「花よ」サンプル (R-18)

※登場するキャラクターの死を扱います
※ぬるいですが男女の性描写(受が女性に挿入する描写)があります。
 2ページ目に該当部分を掲載しておりますので、ご確認下さい。

 ◆

 小さな頃、熱を出したことがあった。
 初めて味わう高熱は妙な心地だった。足元はおぼつかず、頭は常に靄がかかったようで、全身がふわふわとした。

『吸血鬼でも熱を出すなんて』

 毛布を首まで引き上げながら思わずそうぼやくと、ふ、と小さく笑う気配があった。

『お前たちも生きているからな。風邪くらい引く』
『……君は?』

 尋ねると、声の主は再び溜め息を吐くように笑った。

『いいから寝ろ』

 自分のものとそう変わらぬ、少年の小さな手が目を覆う。発熱しているからだろう、わずかに触れた手はほのかに冷たくて、心地よさに自然と瞼が落ちた。

(――どうして)

 ぎし、ぎし、とベッドが軋む音がする。薄く閉じていた瞳を開くと、視界にはベッドの天蓋から垂れ込める布と、自分の素足と、それを掴む手が見えた。
 手は大きい。男の手だ。そこまで考えたところで不意に訪れた刺激に、う、と喉が反った。快いところを擦られたのだ。
 ぱら、とうなじまで伸びた髪がシーツに当たる音がする。十代の半ばをすぎたばかりのしなやかな体が、逃がし切れぬ快楽に震えた。

「ん、あっ、ああ……」

 前屈みになり、近づいた首に腕を巻きつける。そうしたい訳ではなかったが、ただ、そうすると大抵の客が喜ぶのを思い出したのだ。

「あぁ、……ん、はぁっ……」

 ずるずると体の中を熱いものが行き来している。それが動く度に声を上げながら、少年――カミーユは、ぼんやりと考えていた。

(どうして、今――こんな時に、思い出したんだろう――)

 ◆

「カミーユ」

 声が降ってくる。高い少年の声であったが、口調の強さはよく研がれた刃のようであった。

「……やーだ」

 なんと言われるか悟って、カミーユはごろりと寝返りを打った。
 豪奢な造りの広いベッドに寝転がっているのは、今は自分だけだ。うっすらとかいた汗のせいか、シーツが肌に貼りつく感覚があったが、心地よい疲労感のお陰かそこまで気にならなかった。
 そう、どうでもいい。この自分の顔の真上から降りてくる冷ややかな声以外は、どうでもよかった。
 芯の通ったボーイソプラノは、奇妙なくらいに落ち着き払っていて、まったくと言っていいほど少年らしさがなかった。

「ひどいにおいだな」

 寝転がり、薄く目を閉じるカミーユを見下ろしていた少年が、吐き捨てるように呟く。かと思うと、つかつかと靴音を鳴らして勢いよくドアを開け放った。
 ドアの方から靴音が鳴って、しばしの沈黙の後、ぎいと金属の枠が動く音がした。窓を開けたのだろう。
 籠もっていた空気がほどけて、少しずつだが独特の――汗と精液のにおいが薄らいでいく。

「……さむい」

 全開にされたドアから否応なしに入ってくる外気に、カミーユはぶるりと体を震わせた。もぞもぞとベッドに潜り込むと、それを見咎めた少年が、こら、と手を伸ばしてくる。
 ああ、その手を待っていた。
 少年らしいあたたかな手が、無遠慮に肩を掴む。汗を纏っているであろう体に抵抗なく触れるその手は、カミーユにとってなんとも好ましく感じられた。

「寒いのなら服を着ろ」
「だるいから、嫌」

 閉じていた瞳を開く。目の前には、金髪の美少年がいた。
 年の頃はカミーユよりやや若く、十四ほどに見える。額に垂れる前髪は重くない程度に梳かれ、その下で、鮮やかな黄緑色をした瞳がじっとカミーユを見つめていた。

「……ロジェ」

 その名を呼ぶ時はいつも胸が跳ねることを、この少年は知らない。
 性交の気配が色濃く残る寝室の中、ペリドットのような大きな瞳が、カミーユを見つめている。
 次に言われる言葉には予想がついていた。愛らしい声をこれでもかと言うほどに固めた声で、言うのだ。

「――起きろ、カミーユ」

 予想通りの言葉にふっと小さく笑いを零してから、カミーユははぁい、と伸びきった返事をした。
 起き上がると、開けられた窓からはまばゆい日差しが差し込んでいた。明るさから考えて、ちょうど昼の頃だろうか。
 ふあ、とあくびを漏らすと、ベッドのすぐそばに立っているロジェがあからさまに顔をしかめさせた。

「早く体を綺麗にしてこい」
「はいはい。もう、ロジェってお母さんみたい……」

 と言っても、カミーユは母のことなど知らなかった。どんな容姿であるかと言う以前に、そもそもそんなものが「いる」のかも分からない。
 ベッドから足を下ろし、立ち上がった瞬間、ぞくりと背筋が粟立った。
 足元を見やれば、内腿を伝うものがある。うえ、と声を上げると、なにも身に着けていないカミーユの裸身を見ていたロジェが、ますます眉間の皺を険しくさせた。

「ほら、さっさとする」
「はーい」

 脱ぎ散らかした服を持って、ばたばたと同じフロアにある浴室へ向かう。バスタブに湯を張ることはせず、水を汲んで身を清める。
 春先の水はまだ冷たく、体にかける度に身が縮み上がる心地がする。鳥肌を立てながら背に水をかけていると、浴室のドアをノックする音がした。

「ほら、着替え」

 どうやら、自分が体を拭いている間に取りに行ってくれていたらしい。差し出された下着やらシャツやらを受け取ると、浴室のドアを開けたまま、カミーユは手早く着替え始めた。
 いつもならばドアを閉めろだのとロジェがお小言を飛ばしてきそうなものだが、先ほど寝室のドアを開け放ったのを見る限り、今この辺りには自分とロジェしかいないのだろう。
 二人きり、と思うと気分が上向いた。もちろん、ロジェはそんなこと、欠片も思っていないであろうが。

「ねぇ、今何時?」
「昼すぎってところだ」
「ふぅん」

 シャツに袖を通し、ボタンを閉じる。窮屈なのは好きではないので襟元のボタンを開けたままにして、水がかかって湿った髪からざっと水分を拭き取る。
 浴室の鏡には、カミーユと、ドアにもたれかかるように立っているロジェの姿が見えた。
 さらさらの濃い茶の髪を、目に入らないよう分け目で流す。首を伸ばし、傾け、顔を様々な角度で検分してみたが、変なところは一つもなかった。
 魅力の一つだと自覚している、唇の左下についた小さなほくろをなぞるように触れてから、髪と同色の、ぱっちりとしたアーモンドのような瞳を惜しげもなく笑みで潰し、カミーユは背後のロジェへと向き直った。

「気持ちのいい朝だね、ロジェ」
「……朝の挨拶をするにしては遅すぎるぞ」

 笑顔はよく「可愛い」と言われるので自信があったのだが、それくらいで動じてくれるような少年ではない。一言でカミーユの言葉と笑みを切り捨てたかと思うと、ロジェはつい、とそっぽを向くように廊下の方へ顔をやった。

「掃除の人間を待たせてる。早く降りろ」
「うん、分かった」

 階段を下りると、踊り場に使用人が立っていた。本当にすぐそこで待っていたらしい。

「待たせたな、これで無人だ。後は頼んだ」
「はい、ロジェ坊ちゃま」

 坊ちゃま、と言う言葉に思わず吹き出すと、先を歩いていたロジェの小さな頭が振り返った。ぎ、ときつい眼差しが飛んでくる。

「言わせてる訳じゃないからな」
「分かってる。分かってるけど、……ふふ」

 階段を下りた先のフロアには、廊下の両側にぎっしりとドアがついていた。ご丁寧にも、それぞれのドアに小さなネームプレートが提げられている。
 自室――「Camille」の名がついているドアを目指そうとして、ふと思い出すように芽生えた感情に、カミーユは足を止めた。

「ロジェ、僕、お腹減った」
「……ああ」

 ひょいと眉を上げて、ロジェは廊下の手前を折れた。折れた先の廊下にもドアが並んでいるが、先ほどの廊下よりも個数が少ない。大きな部屋が並んでいるのだ。
 そのうちの一つ――食堂のドアを開けて、ロジェが中に入る。中には、昼だからだろう、先客が長い机の真ん中辺りを陣取っていた。

「エレーヌ」
「あら、カミーユ。おはよう、起きたのね」
「おはよう」

 座っていた人物――エレーヌは、なんとも言いがたい色香を纏う女性であった。
 正確な年は知らなかったが、二十の半ば頃だっただろう。肩につくかどうかと言った長さの金髪はウェーブがかかっていて、起き抜けだからだろう、さっぱりとした装飾の少ない服装をしていたが、それでも体つきの豊満さが見てとれた。

「エレーヌもこれから食事?」
「私はもう終わったの。これからカフェでも飲もうかなと思ってるところ。あなたもどう?」
「じゃあ、もらおうかな」

 彼女の向かいに腰かけながらそう言うと、ウィ、と短く相槌を打って、エレーヌは自分と入れ違うように椅子から立ち上がった。階下にある台所へと向かったのだろう。
 食堂の脇にある戸棚を開いていたロジェが、陶器の小さなカップとともに戸棚から出した袋を持っていた。
 大きな家畜の内蔵を洗ったものだろうか、袋はうっすらと透けていて、赤黒いもので満ちていた。

「ほら」
「ん」

 カップを受け取り、机に置く。袋の先端の封を切ったロジェが、カップにそれの「中身」をなみなみと注いだ。
 どぼどぼと音を立てて注がれていく赤黒い液体。注がれる間にふわ、と立ったのは血腥いにおいであった。
 鮮度は落ちているが、血である。
 見ようによってはグロテスクなカップをなんの抵抗もなく口へ運び、中身を飲み下しながら、カミーユは分かりやすく溜め息を吐いた。

「美味しくない!」
「わがままを言うな」
「だって! こんなに美味しくないものを飲まないと生きていけないなんて、本当につまらない」

 空になったカップをだん、と勢いよくテーブルに置くと、今度はロジェが嘆息した。少し呆れた顔で、続ける。

「お前はまだ美味い血を知らないからそう思うだけだ」
「……」

 台所から戻ってきたエレーヌのたおやかな手が横からひらりと現れて、空になったカップを取り去ったかと思うと、代わりに湯気の立つカップが置かれた。中には、黒々とした液体――コーヒーが入っている。血の代わりにそれを一口啜って、カミーユは苦々しげに吐き捨てた。

「知らないよ、そんなの。知らないからここにいるんじゃない」 

 カミーユは、パリのマレ地区にひっそりとある名のないクラブの住民である。
 名がないと呼びづらい、と客から「プライベート・ブラッド」と呼ばれることもあるこの会員制クラブは、一つだけ、他の社交クラブと大きく異なる点があった。
 接客をしている者が「人間」ではないのだ。
 カミーユは、血を口にしなければ生きていけない吸血鬼である。
 伝承のそれと違い、流れる水も、銀も、太陽も身を傷つけはしない。ヒトと違うのは、血を飲まなければならないと言う一点だけだ。
 ただ、その一点に条件があった。カミーユたち吸血鬼は、相性のいい人間からしか生き血を吸うことが出来ないのである。
 吸血鬼側からは一目見れば気づくと言われる血の相性がいい人間を探し、見つかった暁にはその人間と契約させ、吸血鬼を引き取らせる――その為に、クラブは存在している。
 ヒトの生き血を吸うことが出来ないクラブ所属の吸血鬼たちは、カミーユがたった今口にしたような、なんらかの生き物を殺して取り出した血を飲まなければならない。
 美味いと感じたことのないそれを飲む度、人間たちのように食物で生きることが出来ればどんなに楽なことか、と思わずにはいられない。だって、クラブでの接客の際や、口寂しくなった時に食べるそれらは普通に美味しいのに、ただ腹に溜まるばかりで、栄養になりはしないのだ。効率が悪いったらない。

「まぁまぁ。きっとカミーユにだって、そのうち素敵な人が現れるわ」

 うっとりと夢見るような口調で言って、エレーヌはテーブルに寄りかかりながら、手にしたカップからコーヒーを一口飲んだ。どうやらロジェの分も用意したらしい、そのすぐ横で、少年がコーヒーのせいで苦くなった吐息とともに声を吐き出した。

「そう。エレーヌにも、お前にも、いずれ相性のいい人間が現れる」
「……本当に?」
「ああ。生きながら死に、死にながら生きるお前たちに息を吹き込む誰かが、きっと」

 生きながら死に、死にながら生きる吸血鬼に息を吹き込む存在――これまで幾度となく繰り返された、口癖と言ってもいいロジェの文句を聞きながら、カミーユは手元へ視線を落とした。
 手首では、外見上は人間となに一つ変わらぬ吸血鬼を示す、名の刻印されたタグのついた金色をした細い鎖のブレスレットが、どこからか差し込んでくる光を受けて鈍く光っていた。
 確かに、エレーヌのように大人になってもクラブにいる吸血鬼もいるが、それでも相性のいい人間が見つからず、ここで死んでいく吸血鬼と言うのは、今まで一度も見たことがない。
 だから、ロジェやエレーヌの言う通り、きっといつか、カミーユが生き血を啜りたいと思うような、相性のいい人間が現れるのだろう。
 それが、嫌だった。だってそんなの、望んでいない。
 ちら、とロジェを一瞥する。カミーユの眼差しには気づいていないか、はたまた気づいていても気にしていない様子でコーヒーを飲む小さな姿をうらめしく眺めながら、カミーユは彼のことを思った。
 ロジェ。クラブを取り仕切る、永遠の少年。
 永遠と言うのは、恐らくだが比喩ではない。少なくとも、カミーユがこのクラブで物心ついた時から、ロジェの姿は変わることなく、十代半ばの少年のままであった。
 そうであることが当然のようにすごす態度を不思議に思ったエレーヌが、「あなたは人間なの、吸血鬼なの」と尋ねたことがあるそうだ。

お嬢さんマドモアゼル、世の中にはよく分からないままにしておいた方がいいこともあるのさ』

 返答は、皮肉っぽい笑みとともになされたと言う。
 吸血鬼だって年を取る。カミーユもエレーヌも例外ではない。
 だが、ロジェは違う。
 それが、どうしようもなくカミーユを惹きつけた。
 見た目にそぐわぬ威圧感と、クラブの運営をなんなくやってのけるその手腕。
 人間でもない。吸血鬼でもない。であるならば、彼は一体なんなのだろう。
 幼い頃に覚えた興味は、尽きることなくカミーユの心にある。何年経っても彼は「不思議な少年」のままであったが、明日もそうであるとは限らない。
 否、実際のところ、彼がどんな生き物かなんて、どうでもいいのだ。
 ただ、澄ました顔を崩すところが見てみたい。我を忘れるさまが見てみたい。

(そんなこと、今まで一度たりともないけど)

「カミーユ」

 ロジェが、不意に名を呼んだ。それだけで胸が跳ねて、なにを言うのだろうと待ち構えてしまう。

「なに?」
「今夜、客をつけてある。どこかに行ったりするなよ」
「今日も? また?」

 ゆうべだって客を取って、体には未だに違和感が残っているのに、人使いが荒い。

「エレーヌは予定なしだ。フロアに下りろ」
「はぁい」

 フロアと言うのは、主に吸血鬼が人間相手に酒の相手をしている大広間のことである。
 くい、とカップを傾け一息にコーヒーを飲み干し、エレーヌはにっこりと華やかに笑んだ。

「それじゃあ私は部屋に戻るわね。読みかけの本があるの」

 エレーヌのことだ、きっと恋愛小説だろう。食堂を去っていく姿を横目で見て、カミーユも立ち上がった。

「夜眠れないなら、もう一寝入りする」
「時間になったら起こすからな」
「もう、分かってるよ」

 おざなりに返事をして、食堂を出る。
 クラブは広く、複雑な構造をしている。二度ほど角を曲がり、長い廊下を歩いて部屋の前に辿り着くと、まるで見計らったように隣のドアが開いた。

「……」

 ふわ、とウェーブのかかったアッシュブロンドの髪が揺れる。
 青の瞳が、伏せられた睫毛の下で胡乱に光った。
 隣室の青年吸血鬼、シリルである。
 年齢二十代半ば頃の彼は、エレーヌとは異なった美を備えている。華やかで生き生きとしたエレーヌとは違い、いつも夢を見ているように生気がないのだ。その現実味のない美しい横顔がゆっくりと動いて、カミーユを捉えた。

「……やあ」

 細い声が投げかけられる。話しかけられた以上無視をするのもなんとなく気まずくて、カミーユは仕方なしに口を開いた。

「今起きたの?」
「ん……」

 曖昧に頷くと、シリルはカミーユとすれ違い、食堂へ向かっていった。
 その背中を一瞥して、吐息する。
 カミーユはシリルが苦手だった。表情が乏しいのでなにを考えているのかよく分からないし、言葉も少ないので好き嫌いも知らない。

(顔はいいんだから、夜に客でもつければいいのに)

 そう思い、何度かロジェに言っているのだが、いつもロジェの返答は同じだった。

『シリルみたいな感情を表に出さないやつじゃ、客だってつまらないだろう。あいつは夜の仕事には向いていない』

 吸血鬼に与えられた仕事は、大広間で客に酌をすることだけではない。
 一部の客――クラブに多額の資金援助を行っている者相手に、娼館のように吸血鬼を宛てがうのだ。
 エレーヌも、そしてカミーユも、その「夜の仕事」をしている吸血鬼である。
 吸血鬼の誰もがその仕事をする訳ではなく、ロジェに選ばれた者だけが客をつける。カミーユは、もっぱらそう言う「趣味」のある男を相手にすることが多かった。
 契約をし、人間の元へ行った後、そう言ったことを求められても躊躇うことのないよう、夜の仕事を行わない吸血鬼も含め、全ての吸血鬼が性技の教育を受ける。
 だからシリルとて、相手をしろと言われたら出来るはずだ。

(ま、確かにあいつが喘いでるとこなんて想像つかないし、そもそも声なんて出すかも分からないけど)

 ドアを開ける。すぐ視界に飛び込んできたベッドへ一息に寝転がると、カミーユは枕に顔を押しつけた。

(贔屓してる……とは思わないけど)

 シリルは、夜の仕事をしないだけではなく、大広間に降りることもあまりしない。時たま降りて人間と話をしたかと思うと、その場で思いついたでたらめな偽名を名乗ったりする。
 しかし、そんな自由な振る舞いに、ロジェはなにも言わなかった。ただ「そう言うやつもいる」と言うだけだ。

(僕が同じことしたら絶対お小言が飛んでくるのに)

 は、と吐き出した重たい息は、染み込むことなく顔と枕の間に留まる。
 つい先ほど起きたばかりだから、あまり眠たくはない。だが、寝なければ夜に体が保たなくなる。

(どうして――)

 夜に人間たちと交わる理由を尋ねた時、「その客の中にお前と相性のいい人間がいるかもしれない」と言われたことがある。
 だが、一度たりとて、そんなことを感じたことはなかった。
 吸血鬼は、一目見れば相性のいい人間に気づくことが出来るのだとロジェは言う。けれども、どうやって気づくのか、なにを感じれば相性がいい人間なのか、肝心なことを教えてはくれなかった。
 「きっと胸がどきどきして、素敵な感覚になるんだわ」と、想像を膨らませてエレーヌは言う。けれども、カミーユはそんな風には思えなかった。
 もし、高いところから突き落とされるような、愕然とする感覚だったらどうすればいいのだ。

(教えてよ、ロジェ――)

 眠気など訪れそうになかったのに、ゆうべの疲労が残っているのか、横になるとたちまちに瞼が重くなった。
 日が沈み、クラブが開いたら、宣言通りロジェに叩き起こされるだろう。
 それまでの数時間、落ちるように眠りに就く。
 目覚めのその時、揺り起こすその人がロジェであればいい。そんな淡いことを考えながらの眠りは、どことなく甘美であった。