
「……リィン」

 近頃の彼女は、「仕事」にあまり前向きではない。否、元からそうだったのかもしれないが、少なくともヴァレリオに対してそれを隠すことをしなくなった。

「ねぇ、ヴァレリオ」

 彼女が、小さな声で名を呼んだ。ドクターという肩書きのない、ただの名を。

「わたし、クリスマスになったらツリーが見たいの。きらきらの、てっぺんに星がある……」

 そう言いながら、彼女は膝の上に載せていた端末を操作して、クリスマスツリーの画像を見せた。

「それが、あなたからわたしへのクリスマスプレゼント。どうかしら?」
「……そんなものでいいの?」
「そんなもの、だなんて。それがいいの」

 そう言って、にっこりと彼女は笑う。思わず端末に触れていた指に手を伸ばすと、応えるように握られた。

「お願いよ、ヴァレリオ。約束ね」
「うん」

 膝にかけたブランケットの上で、かたく手を握り合う。窓辺に面した空間は無人で、永遠のように思えた。

 ◆

 クリスマスの朝、近くにある寮から出勤したヴァレリオは、がさがさと紙袋の音を立てながらリィンのいる病室――なにも病気などしていないのに、彼女の自室はそう呼ばれていた――へと向かっていた。
 取り寄せるのが遅くなってしまったせいで小さなサイズになってしまったが、喜んでくれるだろうか。
 ベッドサイドのテーブルに乗る大きさだから、ちょうどいいと言ってくれるかもしれない。スイッチを押せば内蔵のバッテリーによって光ると説明書にあったから、夜になったら二人で試してみるのもいいだろう。

「リィン、おはよう。あの……」

 気が逸って、ノックもせずにドアのロックを解除し、部屋に入る。いつものようにベッドから身を起こした姿で、彼女は小さく微笑んでいた。
 なんとも言えぬ、曖昧な笑み方であった。そんな風に笑うリィンをヴァレリオは知らなかった。

「……あの?」

 そう言って、リィンは首を横に傾けた。
 ぞわ、と寒気がした。ばさりと音を立てたのは、持っていた紙袋だろう。

「……リィン?」

 彼女の名を呼ぶ声が震えていた。
 傾げた首を元に戻した彼女が、ああ、と言って、まるで「なにか」に合点したように頷いて、こう言った。

「初めまして、ドクター?」

 ふらつく足取りでベッドの脇へ向かう。静かに見上げる瞳は、ヴァレリオが白衣を着ているからだろう、研究所の関係者の機嫌を損ねぬようにと、穏やかに笑っていた。

「お名前は?」
「……ヴァレリオだ。ヴァレリオ・ヴィアネッリ……」
「そう。初めまして、ドクター・ヴァレリオ。よろしくお願いしますね?」

 和やかな笑顔に、自分はなんと返したのだったか。

 ◆

 後で聞いたところによると、研究所のお偉方は自分とリィンの関係――一介の研究員と実験体から逸脱した仲に気づいていたそうだ。
 クリスマスの前夜に記憶を抹消したのは、たまたまだったと部門長は苦笑した。もっと前に消したってよかったのだが、と。人を殴りたいと思ったのは生まれて初めてのことだった。

『まさか、プレゼントを用意していたとはね、ヴィアネッリくん。だがいい勉強になっただろう? テスト体のギフテッドに肩入れしても、なにもいいことはないよ』

 いやに優しげに肩へ触れた男の手の感触が残っていて、気持ち悪かった。
 病室は一方がガラス張りになっていて、研究所の職員たちが詰めている部屋へと面している。部屋へ入るとちらちらと同僚たちの視線が飛んでくるのを感じたが、無視してガラスの前に据えられた椅子に座り込んだ。
 病室では、ベッドから出て食事を済ませたリィンが、なにをするでもなく窓を見ていた。
 窓の外では、ちらちらと雪が舞っている。朝からひどく冷えていたから、ついにと言ったところであった。
 窓の手前にある小さなテーブルに、ツリーがあった。
 なにも言わずに荷物を置いて部屋を出て行ってしまったのだが、どうやら彼女はその荷物を開けたらしい。金色の星が輝く小さなツリーと窓の向こうの雪が、無機質な病室に季節という彩りを与えている。
 不意に、白い手が窓に触れる。遊ぶようにくるくると指先が踊って、それから、その手が不意に星の先へ触れた。

『……ふふ』

 彼女の穏やかな笑い声が、モニター越しに響く。
 嬉しそうに目を細めて、指は楽しげに二等辺三角形のシルエットをした樹の形をなぞった。

『きれい……』

 雪が降っている。静かに、音もなく。
 知っているはずなのに知らない彼女が、それを背景に笑っている。
 不意にこみ上げたものを隠すために、ヴァレリオはその光景から逃げるように俯いてしまうのであった。