いつか朽ちてしまうまで

(「ぼくのルヴナン」同人誌版より10年ほど後)

 ◆

  戸を開けると、一人の男が言葉もなく突っ立っていた。
 ふわふわのプラチナブロンドと、眠たげな青の瞳が特徴的な男である。見た感じ、成人してしばらくが――十年以上が経っているようであったが、ともすれば二十代にも見えた。

「お前、また裏から入ってきたな」

 こく、と小さく顎を上下させて、男は囁くように言葉を発した。

Bonsoirこんばんは, Rogerロジェ
「……茶でも飲むか、シリル」
「ん」

 開けたばかりの戸の中に引き入れ、辺りを歩いていた下男を呼び止めて茶の用意を頼む。部屋に戻ると、男――シリルは壁沿いのソファに座って、膝の上で小さく手を組んでいた。

「で、なに。薬が足りなくなった?」

 応接間ではないから、ソファは一つしかない。仕方なく(なにせ体は細い癖に背が高いから、窮屈なのだ)彼の隣に座ると、シリルは小さく首を横に振った。違うらしい。

「今日は、ロジェに相談」
「相談? お前が?」
「うん、そう」
「で、お前の先生は?」
「最近ケイ、忙しいから」
「……ああ」

 コン、と扉が叩かれる。下男からティーカップを受け取り、シリルに手渡す。

「話なら小耳に挟んだよ」

 吐息で湯気を散らしながら、口を開く。

「パリ大学のオーバン教授が亡くなったんだってな」
「うん。人間のお葬式、初めて出た」

 シリルの細い吐息が、霧みたいな湯気を吹き飛ばす。そのさまを見ながら、ロジェは小さく肩を竦めた。

「……まぁ、これでお前の先生は晴れてパリ大の教授だ。もう気安く先生なんて呼べないな」

 皮肉半分、本音半分だ。シリルはついている。残りの人生、衣食住に困らないだろう。

「ケイが」

 シリルが、ぽつりと呟いた。平素から中身の籠もっていないような話し方をする彼だが、いつもに増して、空虚な声であった。

「ケイが泣くの、久しぶりに見た」
「……」

 思わずひくりと眉が動くのを自覚しながら、紅茶を飲みこむ。なんだ、本当に相談がしたかったのか、こいつは。

「……あの教授殿を支えられるのは、お前だけだよ、シリル」
「支える?」
「そう。慰め、傍にいてやれるのはお前だけ。そして、それを望んだのは他ならぬあの先生だ」
「うん」

 Merciありがとう、と小さく呟いて、シリルはゆっくりと茶を飲んだ。

「……お前も老けたな。と言うより、大人になった」
「ロジェは変わらないね」
「……ふん」

 ふ、と微かにシリルが笑う。その笑い声をかき消すように、階下から慌ただしい靴音が響いてきた。

「革靴の音。先生じゃないか?」
「ん」

 ふ、とシリルが顔を上げるのと、ばんと勢いよく書斎のドアが開かれたのはほぼ同時であった。

「やっぱり、ここにいたのか」
「分かってただろ、ムッシュ……いや、プロフェスール・ドゥブレ?」
「……やめてくれ」

 慣れてないんだ、と肩で息していた男が吐き捨てる。肩で結ばれた黒の髪、柳の眉、切れ長の一重の目、細い鼻梁、冷たく取っつきにくいようにも見えるその外見の男は、見てくれで損をする気弱な男であるのを、ロジェは嫌というほど知っていた。

「先生も老けたなぁ」

 出会ったばかりの頃は黒々としていた髪は、わずかではあるものの、ちらちらと白いものが混じっている。年を重ねてくぼんだ眼窩の目頭を押さえながら、彼――パリ大学地質学教授、ケイ・リー・ドゥブレはうめくように吸血鬼の名を呼んだ。

「シリル、帰るぞ」

 声に応えるように、すっくと隣に座っていたシリルが立ち上がった。
 言葉もなく彼の横に立って、ちらとロジェを一瞥する、その夢見ているような眼差しは彼の幼い頃を思い起こさせたが、しかし、そうして自らの意志でもって彼の隣に立とうとする、その心根だけは、ロジェが育てたものではなかった。

「落ち着いたらクラブに金を落としてくれよ、キョージュ」
「……だから」
「はいはい、今日は早く帰れ」

 知らぬうちに漏れる笑いもそのままに、ひらりと手を振る。
 吸血鬼が老いていく姿を見られるのはそうあることではない。彼らは持って生まれた性質、美しさゆえに、生き長らえることなく死んでいく者たちも多い。
 こうしてシリルがゆっくりと年を重ねていくさまを見られるのも、あと何年だろうか。五年だろうか、十年だろうか。もっと長ければいいが、この先生の気概が保つだろうか。
 クラブの吸血鬼が皆幸せになればいいとは毎日思っているが、それが叶わぬ夢であることもまた、十二分に知っている。だからこそ、目の届く者だけでも、と思うのは、クラブの管理者としてのわがままであろうか。
 扉が閉まり、ケイがシリルを諫めるような声が遠ざかっていく。それもあと何回聞けるだろうかと考えながら、ロジェはぬるくなった紅茶を流し込むのであった。