足りない我らは

(「ぼくのルヴナン」より時間軸を遡っています)

 ◆

 切り揃えられたブラウンの髪が食堂のテーブルに広がっている。

「エレーヌ」

 広がった髪がたわんで、白く美しい額の辺りだけが見えた。

「エレーヌはこの仕事が嫌になったりしないの」

 変声期を終えたばかりの少年の地を這うような声を受け止めながら、はてなんと返そうかと考える。自分がどう答えようが、彼――カミーユの望むものではないと分かっているからだ。

「そうねぇ。私はよく分からないわ。だって、このクラブから外に出たことなんて、買い出しの時くらいしかないし」

 彼の背後に回り、持っていたグラスを顔のそばに置いてみると、伏せていた顔ががばりと上げられた。残っていた血を舐めるように啜ると、カミーユは赤々とした唇を拭うこともなく吐き捨てる。

「こんなまずい血ばっかりだし、客は馬鹿ばっかり。どうして僕たちはこんな風なんだろ」
「……分からないわ」

 繰り返して、エレーヌは真下で俯くなめらかな後ろ頭をそっと撫でた。

「いい子ね。ロジェもきっとそう思ってるわ。嫌な客がいたら彼に言いなさいな。私だってそうしてるわよ」
「……ロジェは」

 はぁ、と漏れた溜め息は血腥いにおいがした。確かに、これがいいにおいであるとはエレーヌも思わない。
 うまい血、陶然とする香りの血。そんなものがあるとロジェは言うが、そんなものは書物の中のお伽噺のようだ。

「ロジェは僕のことなんてなんとも思ってないよ。たくさんいるうちの吸血鬼の一人。それだけ」
「あのねぇ」

 ぶすくれる両肩に手を置いて、撫でさすりながら語りかける。

「そんな訳ない。うちのロジェは吸血鬼思いの素敵な人よ」
「でも」

 はぁ、また溜め息を吐いて、カミーユは机に突っ伏した。

「そんなのってないよ。どれも大事だなんて、そんなの欲しくない」
「……カミーユ」

 彼がなにを言いたいのかはなんとなく分かったが、それでもエレーヌは返す言葉を持っていなかった。
 エレーヌは欲を知っている。けれども恋はまだ知らなかった。それも、成就しないであろう恋の乗り越え方なんて、まるきり分からなかった。

「いい子ね、大丈夫よ……」

 なにが大丈夫なものか。不透明な靄の中でもがくことの、なにが。
 そう思っても、彼の体に触れ、優しくなだめることしか出来ない。
 血。恋。感情。
 きっと彼も自分も、そして彼が毛嫌いする隣室のシリルだって、大事ななにかが足りていないのだ。